兵法や禅を学ぶために建仁寺などに行くことになった
さて、京都にいる間も子供だからと遊んでいられるわけではない。
「礼法を覚えるのは思いの外大変だな……」
まず伊勢氏は伊勢流という武家礼法の流派の家元である。
これは3代将軍足利義満が、公家には公家の礼法、武家には武家の礼法があるとして、幕府の諸行事における公式の礼法を定めた時に、その武家礼法を将軍に指南した高家が「伊勢家」「小笠原家」「今川家(後には吉良家)」とされたものだが、特に伊勢家は「内の礼法」とされる殿中の礼法の一切を任され、小笠原家は「外の礼法」として弓馬の礼法を、今川家は書と画を任されたとされており、実質的に使用機会が最も多いのが伊勢流なのである。
特に伊勢貞親は殿中諸儀礼を確立させており、これが彼の専横の原因の一つでもあると思うのだが、そんななかでも伊勢家と今川家との仲が比較的良い理由の一つが武家礼法の高家同士であり、その内容がかぶっているわけではないということにもあるのだろう。
なにせ作法を守れぬものとしての恥かき者の汚名が付けば京ではおちおち歩くこともできないのだから必死になって礼法を習いに来るものも多く、その際の付け届けの量も少なくはない。
「京の都は恐ろしき所よな」
そして政所執事という幕府の財政や領地に関する訴訟を掌る要職についている上に、申次衆という将軍に奏聞を取次ぐ役職や奉公衆という武官官僚の役目も持っているから、ある意味室町幕府の中枢部そのものでもあったんだ。
無論、将軍直属の武力と言ってもせいぜいが1万程度で有力守護大名に太刀打ちできるほどではないのだが。
そして礼法とともに禅や兵法を習うべく俺は京都五山三位の建仁寺と大徳寺に通うことになった。
建仁寺は日本最初の禅寺とも言われているが、これは間違い。
それでも日本に臨済宗を正式に伝えた栄西により鎌倉幕府2代将軍源頼家の援助を得て、建仁2年(1202年)に京都における臨済宗の拠点としては最初に建立されたのが建仁寺であり、臨済宗建仁寺派大本山の寺院でもある。
一方の大徳寺は臨済宗大徳寺派の大本山だが、寺院としての形態が整うのは正中2年(1325年)の頃とされるがはっきりはしない。
南北朝時代に後醍醐天皇が当寺を保護し、建武元年(1334年)に大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発していたが、建武の新政政権が瓦解して足利政権が成立すると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利将軍家から軽んじられ、五山から除かれて十刹の最下位に近い第9位となってしまい、第二十六世養叟宗頤により、永享3年(1432年)に足利政権の庇護と統制下にあって世俗化しつつあった五山十刹から離脱して、座禅修行に専心するという独自の道をとった寺院である。
「中断していた鍛錬や座学の続きをできるのは良いことか。
しかしどちらも大本山とは言え対照的な寺ではあるな」
大徳寺のほうが兵法の修練や禅の修養のための鍛錬が厳しく、建仁寺のほうが教育内容に政治的色合いが強い。
建仁寺はもうすぐ戦火でその建物の多くが焼かれ、安国寺恵瓊が再興することになるんだが荏原荘でやったことをここに適用できるか考えた上で金を稼ぐ方法を考えて、京都の戦火が収まったら再興をしておくのもいいかもしれないな。




