玉縄要害を攻略して鎌倉を統治下においたよ。
さて、藤沢の大庭城を攻略した俺の次の目標は鎌倉だな。
「この勢いで一気に鎌倉まで制圧する」
俺がそう言うと俺の言葉に大道寺重時がうなずいた。
「ああ、今の勢いのまま進んだほうがいいだろうな。
大庭御厨から見れば鎌倉は目と鼻の先の場所にある。
そしてかつて源頼朝が征夷大将軍に任命され、幕府を開いた場所でもあって、その重要性は室町時代でも基本的には変わっていないと言いたいが、現状ではその重要性はかなり低下している。
これは享徳3年(1454年)、足利成氏による関東管領上杉憲忠の謀殺をきっかけとして享徳の乱が勃発し、享徳4年(1455年)6月に、上杉氏援軍の今川範忠が、足利成氏が遠征中で不在となっていた本拠地・鎌倉を制圧し、足利成氏は下総の古河を新たな本拠とし、長禄2年(1458年)に室町幕府がおくりこんだ足利政知は様々な理由で鎌倉へ入れず伊豆の堀越を御所とした鎌倉には公方が今現在不在だからだ。
そして鎌倉は東西北の三方を山に囲まれ、南は海であることから難攻不落と考えられていたのだが、実際には新田義貞による鎌倉攻めで鎌倉幕府が滅亡し、北条時行によるもの中先代の乱で一時北条氏が鎌倉を占拠し、その後南朝の北畠顕家と新田義興もそれぞれ鎌倉を陥落させている。
そしてこの頃に鎌倉をおさえていたのは相模三浦だ。
鎌倉時代に三浦氏宗家は北条氏によって族滅されていたが、三浦氏傍流である佐原氏出身の三浦盛時により家が再興され、執権北条氏の御内人として活動していたのが始まり。
足利尊氏が鎌倉幕府に対し兵を挙げると、その時の三浦氏当主である三浦時継は子の高継と共に足利方について戦うが、中先代の乱において北条方について戦ったために処刑された。
しかし子の三浦高継は尊氏の下に残り、中先代の乱鎮圧後も足利尊氏に付き従って箱根・竹ノ下の戦いや多々良浜の戦いで戦功を上げ、南朝方の北畠顕家の軍勢によって鎌倉を追われた足利尊氏の子である足利義詮を保護し、北朝方について活動し、一連の戦功によって相模国守護に任じられた。
だが、その子供の三浦高通は足利直義方に属し、更に足利直義が滅ぼされた後は南朝の新田氏らと結んで鎌倉府を脅かしたため、足利尊氏は三浦高通の相模守護職を剥奪したうえで追放。
しかし、足利尊氏没後の貞治3年(1363年)に鎌倉公方足利基氏によって足利直義方の重鎮であった上杉憲顕が赦免されると、三浦高通も赦されて再び相模国の守護に任じられた。
しかし三浦高連の子の三浦高明は上杉禅秀の乱で上杉禅秀側に加担した事を理由に鎌倉公方足利持氏により相模守護職を奪われた。
そして永享10年(1438年)に永享の乱が勃発すると、三浦高明の子である三浦時高は足利持氏を裏切って鎌倉府を攻め滅ぼし、新しく守護となった扇谷上杉氏の勢力下に入った。
その後の関東の争乱では、三浦時高は扇谷上杉家の重臣として活躍し、相模の三浦郡・鎌倉郡などを支配し相模国内に大きく勢力を拡げたのだが、三浦時高は子に恵まれず、主君である扇谷上杉持朝の次男である上杉高救を養子としていた。
これによって三浦高救が三浦の家督を継いだのだが、実子である三浦高教が生まれると三浦高救の後継にしようとして、高救・義同父子と対立することになり、扇谷上杉定正が、太田道灌を暗殺して家臣に動揺が広がると、三浦高救は三浦氏の家督を義同に譲って扇谷上杉家に復帰して自らが当主になろうとしたが、三浦時高は上杉定正と共に三浦高救父子を追放してしまった。
現状では三浦高救は里見氏の重臣である安房正木氏を頼って安房国にいて、三浦義同は母方の祖父であり河越で上杉定正とともに戦っている大森氏頼のもとに奔った。
後北条と里見が争うことになるのはこのあたりにも関係がある。
上杉定正の家督を奪おうとしたものの子供が上杉定正のところに行くというのも妙な話だが、現状では血縁関係というのは重要なのだ。
玉縄城を最初に築城したのは、北条早雲と多く言われているが実際にはその前から砦としての機能はあった。
史実では明応3年(1494年)に玉縄要害は山内上杉氏により落とされ、そのときに破却されたことで、三浦氏はここを防衛拠点に使えなかったようだ。
もともと相模国内での大規模な戦闘を想定していない玉縄要害は現状の防衛力は低く俺達は力攻めで陥落させた。
俺は生まれて初めて鎌倉に入って鶴岡八幡宮に参詣し、戦乱で荒廃した鎌倉の再興を神前で誓った。
そしてその後すぐに鎌倉の東の逗子住吉城を陥落させて三浦時高を三浦半島の三崎城に追い込んだ。
現状では鎌倉の治安回復や玉縄城の修復が優先だな。
いずれにせよ鎌倉と鶴岡八幡宮を早期におさえられたのは執権北条氏の名目を建てるためにも大きいはずだな。




