閑話:関東の騒乱は長く続いておりそれが斯波のお家騒動のもとになった
応仁の乱が何故起きたのかの原因を説明していますが、登場人物がかなり多いのでわけがわからんと思ったらすっ飛ばしてください。
この頃の関東の情勢を説明するにはまず話を足利義政の父、足利義教が将軍だった頃に戻す必要がある。
足利幕府の第5代将軍である足利義量は3代将軍である足利義満の孫だが、実際は将軍とは名ばかりで実権は父の足利義持が握っていた。
そして、応永32年(1425年)に義量が急死した後も義持が引き続き政治を行なったが、その義持が応永35年(1428年)1月に病になったときに、危篤に陥っても後継者の指名を拒否したため、三宝院満済や管領の畠山満家ら群臣たちが評議を開き、義持の弟である梶井門跡義承・大覚寺門跡義昭・相国寺虎山永隆・義円の中から次期将軍を選ぶことになった。
そして、石清水八幡宮で籤が引かれ、義持死亡後にそのくじが開封された結果、後継者に定まったのは義円で、将軍位はほぼ実権がないことを知っていた義円は幾度か辞退したが、諸大名が重ねて強く要請したため最終的には将軍となることに応じた。
有力守護大名達は将軍不在の状態をなるべく早く是正したかったが、義円は元服前に出家したために還俗してもいまだ子供の扱いであり、無位無官だったうえに出家した法体の者が還俗して将軍となった先例もいまだかってなく、公家には反対するものもいたため、最低限義円の髪が伸びて元服が行えるようになってから、官位を与えるべきと義円の髪が生え揃うまでは還俗を待つことにした。
髪が伸びた義円は還俗して義宣と名乗り、従五位下左馬頭に叙任され、従四位に昇任したが、その時はまだ将軍宣下はなかった。
このため鎌倉公方である足利持氏が将軍となるという流言が走り、義持の猶子となっていた持氏は6代将軍の座を望んだ。
正長2年(1429年)に、義宣は義教と改名して参議近衛中将に昇った上で征夷大将軍となったが、持氏は義教の将軍職相続に不満を持ち、新将軍の義教を『還俗将軍』と軽んじて、義教の将軍襲職祝いの使者を送らなかったうえに、本来ならば将軍が決定する鎌倉五山の住職を勝手に取り決めるなど、幕府と対立する姿勢を見せ始め、京都にも不穏な空気が流れた。
これが室町幕府中央と鎌倉公方の仲が悪くなった大きな原因である。
この時、関東管領である上杉憲実は持氏と義教の間を取りもって、その融和に懸命に努めたが、持氏はこれに応じずに逆に憲実を遠ざけた。
そして永享10年(1438年)に持氏の嫡子賢王丸が元服を迎えて名を改める際、本来ならば将軍より一字を拝領するのが慣例であったが、それを行わず「義久」と名付けた。
これは中央と関係を断絶するという直接的な意思表示と取られ、憲実はこの元服式に出席せず、憲実と持氏の対立は決定的となったことで、憲実は鎌倉を去り、領国の上野国へ下ったが、これを憲実の反逆と見た持氏は一色直兼に命じて討伐軍を差し向け、自らも武蔵国府中高安寺に出陣する。
ここで将軍の義教は憲実の救援のため、篠川公方の足利満直や駿河守護である今川範忠への出兵を命じ、さらに幕府軍を派遣し、朝廷へ持氏追討の治罰綸旨の発給を求め、それが発給されると持氏は朝敵となった。
持氏は敗れて、鎌倉称名寺で出家し、永安寺に幽閉されたが義教は周りの助命を聞き入れず、持氏が自害して果てたことで、永享の乱は終わった。
これにより鎌倉公方は一旦滅亡することになるが、彼の遺児である春王丸・安王丸を担いだ結城氏朝・持朝父子が蜂起し、結城合戦が起こるが、この反乱も幕府に鎮圧され結城氏朝父子は自害、春王丸・安王丸は幕府に捕らえられ処刑されるが、そののち春王丸らの兄弟で生き残っていた成氏が鎌倉に帰還、鎌倉公方に就任するも上杉氏と対立、享徳の乱を引き起こすことになる。
享徳の乱は、享徳3年(1455年)から文明14年(1483年)までの、28年間断続的に続いた内乱で、室町幕府の足利将軍家と山内上杉家、扇谷上杉家が、鎌倉公方の足利成氏と争い、関東地方一円に拡大し、関東地方における戦国時代の発端となった。
そもそもの発端は嘉吉元年(1441年)におきた嘉吉の乱により将軍の義教が播磨守護である赤松満祐に殺害されたことで、関東はしばらく上杉氏が統治する事になっていたわけだが、鎌倉府の再興を願い出ていた越後守護で関東の上杉とは別家の上杉房朝や関東地方の武士団の要求に応え、持氏の子の永寿王丸、後の足利成氏を立てることを許し、鎌倉府が再興されたのだが、このころの関東管領は、上杉憲実の息子である上杉憲忠が就いていた。
再興後の鎌倉府では、持氏が滅ぼされる原因となった憲実の息子である上杉憲忠が父の反対を押し切り関東管領に就任していたが、成氏にとって彼は父の敵にも等しかったため彼を冷遇し、結城氏、里見氏、小田氏などの父と近かったものを重用して、上杉氏を遠ざけ始め、鎌倉公方と上杉氏との対立は深まった。
