遊君別当の権限で六条に遊郭を作ったよ、そしてまじでやばいところが焼かれたようだ
さて、伊勢本宗家と今川氏との申次の見習いや礼法の習得をしている俺だが、しばらくして正式に遊君別当職につくことが出来た。
「よしこれで動けるな。
まずは遊郭を作るか」
遊郭の郭は曲輪と同じ意味で、土塁、石垣、堀などで区画した区域の中のこと。
「こういう時に備中ぐわは役に立つってね」
まずは外京の六条あたりの傾城屋を徴発し、警備兵として雇われていた荏原荘から引き連れてきた兵土を使って、土をほって堀を作り、それを土塁として内側に積み上げることでまず郭としての区画を作る。
”伊勢家の名において、ここに入り乱暴狼藉を働いた者には二度と遊女を派遣しない”
そういった立て札を建て見張りの兵も置く。
この時代は陣中に遊女を呼んで退屈しないように酒宴などを行なうのは当然なのだが、それができなくなれば兵の不満が膨れ上がるからな。
これによりあちこちでバラバラに辻角に立って春を売っていた私娼たちがぽつぽつと集まってきたし、諏訪大社の流れ巫女や熊野比丘尼などもやってきた。
「ここで保護する代わりに月に一貫文をおさめてもらう
そのかわり住居・衣食などはこちらで用意する」
「それはたすかりますわ」
その中に荏原荘と同様に竹や笹を材料にし、寒さをしのぎやすい大型の竪穴式住居やことができるような中型の竪穴式住居をまず建てた。
当然だが床には筵や毛氈などを敷き詰め、竹を使ったすのこ型ベッドに畳を乗せて見栄えを少しでもよくしたりはしたが。
こちらはさほど身分が高くない者用だな。
「見た目はアレですけど、暖たこうていいですな、これ」
その後、石を列状につみあげて床下をつくり、その上に下側には粘土を貼り付け、反対側には油紙をはった床板を敷いて気密性を高め、床下の一端に台所の釜を設置して焚口を設けて、焚口からの熱と煙が床下を流れて部屋の反対側にある煙突に抜けるという構造に仕上げた掘っ立て小屋形式の住居を徴発した家屋を解体して作り上げた。
構造的には大きなロケットストーブのようなものでもあるが、通過する熱によって床下の石や粘土が暖められ、石からの放射暖房となるからとても暖かい。
心配なのは一酸化炭素中毒などだが、この時代の掘っ立て小屋形式の建物は気密性はないに等しいのでそこまで心配はいらない。
ここには身分が高い守護大名や公家などの客を呼んで酒宴や夜伽を行わせ金を取るようにしたのだ。
「これは暖こうて、ほんにいいですな」
「うむ、普通なら寒さで震えているところだ」
これは韓国で使われてる伝統的な床暖房のオンドルだが、これ自体は奈良時代に日本に渡来している。
だが奈良から平安期は温暖であっため、冬の寒さより夏の暑さを凌ぐことが優先された結果廃れていった技術だ。
昨年の相国寺の戦いでお互いに損害が大きかったこともあって冬の間しばらく大きな争いはなかったのだが、応仁2年(1468年)3月17日に北大路烏丸で大内政弘と毛利豊元・小早川煕平が交戦、3月21日には、稲荷山の稲荷社に陣を張って山名側の後方を撹乱・攻撃していた細川方の骨皮道賢が攻撃されて討死し、稲荷社が全焼した。
「おいおい今度はお稲荷さんかよ。
いい加減にしないとホントやばいぞ」
さらに5月2日には細川成之が斯波義廉邸を攻め、5月8日には細川勝元が山名宗全の陣を攻撃した。
そして斯波義廉は独断で関東の古河公方足利成氏に和睦を提案し山名宗全と畠山義就の連名の書状を送ったが、足利義政は独断で和睦を図った斯波義廉を許さず7月10日に管領職を解任、細川勝元を復帰させて任命、義廉は家督と3ヶ国守護職も取り上げられ、松王丸に替えられた。
8月1日には細川勝元の兵が相国寺跡の畠山義就の陣を攻めたが、その後戦闘は次第に洛外に移り、山科、鳥羽、伏見、嵯峨などで両軍が交戦した。
そして衝撃的な情報が入ってきた。
「伏見の長尾天満宮が焼かれた?」
「はい、焼け残ったのは五重塔など極一部のみとのことです」
「本当かよ……まさかそっちも焼くとは」
ここに祀られているのは言わずとしれた日本三大怨霊の一人である菅原道真公と大己貴命すなわち大国主と、素戔嗚命でどいつもこいつもやばい奴らだ。
ちなみに北野天満宮の方は文安元年(1444年)の文安の麹騒動により、この頃は将軍不在であったため政治を代行していた室町幕府の管領の畠山持国の攻撃によって社殿を焼失している。
「畠山のお家騒動の原因ってこれも関係あるんじゃなかろうな?」
上御霊神社を焼いたのも畠山政長だしな。
それに加えて、長尾天満宮も焼かれたことが原因かどうかはわからないが、この後に東軍の総大将であったはずの足利義視が寝返って西軍につき新将軍を名乗ることで政治的にも幕府が完全に分裂して泥沼の状態になるのだが。