どうやら本格的な戦闘が始まったようだ
さて、伊勢貞親の話を聞いて今の状況はある程度わかった。
姉は吉日を選んで今川義忠を腰結役として十二単を構成する着物の一つである裳を初めて身につけ、お歯黒を付け、眉を剃り、おしろいを塗って殿上眉を描く、成人儀式である裳着を行い、その後に今川義忠と婚姻の儀式を行い今川家に嫁いだ。
「姉上、結婚おめでとうございます」
「ええ、私はもう他家の人間だけどこれからも仲良くしてね」
「当然ですとも、姉上」
そして京の都の状況はますます緊迫してきており、細川勝元は備中だけではなく四国など領地9カ国の兵を京都へ集結させており3月5日には元号が文正から応仁に改元されたが、4月になると、細川方の兵が山名方の年貢米を略奪する事件が相次いで起きた。
これに対しては足利義視が調停を試みているがそれはあまりうまく行っていないようだ。
山名宗全も細川勝元に対抗するように斯波義廉の呼びかけで兵を集めたが、御霊合戦で遅れを取ったとは言え山名宗全に対して、細川勝元は明らかに政治的、戦略的な手腕は勝っており、開戦時には完全に優位に物事を進め、東軍は16万以上、西軍が11万以上の兵であったと言われるが、これは誇張がだいぶ混じってるだろうから半分から四分の一くらいと考えたほうがいいだろう。
関が原合戦より多い兵力を当時集結できたとは考えづらいしな。
それはともかく細川勝元は山名方の勢力にある諸国に騒乱を引き起こすように働きかけ、実際に播磨の旧赤松領で赤松政則の家臣の浦上則宗を唆して反乱を起こさせ、さらに山名一族の分裂を細川勝元は画策し、山名宗全の次男の是豊が細川勝元に味方していたりするが、細川の一族で西軍についたものはいない。
細川の謀略で地元に反乱が起きたことから、山名の軍勢は、京都から地元へ戻って反乱鎮圧を行わざるを得ず、山名宗全は大内政弘との連携を策したがそれは早急にはできなかった。
大内にとって細川は貿易を巡る敵だが、政弘の伯父である大内道頓や九州の大友や少弐を放置して京に向かうことはできなかったのだ。
そして、応仁元年(1467年)5月細川勝元の家臣である、池田充正が軍勢を率いて上洛し、元播磨守護家の赤松政則の家臣の浦上則宗が播磨国へ侵攻した。
そしてその後に京都では一色義直の屋敷を武田信賢・細川成之の軍が襲撃したが、一色義直は直前に脱出した。
しかし、屋敷は焼き払われこれが京都での戦いの始りとなって、細川勝元は室町御所を押さえて将軍らを確保した。
その後、東軍の細川勝久邸に斯波義廉の配下の朝倉孝景、甲斐氏ら西軍が攻めかかり、応戦した細川軍と激戦を展開、東から援軍に来た京極持清を返り討ちにしたが、赤松政則が攻め上がって斯波軍を引き上げさせ、細川勝久はこの隙を見て東の細川成之の屋敷に逃亡、西軍は細川勝久邸を焼き払い、続いて細川成之邸に攻め寄せたが、東軍の抵抗で決着が着かず両軍は引き上げた。
この合戦で起きた火災で京の都は大きく焼けた。
足利義政は28日に両軍に和睦を命じたが、6月3日に細川勝元が御所巻きによって圧力を加えると、足利義政は将軍旗を足利義視が率いる東軍に下し、東軍は官軍の体裁を整え、足利義視率いる官軍は総攻撃を開始し、6月8日には赤松政則が山名教之を破った。
この細川勝元の行動に対して将軍足利義政は、伊勢貞親ら側近グループを幕府へ呼び戻そうとしだした。
義政の降伏勧告により賊軍とされた斯波義廉ら西軍諸将は動揺して自邸に引きこもり、投降しようとしたが、東軍に対し激しく抗戦する重臣の朝倉孝景の首を持ってくるよういわれて投降を断念した。
ここで朝倉孝景の首にこだわらなければ応仁の乱は意外とあっさり終わっていたかもしれなかったのだが、6月14日には大和国の古市胤栄が、19日には紀伊国の畠山政国などが西軍の援軍として到着し始め、8月23日には周防国から大内政弘が伊予国の河野通春ら7か国の軍勢一万と2千艘の水軍を率いて入京したため西軍が勢力を大きく回復してしまう。
これにより天皇・上皇が室町御所に避難し、室町御所の一郭が仮の内裏とされた。
さらに足利義視が伊勢貞親の幕府中枢復帰に危険を感じて出奔し、北畠教具を頼って伊勢国に逃亡している。
こういう状況なので俺の引き連れてきた200の兵も屋敷の警備に駆り出されているのだが、元服前の俺には今のところできることは何もないのが現状だ。
「今のところここが攻撃の的になっていないのが救いか」
とは言えもう既に京の街には防御用の堀や柵、井楼が沢山構築されており、その建築材料として、民家や寺院、公家屋敷が片っ端から解体されて民衆や僧侶、公家などは京から逃げ出す羽目に陥ったりもしている。
それまで京の都は攻めやすく守りづらいと言われる場所だったが、戦場の主役が騎馬武者から歩兵に変わったことでその傾向も変わりつつあったのだろう。