わたしが死んだ日
わたしが死の宣告を受けた日のことを書きます。
小学校一年生のクラス担任は、若くて背の高い女の人だった。
濃い色のニットスーツが良く似合っていた。アップにした黒髪のてっぺんにリボン飾りを付けているのは当時の流行の最先端だ。足首がやや太目だったが、サリーちゃんの脚みたいで却って可愛かった。落ち着いた優しい声の持ち主で、わたしは秘かに好感を抱いた。
次年度もこの先生なら良いな、と思っていたのだが、三学期の終わりに転勤してしまった。
二年生の担任はもっと年のいった女で、もしかしたらまだ若かったのかも知れないが、子供の目にはかなりのおばさんに見えた。
一目見て、嫌な予感がした。ツイードのスーツを着た四角い体型と、頬骨の高い四角い顔が母に似ていたのだ。さらにわたしを困惑させたのは、母のと同じリードを使って発するその声だった。家で母の声を聞くだけでもう充分だというのに、学校にいる間中も同じ声を聞かねばならない。
まさに、『前門の虎・後門の狼』状態である。
キンキン響く大声とざらざらした地声を絶妙に取り合わせ、女教諭が授業を始める。
わたしはその声がなるべく耳に突き刺さらないよう、頭の上を通り過ぎてくれるよう念じつつ、書き取りに集中するか下敷きに漫画を描くかして毎日をやり過ごした。
そのような態度を件の女教諭が見逃す筈もない。わたしは給食の脱脂粉乳を一滴も飲めないせいで吊るし上げを喰った。宿題を忘れて「怠け者」呼ばわりされた日もあった。
脱脂粉乳は生まれたての牛だけが飲むものだ。宿題なんかにかまけてはいられない。わたしは何かと忙しかったのだ。
そんなわけだから、この教諭に対しては母にするのと同じ態度を貫いた。すなわち、出来得る限り関わりを避け、こちらから話しかけるなど絶対になかった。
ひょっとして家がもうちょっと居心地の良い場所だったら、わたしは小学二年生で登校拒否児童になっていたかも・・・いやしかし、この仮定には矛盾がある。
ともあれ、その朝も普段と変わらず、地区の登校班に混じって学校に到着した。皆それぞれの教室へ散って行ったが、わたしは喉が渇いたので一人水飲み場に留まった。
子供というのは、よくまあ喉を渇かすものである。
せっせとお水を飲んでいると、地区もクラスも違うタカシ君という子が走り寄って来た。
後から考えると、校門側ではなく教室が並ぶ方からすっ飛んで来た。ランドセルも背負っていなかったということは、いったん教室に入ってからわざわざわたしを目がけて出て来たわけだ。
「アーッ! お前、水を飲んだな!」
タカシ君はものすごい剣幕で言った。
わたしが何のことか分からず黙っていると、さらに言いつのった。
「先生の話を聞いてなかったのか? 今日は水道の消毒をするから飲んじゃいけないって言ってたじゃないか! 水に毒が入ってるんだぞ! 飲んだら死ぬんだぞ!」
え・・・
「お前は死ぬんだ! 今日、死ぬんだ!」
周りにはわたしとタカシ君の他に誰も居なくて、うっそーとか、そんなの聞いてないよーとか言う人も居なくて、わたしはただタカシ君を眺めていた。
タカシ君は死刑宣告の言葉を吐き尽くし、くるりと回って走り去った。
そうなのか・・・わたしは死ぬのか・・・わたしは思った。
いつも先生の声を聞かずに済むよう努力していたから、大事なお知らせを聞き漏らしたのだろう。
なんだよ・・・今日中に死んでしまうのか・・・
授業が始まった。不思議とその日は女教諭の声が気にならなかった。
と言うより、どんな音も分厚いガラス窓の向こうから聞こえるかのようだった。
窓の外に目をやると、貧弱なポプラか何かの残り葉が揺れていた。空は白っぽい水色をして陽の光に温度がなかった。
特別好きな景色ではなかったが、今日で見納めと思うと悲しくなった。
この窮状を訴えるに足る大人は存在しなかった。他の生徒は教室の背景に過ぎなかった。
わたしだけが一人静かに死んで行くのだ。
冷たく寂しい気持ちが視野を覆った。
不意に涙が溢れそうになったが、懸命に我慢した。
ここで泣いてはいけない。ことにあの担任などに涙を見せてはならない。
誰にもわたしの悲しみを知られたくない。
涙が目の奥に引っ込むまで、わたしは乾いた校庭を眺めていた。
いつ死ぬのだろう。3時間目か。4時間目か。給食の後か。
午後になってもわたしは死ななかった。
一体いつ死ぬのだろうと思いながら家に帰った。
家では勝手口の内外で女たちが言い争いをしていた。
わたしは流れ弾に当たりたくなかったので、回れ右をして牛舎に行った。
牛舎の入り口のコンクリを敷いた土間に、ハンドボール大に育ったカブが山と積まれていた。横にサツマイモの山もあったが、どれが牛用でどれが人間用か判別し難い。こっちに手を出すのはやめにした。
わたしはカブの葉と尻尾を切り落とし、軽く水洗いして次々と完璧な白い球形を作り、それを年代物の黒光りする大樽に放り込むと、専用の道具で刻んだ。
この道具も名前が分からない。レレレのおじさんの箒くらいの長さの竿で、先に輪が付いていて、輪の中には十文字の刃が備わっている。こいつでザクっと突くと、カブが四つに割れる。
ザクザクザク。
わたしは繰り返し、カブを刻み続けた。
何が始まったのか勘づいた牛が、モ~と鳴いた。
せっかちな奴が横木に頭を擦り付けて音を立てた。
ザクザクザク。
わたしは牛におやつをやるのが好きだ。
ザクザクザク。
これをやっていると、無心になれる。
ザクザクザク。
不毛な大人たちを切り刻む。
ザクザクザク。
この単純作業は実に生産的だ。
牛たちはおやつを嬉しそうに食べて、脱脂粉乳や瓶に入って売られている牛乳しか飲んだことがない人たちには分からない、美味しい牛乳を出してくれる。
ザクザクザク。
わたしが死んでも、誰も気にしない。
後日談は次回に・・・