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なんやかんやで収穫の秋になったな

 さて、日本の各地を旅する曹洞宗の僧侶や諏訪神社の歩き巫女、更には一月に一回開かれる二十日市に立ち寄る行商人などの話を総合してみても、現状の京都ではぐちゃぐちゃな政治闘争が行われているようで、兄の死も当然それに関わっている。


「正直に言えばあんまり関わりたくはないよな」


 そして、伊勢氏の本家である京都伊勢氏で室町幕府政所執事である伊勢貞親(いせさだちか)はそれにガッツリ関わってる。


「だからある程度はかかわらざるを得ないんだよな、残念ながら。

 もっともすぐに伊勢氏は一度失脚するはずなんだけど」


 大雑把に言えば関東で長く続いてる享徳の乱の鎮圧の為に手頃な駒になるはずだった武衛家こと斯波氏の扱いで、将軍やその側近と守護大名が対立した結果、最終的には将軍足利義政がヘタれて伊勢貞親は幕府中央から追放されるわけだ。


「畠山の方も面倒なことになってるらしいしな」


 管領であった畠山持国は、足利義教に隠居させられていたが、嘉吉の乱の際に武力で家督を奪還し、義教によって家督を追われた者達を復権させ、自分同様に足利義教によって冷遇されていた家臣を取り立て、足利義教に庇護された者等は冷遇したことで家臣団に亀裂が入った。


 そして、彼には子が居なかったため、弟の持富を養子に迎えていたが、永享9年(1437年)に子供の義夏(後の畠山義就)が生まれたため、文安5年(1448年)に持富を廃嫡して義夏を家督につけた。


 享徳4年に畠山持国は死んで、畠山義就が畠山氏の家督を相続したのだが、義就はいわゆる側室腹の上に、本当に持国の子か、周囲に疑問を呈されていたことから、それに反対する神保氏・遊佐氏などの家臣たちは持国の甥で持富の子の弥三郎を擁立するべきと主張した。


 義政は最初には畠山義就を畠山家次期当主として認めた。


 弥三郎が死ぬとその弟である畠山政長が細川勝元と弥三郎派の家臣団に擁立され、寛正元年(1460年)には畠山義就が、足利義政の上意を詐称したことで義政の怒りに触れたことで、畠山政長の畠山氏家督が認められ、義就は追放されたが吉野へ逃れ政長と闘いを繰り返した。


 政長はあまり戦上手でなく殆どは義就が勝っていたりするが、山名宗全が畠山義就に肩入れすることになって余計面倒なことになる。


「それはおいておいて早く米や大豆、荏胡麻の収穫を済ませねばな」


 幸い今年はひどい旱魃でも冷夏でもなく寛正の大飢饉の影響も今年でようやく完全に無くなりそうだ。


「大陸から伝来した大唐米は、うまくはないが収穫量が多いのは助かるな」


 大唐米もしくは占城稲、チャンパ米と言われるこれは所謂インディカ米でわかりやすく言えばタイ米。


 ベトナム南部を原産地とする収穫量の多い早稲(わせ)で、落穂しやすくて脱穀が楽な小粒で細長な米。


 強風や長雨で傷みやすく、寒さには弱いが虫害や日照りに強く、手間があまり掛からずに短期間で収穫可能となかなか良い品種で、宋代の中国で盛んに栽培されていて、日本では「赤米」などとも言われていて、鎌倉時代までには日本に伝えられたものだ。


 ただし粘り気が少なくて味も淡白であっため日本人の舌には合わないから、この時代では米と言うより雑穀に近い扱いで農村では普段は大唐飯に三分の普通米を混ぜてたべたと言うから麦飯や雑穀飯と変わらない扱いだったりもする。


 それでも室町時代には降水量の少ない瀬戸内海沿岸では広まっている重要な米であるんだが。


 そして日本朝鮮中国など以外ではむしろジャポニカ米のほうが受け入れられないことも多いので、東アジア以外では、むしろ圧倒的にインディカ米のほうが評判が良かったりもする。


 ちなみに瀬戸内海沿岸の年貢米の2割から3割は大唐米だが、その値段は普通の米に比べて1割から2割程度安く扱われるし、領主層や大都市の住民にはまずいということで不評なので、結局は地元で食されるのであるが。


「とりあえずこれのおかげで三毛作もできるし助かるんだがな。

 うまくたべられる方法も考えるか」


 中国のように油で炒めてチャーハンにしたり、粉にしてビーフンやフォーのようにしてたべてもいいし、米として単体で食べるのではなく味噌汁に入れて食えば問題なさそうな気もする。


 持ち運びしてたべる時はおにぎりにしようとしないで、ちまきのようにしたほうがいいかもな。


 早稲を収穫したら秋蕎麦の種を蒔いて収穫し、その後は大麦の種を蒔いて翌年収穫したら、早稲を植えるということができる。


 逆に遅稲(おくて)なら稲の収穫の後で大麦を植え、それを収穫したら蕎麦というパターンになる。


「とりあえず備蓄できる食べ物の確保は大事だよな」


 そして刈田狼藉に現れる連中は今年はいなかった。


「近隣の荘園も今年はそれなりにちゃんと収穫できたみたいだな」


 この時代に限らずある程度の収穫があれば無理に食料を奪いに来るわけではない。


 千歯扱きで脱穀を早めに終わらせたら、蕎麦作りの農作業の合間にこれ又収穫した荏胡麻油の圧搾や販売、鉱山の採掘、炭の竹炭への切り替えや笹の葉による保存食や和紙の製造に本格的に取り掛かろうか。


 椎茸などのきのこの栽培にも手を出したい所でもあるな。

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