そろそろ京の都へ戦火が飛び火するか
さて、皆で飲み食いやいざとなれば寝泊まりもできる、集会場というか宴会場のでかい竪穴式住居を作ったことで、それぞれの家で穀潰し扱いされている、次男次女以降の者たちも暖かく眠ることができるようになった。
「いざという時に戦うのは彼等彼女等だからな、大事にせねばなるまい」
基本的には武家では側室と正室の力関係だの乳母と乳兄弟関係の力関係などで必ずしも長男が家を継ぐわけではないが、惣村の農民の妻は一人だけなので基本的には長子相続だ。
平安時代末期から鎌倉時代までは農業経営者である武士たちの相続は均等配分で、たとえば子供が5人いれば、財産は皆に5等分されたりした。
それでも周囲にいる他の一族を滅ぼしたり、開墾によって土地が増えているときには良かったが、まず関東における北条一族にとって目障りな主要な豪族が族滅されると関東ではそれ以上土地を得ることが難しくなった。
そうすると東北や近畿、九州などへの地頭の任官も増えて朝廷との軋轢も増えて、それが承久の乱の一因となった。
そして承久の乱で敗北した朝廷側についた豪族たちの荘園などを奪いながらも分割相続はそのまま行われ、それが九州まで広がった時に分割相続制度は完全に行き詰まった。
平安時代から鎌倉末期は分割相続をしても得られる土地があったが、それがなくなれば相続する際の土地がどんどん小さくなっていき、当然一族郎党を抱えられなくなっていく。
そして流通や商業により経済力を得た悪党に近畿地方の御家人はどんどん土地を奪われていくことにもなった。
元寇の際に敵を撃退しても恩賞がなかったこともあって、御家人たちの不満が爆発したことも鎌倉幕府の滅亡の原因だ。
それにより親が所持している田を子供に均等に分けて財産相続することは「田分け」と呼ばれて戯け者とは愚かな行いをするものの象徴となった。
それにより室町以降は一般的な農民は長男が家や土地を相続するのが普通になっていった。
次男以降が穀潰しと呼ばれるようになったのはこういった過去の事例があったからでなにも江戸時代からそうなったわけではない。
ただしこれはあくまでも妻が一人しかいない一般的な農民の場合である。
武家の場合ではとにかく子供をたくさん産ませて家督を継承できる年齢まで生き残らせることが優先であるから、正妻以外に側室を複数もつことも多く、乳母に育てさせる関係で乳兄弟が全く違う場合も少なくなく、その係累についている家臣の力関係などで家督を継ぐ者が変わることもよくあり、父親や母親の感情的な好き嫌いで廃嫡されることもあったりしたので、お家騒動はどこでも起こるものだったが、応仁の乱直前は特にそれが集中したのは幕府中枢部にいる者たちが守護大名の弱体化を狙ったりしたのも原因の一つだ。
そして寛正4年(1463年)に吉野へ逃れた畠山義就は意外としぶとく、畠山政長と闘い続け、寛正4年冬には義政生母の日野重子が死去したことに伴い大赦が行われ、将軍足利義政により赦免された畠山義就は細川勝元と対抗する山名宗全や斯波義廉の支持を得て、寛正6年(1465年)8月に吉野で挙兵し大和で義就派の越智家栄・古市胤栄が政長派の成身院光宣らと戦うことになり畠山義就は大和での勢力を確保したようだ。
大和は寺院が多くこういった動向が僧侶の間では即時に伝わるのは驚くべきことではあるがな。
「となるとそろそろ畠山義就は京に向かう頃か」
文正元年(1466年)12月には畠山義就が突如大軍を率いて上洛し、千本地蔵院に陣取って、将軍足利義政に圧力をかける。
足利義政・伊勢貞親らが関東政策で斯波氏の家督を弄り回し斯波義廉が畠山義就を取り込み、山名宗全とも組んで派閥を形成して伊勢貞親や斯波義敏を追放したが、山名宗全らは細川勝元が関与していた疑いをもって対立した。
もともと隣国であり細川勝元の正室は、山名宗全の養女で決してその仲は悪くなかったのだが、同族同士でも争う時代では婚姻した程度では何の慰めにもならず、細川勝元に実子で後に比叡山を徹底的に破壊することになる細川政元が誕生すると宗全の子で細川勝元の養子である細川豊久を廃嫡して、仏門に入れたことも双方の対立を深めた。
乱の原因にはもともと足利義政の正室である日野富子が息子の足利義尚を何が何でも将軍の地位につけたく足利義政の養子となった足利義視に対抗させるため、山名宗全を後見人に頼んで足利義視の後見人である勝元と衝突させたという説が一般的であったが、そもそも生まれたばかりの、義尚にすぐ将軍職を継承させようということには無理もあって、義政・富子・足利義視ら足利将軍家関係者と細川勝元・山名宗全ら有力守護大名の間では義尚成長までの中継ぎで義視を立てる合意が成立しつつあったのが、足利義尚を養育していた伊勢貞親が実質的な政治的権限を欲し、これに反発して足利義視を殺そうとしたのも文正の政変の原因であったりする。
もっとも伊勢貞親が追放され、命の危険を感じた足利義視は細川勝元の元へ逃げ込むことで混迷した状況をさらに悪化させるわけであるが。