山内上杉が動き出したようなので相模に戻ることにしたよ
さて、尾張を制圧した後、津島の直轄化であれこれ動いていたら長享2年(1488年)になった。
元服前の若造だった俺もいつの間に33歳だ。
そして明応東海地震の発生する1498年まで後10年になってしまった。
明応東海地震では、海抜36メートルを超える地点まで津波が達していた可能性があるという1000年に一度の大きな津波被害がでていた可能性が高い。
沼津市戸田の集落の平目平と呼ばれる地点は津波でヒラメが打ち上げられたという言い伝えに由来するし、現状では淡水湖である浜名湖が、津波により太平洋とつながってしまったくらいの大きな被害であったはずなのだ。
浜名湖から遠州灘へ流れていた浜名川に架橋されていた浜名橋たもとに栄えていた橋本は津波で壊滅的打撃を受け、移転を余儀なくされ、湊町として栄えていた伊勢の安濃津も、明応地震津浪で壊滅的な打撃を受けて荒廃し、同じく伊勢の大湊も大きな被害がでたという。
それを考えれば津島にも津波被害は当然でそうな気がする。
津島は直接的に海に面していているわけではないが、伊勢湾から天王川を船で上げれば結構すぐの湊町だからな。
本当であれば津波対策をじっくりやっておきたいところではある。
だが、関東の山内上杉顕定もそろそろ動き出しそうなので相模に戻らなくてはならないだろう。
というか俺が尾張に残っている方が、幕府中央というか細川政元から脅威認定される可能性が強そうな気がする。
俺は幕府中央の権力闘争に関わり合いになりたくないのだが、あちらではそう見てくれないかもしれない。
というわけで弟の伊勢丹波守盛興に尾張を委ね、大道寺重時や風魔小太郎に俺とともに玉縄城に移動することにした。
「あちこち行ったり来たりですまんが尾張は頼むぞ」
俺は弟に声をかけた。
「はい、引き続き私にお任せください」
弟は東相模の統治もしっかり行えていたし安心だ。
「さて、後はまかせて玉縄城へ移動を急ぐか」
俺がそう言うと大道寺重時は苦笑していった。
「東海道を行ったり来たり、まったく忙しいな」
しかし風魔小太郎は素直にうなずいていった。
「たしかに急いだほうが良いでしょう。
現状では東相模に城代しかおりません」
「そんなに武蔵方面は不穏な状態だったか?」
「山内上杉は鉢形城にて兵を集めている様子にございます」
「あちらも攻撃の準備中ってわけか。
古河公方(足利成氏)の動きはどうなっている?」
「一応、上杉方に協力するようではあるのですが、実質的な権力を山内上杉顕定が握り続けていることを快くは思っていないようです」
「まあそうなるだろうな」
中央でも関東でも公方はお飾りのままでいてほしいというのが管領や関東管領の思っていることだろう。
無論実権を握っている連中がそれを公方に戻したいと思うわけもなくそれどころかその下のものが実権をかわりに握ろうとしたりしているのが実状だ。
細川氏本家京兆家当主で室町幕府管領として大きな力を持っていた細川勝元が死去した時に嫡男の細川政元が後を継いだが、当時7歳であり実際には後見である細川政国が主宰し、内衆の中から選ばれた評定衆による合議によって政権運営は行われていて細川政元が絶対的権限を有しているというわけではなく評定衆も一枚岩というわけではない。
ただ、内輪もめから実際のお家騒動にまで発展するようなことはいまの所はないのだけどな。
そういう意味では細川政元は調整型政治家として政治力の化け物と言ってもいい存在ではあるのだろう。
脅威は幕府中央ではなく関東の方が強い。
だからともかく上杉との戦いに備えるために玉縄城へと俺たちは急いで移動した。




