木綿は色々大事なので来年に向けてその種を手に入れておきたいところだ
さて、赤米などの収穫を終えて穀物などの脱穀作業や油の圧搾などをしつつ、そばを植えたりもしているが、寒くなる前にできれば衣類について改良しておきたいところではある。
「この時代の人間が冬を越せないのは飢えじゃなくて寒さなんだよな」
冬は食料が少なくて死ぬと思われがちだが、それはヨーロッパや中国の北部のように麦が主食の場合、麦は春から初夏にかけて収穫して晩秋から初冬にかけて種を撒く、そして家畜の餌となる牧草も枯れてしまうことから最低限を残して屠殺してしまうので冬の食糧事情は厳しくなる。
しかし日本や中国南部の米がメインの場所は春に種を蒔いて秋に収穫をするので、冬の時期に穀物が不足することはさほど多くない。
ではなぜ冬を越せないものが多いかと言えば……。
「冬でも着る物が薄手の麻布の服だけじゃあ凍えて死んでもおかしくないよな」
なぜならこの頃の民衆はほぼ麻の布しか手に入れられないからだ。
麻は通気性や肌触りも良く体温を速く放散させるので夏の衣類としては大変優れているが保温性に劣り、冬は何枚もの衣類を重ね着して、寒さをしのぐほかなかったが、冬の夜には寒気に耐えかねて泣く子供も少なくない。
「かと言って毛皮を着ろと言っても着ないだろうしな」
獣の皮を身につけるということは汚れたものを身につけると信じているものも多い時代なので、猟師など以外では毛皮の衣服を身につけるものはほぼいない。
武士はそんな事を気にしないので革をたっぷり使った具足も身につけるが。
木綿が日本で着られるようになるのは鎌倉時代以降で、まず中国と行き来することの多い僧侶が中国にわたり、中国で木綿の衣装を手に入れて、そのまま身に着け日本に帰って来たことでその存在が知られ、特に動きやすくて冬でも温かいことで珍重されたらしく、一部は公家も取り入れたようだ。
当の中国でも後漢の時代にははいってきていたが、木綿が作物として本格的に栽培を行われるようになるのは南宋の時代で、それはすぐに朝鮮へ伝えられ、宋代末期から明代初期に朝鮮半島南部で栽培が始まり、李氏朝鮮が成立した十四世紀末には本格的に栽培が活発化したらしい。
すなわち中国や朝鮮でも木綿が本格的に栽培され始めたのは結構最近なのだが、中国では温かい衣類の素材に羊毛があったから中原が政治の中心の時代には木綿はあまりなじまなかったのだろう。
室町期に入ってからは室町幕府が朝鮮とも貿易を行っていて、朝鮮国王よりの使者への賜物の中に木綿があり、そこから幕府自身や九州や中国地方西部、四国西部などの諸大名が朝鮮との貿易を積極的に行うようになっていった。
木綿は兵士の衣装として動きやすい上に丈夫で染色もしやすく吸湿性も高くて着心地も良いため多用された上に、幔幕や旗指し物、旗や幟、火縄や軍船の帆布などの軍需物資として重要になった。
ただ、あんまりにも木綿を求めすぎて輸出を制限されたり、木綿価格がありえないほど釣り上げられたりして入手が困難になったことで、九州などでは木綿の栽培は早くから研究されていて、応仁の乱以降は軍需物資としてとても大事になる木綿は日本全国各地で栽培されたらしい。
ただし、耕作地帯が急速に広がったのは安土桃山時代の文禄年間(1592~96年頃)で、栽培作物として利益が出るようになったのは江戸時代以降らしいけどな。
そんな理由でこの時代は木綿の国内栽培がポツポツと大大名の直轄地などでようやく成功し始めたばかりで、主に朝鮮半島からの輸入に頼っているため木綿が庶民の衣装として使われることはない。
「でも種は出回ってるし、油と引き換えに手に入れるか」
ちなみに木綿は本来は多年草で、インドなどでは普通に越冬させても春には新芽が出るが、日本では気温が低すぎて枯れてしまうので、春から初夏に種子をまいて、秋に収穫してまた翌年種をまく。
「和尚様、荏胡麻油と引き換えに木綿の種は手に入らないでしょうか?」
「木綿の種ですか?
伝を頼れば手に入らぬことはありませぬが……」
「それには多量の油か銭が必要というわけですか?」
「ええ、そうでございますな。
京の方では綿の織物などが多量に買い付けられているようでございますし」
「ああ、やはりですか。
しかし今のうちに手に入れておかねばさらにこれからは手に入りづらくなるでしょうね」
「たしかにそのようにも思えますな。
では仲介をする代わりにこちらにも寄進をしていただけますかな」
「わかりました。
よろしくお願いいたします」
ちょっと高く付きそうではあるが応仁の乱が起きた後ではもっと高くなるだろうし、下手すれば入手できないかもしれないからな。
そしてよそで取れたらしい木綿の種を俺はなんとか手に入れた。
「しかし寒さ対策をするにはむしろ、竪穴式住居を作ったほうがいいか」
竪穴式住居は原始的で住みづらいように思われるが、地熱は冬の気温より高く隙間風などもはいってこないので、真ん中で火を焚けば実はかなり住みやすい。
室町時代でも東北地方では竪穴住居が作られており、北海道や樺太では江戸時代まで竪穴式住居が使われていたくらいだ。
「寒さを凌ぐために竪穴式住居を作って住まわせるか」
日本の住居は平安時代の夏がむちゃくちゃ蒸し暑い時期に対応する形態のものが小氷河期の鎌倉時代以降も使われていることから冬はめちゃくちゃ寒いのだが、古代の住居形態である竪穴式住居のほうが隙間風もはいってこず、床下から冷えることもなくて保温性も高いっていうのは皮肉でもある。
とは言え俺達荘官は竪穴式住居に住むわけにも行かないんで、寒さに震えながら畳の上で綿の衣類をかぶって寝るんだけど。
この時代はかけ布団はおろか敷布団もないんでなぁ……。
「せめて毛皮の敷物でもしいて寝るか」
畳に比べて通気性はないに等しいけども毛皮は保温性が高い。
鹿や猪を駆除すれば毛皮はいくらでも手に入るので、それを鞣して床に敷けばだいぶ暖かくなるだろう。
いすれにせよ領民が冬の寒さで凍え死ぬようなことは減らすようにしたいものだ。