鎌倉を手に入れたのは良いが統治領域が広がって文官不足が顕著になってきた
さて、三浦氏を滅ぼして相模を統一したがその後の鎌倉の寺院の復興や、相模川より東の相模における組織の明確化・再構築などに奔走しているうちに文明18年(1486年)になった。
三浦などの当主や嫡男を自刃させて、臣下に組み込んだ分家に三浦などの統治は引き続き行わせているが、急激な統治領域の拡大に対しての文官の人員不足は深刻だ。
いっそのこと古河公方を鎌倉に呼び寄せるなり、京から新たな鎌倉公方を派遣してもらうなりしてそれについてくる文官を確保したい。
というのは俺の本音なのだがそうした場合、宇都宮氏・那須氏・小山氏・千葉氏・佐竹氏・小田氏、上総武田氏・里見氏などがついてきて面倒なことになるだろうし、京都から新たに派遣してもらうにしても堀越公方のように関東の人間が受け入れない可能性が高いし、俺は公方の下に入ってまた働かされることになるだろう。
それでは今川や扇谷上杉の臣下でいたときと何も変わらない。
さらに俺が北条を名乗って、元服させた嫡男も同様に扱って、朝廷への献金などを行ったことで、執権北条氏の古例に倣った左京大夫に任じられ、家格の面で上杉氏などと同等になっていることにも快くは思われていないだろう。
北条早雲は今川氏親の名代として政治や軍事で活躍したがそういう意味では一生誰かの使い走りで終わったと言える。
それを変えたのは息子の氏綱で北条を名乗り「相州太守」を自称して寺社復興を盛んに行い今川や上杉から独立したがそれは茨の道でもあった。
北条を名乗ったとは言え結局は余所者扱いされたことで、上杉・武田・古河公方連合により北条包囲網が結成され国人の多くはそちらにつくことが多かったからだ。
もっともそれは里見義豊が鎌倉を襲撃し鶴岡八幡宮を焼き払ったことで亀裂が生じて、上総は内乱に突入したりもするが。
北条早雲は国人による連合体制を崩すことが出来なかったが、北条氏綱はそれを修正して後北条氏への権力集中を行ったが、この時に評定衆・奉行衆を設置して有能な人材を活用しやすい組織づくりを行っている。
「俺たちも幕府のように評定衆・奉行衆を設置して、それに対応できるものを拾い上げていくしかなさそうだな」
俺の言葉に大道寺重時がうなずいた。
「まあそうするしか無いよな。
とは言えそもそも読み書き計算ができるやつは坊主神人や商人くらいしかいないと思うが」
「そうだな……戦災孤児なんかで俺達が面倒を見ている者には読み書きを教えて見どころがありそうな奴から拾い上げたいところではあるのだが」
「人間向き不向きというものはあるからな」
この頃は読み書き計算をできるというのも一種の特技でそれを習うことができる者自体がかなり少ないので読み各計算を今仕込んでいる途中だが、皆の物覚えが良かったりする訳が当然ないし、計算ができても実務に応用できるわけでもないのだからまだまだ前途多難だ。




