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閑話:有力な人物たちのそれぞれの思惑 山名宗全と細川勝元

 さて、大まかに言えば享徳の乱鎮圧のための幕府の中での主導権争いに端を発した小競り合いは日本各地の有力大名がほぼ参加することになる応仁の乱へと発展した。


 山名宗全の山名の家系は新田氏庶流で源氏だがもともと足利氏と新田氏は鎌倉時代の頃から仲が良いわけではない。


 もっとも山名氏は山名義範が鎌倉時代に早くから源頼朝に従って御家人となり、伊豆の国主に推挙され伊豆守となったこともあって、本家である新田氏が頼朝のもとへ参上することが遅れたことで鎌倉時代に逼塞していたのに比べ、大きな力を持っていたが。


 南北朝時代に山名時氏は縁戚の足利尊氏に従って戦い伯耆国の守護に任じられ、以降は山陰地方の有力守護大名として、赤松氏や京極氏、一色氏と並んで四職家の一つになった。


 一時は長男の山名師義が丹後・伯耆、次男の義理が紀伊、3男の氏冬が因幡、4男の氏清が丹波・山城・和泉、5男の時義が美作・但馬・備後、師義の3男の満幸は新たに播磨の守護職も得て、全国66か国ののうちの11か国を山名氏が守護として占めたこともあり「六分一殿」と呼ばれたこともあったが、明徳の乱で一時期没落する。


 だが、嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で第6代将軍の足利義教を赤松満祐が暗殺した際に、山名持豊が赤松氏討伐の総大将として大功を挙げ、この功績によって山名持豊は但馬・備前・美作・備後・安芸・伊賀・播磨播磨の守護職を与えられ、翌年の嘉吉2年(1442年)には出家し宗全と名乗っている。


 そして文正の政変で御所巻きを行い、政所執事の伊勢貞親や季瓊真蘂らを失脚、追放し、肩入れをしている畠山義就を上洛させ、将軍と対面させた。


 山名宗全は幕府の四職という権力者のひとりではあったが、将軍と対立することもしばしばあり、中央政治にはあまり興味がなく、基本的には武人の大将であって、畠山義就と関係を深めたのも性格的に波長が合ったからであった。


 また気まぐれにコロコロと方針の変わる足利義政ら幕府中枢に振り回された斯波義廉は、その身を守るためにも山名宗全に接近するようになったし、細川勝元と大内教弘の間で日明貿易の利権を巡って争いが起こっているが大内教弘の妻が宗全の養女であった関係もあり、彼が死んだ後に家督を継いだその息子の大内政弘も勝元と争い山名宗全を頼ることになる。


 そして、彼はこういった者に頼られるといやとは言わないタイプでもあった。


「これも全て今の公方が悪いのだ…

 さっさと奴を引退させ混乱を収束させようではないか」


 一方の細川勝元の細川氏ほそかわしは、足利氏の支流で鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、細川和氏・頼春兄弟やその従兄弟の顕氏・定禅らが足利尊氏に従って闘った。


 和氏と顕氏は、京の戦いで破れて九州に落ち延びる時に尊氏の命により四国に渡り、阿波、讃岐を中心に勢力を伸ばして河野氏などの南朝方と争うが、細川氏もまた有力な守護大名へと成長した。


 細川氏の宗家である細川京兆家は、摂津・丹波・讃岐などの守護職を世襲したと同時に、代々室町幕府の管領職任命を受け三管領の地位を占めた。


 更に細川家の分家が阿波・和泉・備中・淡路・土佐の守護代的立場として本家を支えてもいた。


 そして、嘉吉の乱で滅んだ赤松の血を引く数少ない生き残りである赤松政則が将軍の足利義政に個人的に気に入られていた事や、幕命に背く行為を行っていた山名を足利義政が警戒していたこともあって赤松家再興を許可しようとする。


 しかしもともと赤松は楠木正成らと共に南朝の主力として闘った悪党であり、山名としてはその勢力をそごうと度々播磨へと侵攻をしていたこともあってそれに猛反対したが、細川勝元は山名と細川の間の緩衝地帯として赤松の再興に賛成したのである。


 赤松政則が加賀半国の守護と成ったことで、赤松家を再興させたことは山名宗全の逆鱗に触れた。


 さらに細川は勘合貿易の問題から大内や、河野と敵対していたが、宗全がこれを支援することでも、細川と山名の対立が深まった。


 基本的に細川勝元は足利幕府の政治中枢そのものであり、将軍足利義政を支持していたが、御霊合戦にて将軍の約束を守って自分が非難され才幹を疑われる立場になったことで、将軍への遠慮というものを投げ捨てた彼は京都に留まり続け、細川京兆家の当主として自派の大名や国人らに自身に加勢するように文を送った。


「おのれ幕府に歯向かう山名宗全とそれに従う者たちめらが!

 それが幕府の根幹を揺るがす大乱を呼ぶとわからぬのか!!」


 両者とも現状の混乱を鎮めたくての行動であったが、その考えは正反対であったのが大乱の発生の理由であったろう。


 そして将軍の足利義政であるが……。


「どうしてこうなった?」


 と呆然としていたがほとんど自業自得である。

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― 新着の感想 ―
[良い点] いつも楽しませていただいています。 応援しています。 [一言] 最初、この小説、時代背景の説明多すぎじゃね?と思い、作者さんをチェックして水源さんだと気づきました。 もともと島津四兄弟や董…
2019/11/18 23:49 退会済み
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