そして足利成氏の軍事的な能力の高さと、京都将軍家と鎌倉公方家と関東管領上杉と結城氏などの鎌倉時代より古くからいる武士団の対立、さらには京都と関係の深い山内上杉氏と関東に重きを置く犬懸上杉氏の上杉氏内部での対立といったややこしい対立構造や、京都の幕府における大名の政治的な主導権争いで介入方針がコロコロ変わったなどの結果延々と内乱が続いていたわけである。
そして中央では斯波義淳が管領を務めたが、永享5年(1433年)に彼が危篤に陥ると、足利義教は武衛家の家督継承に介入して斯波持有を「器用の仁に非ず」と断じて廃嫡し、僧籍に入っていたもう1人の弟瑞鳳を還俗させて、斯波義郷として家督を相続させたが、家督を継いで3年後の永享8年(1436年)に正親町三条実雅宅訪問の帰路、陸橋から馬もろとも転落して死去し、家督は子の千代徳丸(斯波義健)が2歳で継いだため、初めは叔父の斯波持有が後見し、永享12年(1440年)に彼が没すると、分家の斯波持種と執事の甲斐常治の後見を受けたが、嘉吉元年(1441年)に駿河守護今川範忠と遠江の所領をめぐって争い、文安4年(1447年)には甲斐常治と斯波持種は、在地武士との関係等を巡り、全面的に対立してしまい、私戦に及ぶ事態が発生し、斯波持種に同情する家臣による甲斐常治の暗殺未遂事件が起き、足利義政がその仲裁に乗り出して、足利義政の斯波氏の家督へのさらなる介入を招く。
そして享徳元年(1452年)に義健が18歳で死去してまたもや嗣子が無かったため、斯波義敏が武衛家の家督と越前・尾張・遠江守護を継承し、従五位下左兵衛佐に任官したが、これにより、斯波一門筆頭である斯波持種と家臣筆頭の甲斐常治の対立は、主従である斯波義敏と甲斐常治の争いに発展し、斯波義敏は甲斐常治と元から折り合いが悪く、義敏が常治の弟を登用しようとしたり、主家をないがしろにする常治の排除を企てていたともいわれる。
そして斯波氏は奥州探題の大崎氏と羽州探題の最上氏の本家に当たり、越前、尾張、遠江の三国守護を兼ねる守護大名にして、管領家でもあることから、駿河の今川や信濃の小笠原などと共に享徳の乱の鎮圧に当たらせるために重要であったのだが、深刻な内部の対立から享徳の乱の鎮圧のために関東へ兵を出すような余裕は斯波義敏にはなく、それにより将軍義政の信任を失って、長禄3年(1459年)に家督を奪われ、実子松王丸(後の斯波義寛)が当主となるが、寛正2年(1461年)には松王丸も廃され、斯波氏と同じ足利氏の一門渋川氏の出で、かつ曾祖母が斯波義将の娘である斯波義廉が斯波氏の家督を継承し、尾張・越前・遠江の守護にも任命された。
これは堀越公方足利政知の執事の渋川義鏡が斯波氏当主の実父という立場から斯波軍を関東の内乱鎮圧のために工作したとも言われ、義政は最初義敏・常治を関東に派遣させようとしたが、両者が命令に従わず内乱を起こしていたため義敏を罷免し、松王丸を当主に置いても斯波氏領国の遠江で今川範将の反乱が勃発したなどの事情もあった。
しかし、寛正2年(1461年)に再び遠江で反乱が起こり、翌年の寛正3年(1462年)に幕府の介入で反乱は収まったが、関東で幕府方の上杉持朝と渋川義鏡が政争を起こし、三浦時高・千葉実胤・太田道真ら持朝の重臣が隠居、その事態を重く見た将軍義政により寛正4年(1463年)に実父の渋川義鏡が失脚し、義政の生母である日野重子の死去による大赦で義敏・松王丸父子と畠山義就が赦免されたため義廉の立場は悪化した
そして渋川義鏡が失脚した以上は、斯波義廉が当主である必要性が無くなり、将軍義政は義敏の復帰を考えるようになり、さらに寛正6年(1465年)には渋川家から入って家督を相続したことも影響したのか、義廉は奥州探題の大崎氏と軋轢を発生させ大崎教兼との取次に失敗したことも影響し、義敏がかつて大崎教兼と取り次いでいたことと常治が亡くなっていたことを合わせて復帰工作を始めたが、一方的に廃嫡されることを恐れた義廉は義政の復帰工作妨害に動き出し、山名宗全や畠山義就との連携に奔走した。
義敏は義政の側近の政所執事である伊勢貞親や季瓊真蘂の画策で義政と対面し、翌年の文正元年(1466年)に幕府の裁定で義廉は幕府への出仕を停止させられ、義敏への3ヶ国の守護返還を命じられたが、この時既に義廉は宗全派と手を組んでおり、義敏の支持者だった元管領の細川勝元ら諸大名も伊勢貞親ら側近衆に反感を抱いていたため家督問題は複雑化し、斯波義敏は伊勢貞親・季瓊真蘂・赤松政則らとともに文正の政変で失脚し守護職は義廉に戻された。
これが応仁の乱が起こる原因の一つであり、斯波家のお家騒動が起きたのも、元はと言えば足利義教と義政のせいであると言えよう。