家族全員で京へ上がるとしようか
さて、どうやら細川・山名の衝突が確定的になると伊勢貞親や父の伊勢盛定は将軍の赦免を受けて京都へ復帰していたらしい。
そして伊勢備中守貞藤がまだ未成年な俺の代わりにここ荏原荘の管理を代行することになり家族全員で地侍や兵200人ほどを連れて上洛することになった。
「では叔父上、行ってまいります」
「うむ、ここ荏原荘の管理や維持防衛は私に任せてくれ」
「ええ、わかりました、お任せいたします。
では母上、姉上、千寿丸、参りましょう」
「そうですね」
「ええ、そういたしましょう」
「わかったよ兄ちゃん」
母上と姉上は輿の中に入って担がれて、俺は馬で、千寿丸を含めた他のものは徒歩でその周囲を固める。
京に到着したら姉上は両親や伊勢本家の後見で成人の儀式である裳着を行って然るべき家に嫁ぐことになるだろう。
戦乱の世であればこそ婚姻による縁というのは意外と馬鹿にはできない。
そして俺たちはいざというときのために打刀を持ち、兵には長槍を持たせている。
「道中何もなければよいのだがな」
俺がそう言うと従兄弟の大道寺重時も頷いた
「そうですなぁ、これだけの数で歩けば賊は寄ってこないと思いますがね」
俺だけが上洛するならこんなに仰々しく兵を率いる必要もないが母上と姉上も一緒となればそうは行かない。
備中から京へ上るには山陽道をひたすら東に歩くことになるが、平安時代から鎌倉時代にかけては年貢の輸送は瀬戸内海を使うことが多かったこともあって国による整備が行われなくなり、山陽道はぼろぼろになっていたものの、元寇のときに西の九州からの伝令が東の鎌倉へ走らなければならないこともあって北条氏が整備を行わせたことで多少改善され、その後もそれなりに整備はされている。
備中では小田川沿いの平地が山陽道となっていることもあってまずは荏原荘からそのまま東へ向かうことになる。
美作方面から山陰方面へ抜ける道もあって意外と交通の便は良いんだな。
今頃は駿河守護の今川義忠が兵1000騎を率いて上洛し、花の御所に入って将軍へ謁見している頃だろうか。
駿河一国の守護の兵でも1000なのだから俺が率いることができるる兵が200でも実は結構無理したほうだ。
もしかしたら俺もこのまま京都で、本家である京都伊勢氏の一族の伊勢貞道の養子になるかもしれないが、留守を任せた伊勢貞藤が細川勝元と対立して応仁の乱では西軍に属していたりすることで、東軍に属した今川義忠と協力する伊勢貞親や父の伊勢盛定、養父の伊勢貞道と対立するかもしれなかったりするのも困ったことだ。
今川義忠は伊勢貞親の屋敷をしばしば訪れていて、父の盛定が本宗家と今川氏との申次を務めた関係で姉上が義忠の妻となったらしいんだがな。
今川義忠と姉上の結婚の時期は今年応仁元年らしく、それを逃すと今川義忠が駿河に戻ってしまうから、やはり今上洛することが必要なのだろう。