やはり六角征伐の軍が起こされたがグダグダだな
さて、斯波と織田尾張守家が越前の朝倉討伐に出張っている間に、俺達は織田伊勢守家の調略を成功させ尾張も制圧したことで、相模・甲斐・伊豆・駿河・遠江・三河・尾張を名目上統治下に入れることが出来た。
相模19万石、伊豆7万石、甲斐22万石、駿河15万石、遠江25万石、三河29万石に加えて尾張55万石というのはかなりでかい。
というか尾張一国で全体の三分の一近いから斯波が大きな影響力を持てたのもよく分かる。
とは言え関東管領上杉は武蔵70万石、上野50万石、越後40万国を持っているからようやく互角かこちらが少し有利くらいだったりもするのだが。
そして”諸国の御沙汰は毎事力法量”という足利義政の一言が原因で、俺だけでなく各地では守護や国人らが他の守護の所領や寺社領や公家の荘園などを押領して勢力を拡大している。
そして応仁の乱では旧西軍に属していた近江守護の六角行高も将軍家御料所や奉公衆の所領、公家の荘園や寺社領を押領していた。
正確に言えば六角行高は近江国内の国人・地侍にそういった土地を押領させることによって彼等を六角家臣団として取り込もうとしたのだが、近江に領地を持つ奉公衆の中には六角に領地をとられたせいで餓死する者もいたため、室町幕府中央では7月に、奉公衆の一色政具の訴訟案件が幕府に持ち込まれ、これをきっかけとして他の近江の奉公衆も六角行高に対し訴訟を起こし、寺社本所領押領も発覚したことで、幕府はその威信回復を企図して六角氏討伐の兵を挙げ近江に遠征することになる。
長享元年(1487年)9月に第9代将軍足利義尚が自ら在京奉公衆、在国奉公衆、さらには公家衆8000を率いて、琵琶湖の西岸の坂本に入って諸大名の軍勢の合流を待つ事になった。
しかし奉行衆のうち足利義政の側近であった伊勢貞宗、飯尾元連、松田数秀等は同行を許されず、俺にも上洛命令は来ていない。
「こりゃあ六角征伐が終わったら次は俺の番かな」
俺がそう言うと風魔小太郎が言う。
「斯波武衛(義寛)は、公方に対して朝倉の越前押領と斯波の越前回復とともに尾張についても同様と訴えたようでございます」
「まあ六角を征伐するなら朝倉や俺達もって話になるよな」
そんな中で参陣する大名は細川政元・細川政之・斯波義寛・畠山政長・京極政経・富樫政親・武田国信、赤松の代理としての浦上則宗と行った東軍メンバーが主力で、山名・一色・土岐・大内・朝倉と言った元西軍の面々は警戒し、彼ら自身は上洛せず嫡男や家臣を代理で送りその兵数も多くはなかった。
そして八幡山・金剛寺が陥落し野洲河原で合戦が起こったがその規模は小さく、六角高頼も本拠の観音寺城を出て甲賀郡に退却した。
六角高頼本人は横領した土地を返上しての赦免の道を探っていたが、押領した土地を手放すつもりのない国人・地侍たちは交戦の構えを崩さなかったのだ。
公方足利義尚が坂本から琵琶湖を渡って栗太郡の鈎の安養寺に陣を構えたことから「鈎の陣」と呼ばれるようになるが、ここで活躍したのが俺達後北条にとっての風魔に近い諜報や破壊工作を得意とする甲賀衆だ。
甲賀衆は幕府方大名の陣地に放火し夜襲を仕掛けてまわり、それにより大名たちはその対応に苦慮し戦闘は膠着状態に陥った。
さらに足利義尚は守護大名の権力抑制と将軍権力の強化に強い意欲を持っていたが、細川政元などから見れば「万人恐怖」の足利義教の再来にもなりかねないわけで、足利義尚に武功を挙げさせるつもりもなかったのだ。
足利義尚は六角が押領していた寺社や公家の荘園を側近に与えて反発を招き、結城政胤・尚豊兄弟や二階堂政行といった側近は飛鳥井雅康・三条西実隆・宗祇らの文化人を招いて歌会・猿楽・蹴鞠などを催して酒宴遊興に耽らせることによって実質的な権限を奪った。
さらに細川政元は六角と密かに連絡をとっており、将軍義尚とその側近の戦果による権勢があまり拡大しないようにするための策略でもあった。
さすが政治力で東軍を勝利に導いた細川だけあってやりかたが汚いというかえげつないというかだが、細川政元は政治など放り投げて空を飛ぶための天狗の術を得ようと思っていたりするらしいが。
無論細川政元は修験道を単に趣味としてだけでなく、山伏たちを諜報員のように使い各地の情報や動向を探るなどの手段としていたのでもあるが。
そのようにグダグダな状況で六角征伐がまともに進むわけもなく、幕府の威信はかえって失墜していくことになる。




