やはり応仁の乱が勃発してしまったか
応仁の乱の直接的な原因となったのは、結局は将軍足利義政が積極的に側近と守護のお家騒動に介入して、しかも、支持するものをころころ替えたことだ。
「情報も錯綜してて、どう考えても戦乱が近い事を考えれば情報整理も必要だろうし、ここからめちゃくちゃに情勢がこじれることもあるから、整理するためにも笹の葉で漉いた紙に記録を残しておくか」
俺は歩き巫女や坊主、商人などからはいってくる京の情報を紙にある程度まとめて書き記すことにした。
応仁の乱は京都が主戦場になり、公家や守護たちの家はもとより、内裏や多くの神社仏閣も焼かれたことから公的な記録も殆ど残っていないはずだしな。
それはともかく将軍としては関東の享徳の乱の鎮圧は必要で、足利将軍家は直轄の領地すなわち直属の兵力をほぼ持たない以上は自分の言うことを聞いて軍事力がある守護大名の存在はたしかに必要であったが、人間には感情もあれば地位名誉や生活への執着もあることを理解できていたかはいまいち疑わしい。
そして、幼い将軍を擁立して政治的実権を欲した伊勢貞親らは、足利将軍家と微妙な関係の続いている山名家を牽制するために、赤松家の復帰にも積極的であったため、実際に兵を動かしている有力守護大名のほぼ全員の反感を買っていたが、特に山名宗全が怒りを爆発させたため、伊勢貞親らは追放された。
畠山義就と山名宗全は畠山義就が一時的に家督を継いでいた時に、大和の国人同士の騒乱鎮圧のために共闘していたりもしたため面識もあり、畠山義就と全面的な抗争を行っている、畠山政長は細川勝元と関係が深かったこともあって、畠山政長に勝つために畠山義就は山名宗全に軍事的な協力を求め、山名宗全はそれに応じた。
本来であれば娘婿でもあり領地が隣接している細川勝元を敵に回すような決断をすることはなかっただろうが、山名宗全は嘉吉の乱で没落した赤松家の領土を押さえているのに対して、赤松家の一族や家臣は伊勢貞親らを介して、足利義政に赤松家の旧領復帰を求めていたし、それには細川勝元が加わっていると疑っていたから簡単には事は収まらなかった。
そしていつまでも享徳の乱への介入を止めないことで、各地の守護大名に軍役の負担をかけ、内紛を起こさせている足利義政にはもう将軍職を降りてもらい、足利義視なり足利義尚に将軍になってほしかったのも事実だった。
このあたりは政治家として享徳の乱の鎮圧は必要不可欠と考えていたようである細川勝元とそもそも考え方が合わなかったようである。
そして文正元年(1466年)に細川勝元と山名宗全らが伊勢貞親一派の追放を求めて将軍足利義政の邸宅を兵士で包囲してそれを実行させたように、御所巻と呼ばれる諸大名の軍勢が将軍の御所を取り囲み、強行的に要求や異議申し立てを行う行為は頻発していた。
文正元年(1466)12月26日に、畠山義就は軍勢と共に上洛を果たし、翌年の応仁元年(1467年)の1月1日の正月行事の1つ、”歳首の椀飯”は畠山政長の下で行われたが、翌日2日の足利義政の畠山政長邸への御成が急きょ中止されて、将軍御所に畠山義就を招いての足利義政と畠山義就の対面行事が行われ、1月5日には畠山義就が宗全邸で開いた酒宴に足利義政が出席、その席で義政は畠山義就の畠山氏総領を認め、畠山政長に春日万里小路の屋敷の明け渡しを要求。
これに当然畠山政長は反発したが翌6日には畠山政長は管領職を罷免され、その後任には山名派の斯波義廉が就任した。
これに対して畠山政長や細川勝元は将軍御所を包囲して形勢を逆転しようと、15日に行動に起こそうとしたが、細川勝元の正室や日野富子がその情報を手に入れそれを山名宗全に密報したため、山名宗全や畠山義就は、先制して将軍御所を占拠、足利義視も山名宗全が確保する。
山名宗全は自邸周辺に協力関係にある守護大名の兵を多数集め、内裏と室町御所を囲み足利義政に畠山政長や細川勝元らの追放を願い出て、これを知った細川勝元・畠山政長・京極持清らがそれぞれ御所の西側・北側・南側に布陣して御所への攻撃を企てた。
足利義政は細川勝元らの追放は認めなかったが、諸大名が双方に加担しないことを条件に畠山義就による畠山政長への攻撃を認めたため、 畠山政長は自らの邸を焼き、兵を率いて上御霊神社に陣を敷いた。
一方義就は後土御門天皇や後花園上皇、伏見宮貞常親王らを内裏から室町御所に避難させた後に、山名宗全や斯波義廉、朝倉孝景らの加勢をうけて政長を攻撃したが、細川勝元は義政の命令に従って援軍を出さなかった。
義就達と政長の戦いは夕刻まで続いたが、兵力差の差は大きく政長は夜半に社に火をかけ、自害を装って逃走し勝元邸に匿われることになり、勝元は「弓矢の道」に背いたと周囲から激しい非難を受けた。
そして室町御所が山名軍に占拠されたために、細川勝元は形式上は幕府中枢から排除された。
しかし、将軍の約束を守って自分が批難される立場になったことで将軍への遠慮というものを投げ捨てた細川勝元は京都に留まり続け、細川京兆家の当主として自派の大名や国人に自分に加勢するように文を送った。
それに応じて四国などから兵が続々と上洛するとともに細川家が勘合貿易をしていたことで手に入れていた秘密兵器を細川勝元はその後の闘いに投入する。
すなわち火薬を使った火器が戦場に投入されることであり、具体的には原始的な鉄砲である火槍や火薬の力で石を飛ばす発石木や飛砲、太い木の矢を打ち出す火箭などが前線に投入されたのである。
何より火薬が植物油よりも放火する際の火の回りを早くしたことによって、京都の町は火災により甚大な被害をうけることになる。
そして、上御霊神社が焼かれたことによって寺や神社の間でも動揺が走り、それらの情報はかなり早く俺に届くことになるが、細川の支配下にあるここ備中からも細川勝久が上洛を開始し兵士が引き抜かれていった。
「これに乗じて備中でも荘園の押領に動くやつが出るか。
そろそろ迎撃のための集団戦の統一行動の備えをせねばな」
本当の地獄はここからはじまるのだ。




