今年は飢饉が起こるはずだから甲斐で品種改良していた冷害に強い種籾をわけてもらおうか
さて、近江であれこれやっている間に年が明けて延徳3年(1491年)になった。
そして美濃に滞在していた前将軍足利義政の弟である足利義視が死去した。
こうなると時代の移り変わりを感じるな。
今年は美濃や尾張より東の国々で飢饉が起こり、私年号として”福徳元年”が使われたりもするからその対策も予め考えておかねばなるまい。
”福徳”年号を持つ板碑は、武蔵を中心に発見されていたはずで、武蔵では「福徳」に改元したと信じられていたらしいし、長享の乱も一旦和議が成立していた頃らしいので関東の飢饉がよほどひどい状況だったのだろう。
関東探題になった叔父上などが上手くやってくれればいいが望みは薄いだろうな……。
西国の方はそういった様子があまりないことを考えると、おそらく飢饉の原因は冷害によるものなのだろう。
となると甲斐の国で品種改良を行っていた冷害につよい品種の米の種籾を分配してもらうべきかもしれないな。
俺は風魔小太郎を呼んで話をすることにした。
「小太郎。
甲斐で試していた冷害に強い米の種籾をわけてはもらえないだろうか」
「は、それなりの量でありましたら可能でございます」
「おそらく今年の夏はひどいことになりそうな気がするのでな。
甲賀や伊賀でなく近江や尾張などでも蕎麦を栽培しておいて、食べられるものを確保しておかねばならないだろうとおもう」
「なるほど、では甲斐でもそのようにいたします」
「ああ、頼むぞ」
そして六角高頼と山内政綱の首が俺のもとへ届けられた。
「残念ながら生かしたまま捕らえることはかないませなんだが、両名の首を確認していただければとおもいます」
持ってきたのは甲賀の望月だった。
「いや、むしろよくやってくれた。
これらの首は中央へ届けるが、公儀より何らかの名誉か報酬が与えられるであろう。
無論俺からも報酬は出すぞ」
「はは、ありがとうございます」
六角氏綱や六角定頼はまだ生まれていないはずだから六角高頼に子供はおらず、六角政堯が高島氏から迎えていた養子の虎千代などはいるが、事実上六角は滅んだようなものだな。
武家の名門であっても、滅ぶ時はあっけなく滅ぶものだ。
それはともかく望月・服部は一旦、風魔の風下にたつことになったが、そのおかげもあって麦や蕎麦といったものを栽培しつつ、伊賀甲賀の良質な土を使った焼き物などで以前よりも豊かな暮らしを得ることができている。
幕府が六角の首を確認した将軍は俺に屋形号と白傘袋、毛氈鞍覆、塗輿、朱の采配の免許がなされた。
国人たちが横領していた奉公衆の所領の返上を行なう代わりに、近江を統治するための正規の官僚として迎え入れることが許可されたので文官不足を補うことはできそうだ。
三河の国人などと違って近江の国人土豪などは教養を持ち合わせているからな。
石田三成など豊臣秀吉を支えた奉行衆などは近江の出身者が多いようだが農業だけでなく水運などにも関わりが深いことから数字に強いものが多いのであろう。




