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パラダイスの子供たち 後編

家の向かいには桃畑があった。

県道に下りた角地に店を構える八百屋さんの所有で、高い囲いと鍵のかかった扉で厳重に管理されていたが、収穫期になるとお裾分けと言って、いびつだったり小さ過ぎたりして売り物にならない桃を一籠置いて行った。

リンゴかと思うほど硬い実なのに、食べてみると意外なほど甘く、手や頬に強い香りが残った。


その東側のこじんまりした家には、疎開している間に東京の家を空襲で失くしてしまった洋画家の老夫婦が住んでいた。

二人は伯母と付き合いがあり、時々連れられて遊びに行った。

ある時、奥さんがわたしにサザエさんの御飯茶碗をくれた。まだマスオさんもタラちゃんも登場していない時代だから、サザエさんとカツオとワカメだけが描かれていた。


わたしはサザエさんは所帯じみていてあまり好きではなく、子供のくせに渋い染め付けなどに興を覚えたのだが、ほっそりして上品な感じの老婦人に対する気遣いから喜んでいる風を装ってその茶碗を使っていた。


親切な隣人に囲まれて、ほとんど自給自足で暮らせるような馬鹿広い帝国に住んでいながら、わたしは自分の家をかなり貧しいと思っていた。

裕福な家の大人たちが大声で罵り合ったりする筈はないと考えていたからだ。



というわけで、ようやく本題に入る。


その日は土曜日だったと記憶している。学校から帰って来てお昼ご飯を食べたのだから。

弟の姿はなかったと思う。伯母も留守で、祖母が勝手口の外水道で蕗か何かの筋を取っていた。

母は牛に飼料をやり終えたところで、わたしとともに食卓に着いた。

祖母の用意したお昼があまりにお粗末だったので、わたしは卵を探そうと鶏小屋へ行った。

すると庭に大きなバンが入って来た。獣医さんの車だった。

牛のことで父に用事があったのだろうが、父はどこかの牧場に呼ばれて留守だった。

代わりに母が対応に出て、暫く話し込んでいた。


獣医さんが帰って行き、母が食堂に戻ると、なぜか祖母が現れて母をなじり始めた。


「他所の男に色気づいて、恥さらしが」


よくもまあ、子供の前でそんな口利きが出来たものだ。はっきり憶えているが、まさしくこの言い草の通りだった。


当然の成り行きだが、いきり立った母は金切り声で応戦した。

聞くに堪えない暴言が飛び交い、しまいに祖母がとどめを刺した。

「どうせ体に欠陥がある女だから」

母は完全に逆上し、祖母に掴みかかった。


この時である。

祖母が文字通り脱兎のごとく逃げて行くさまを見たのは。

老婆は素早く身を翻し、食堂から居間に上がる三段の踏み段を軽々と超え、疾風さながら居間を通り抜け、足音も軽くたたたと廊下を走り自室に避難すると、頑丈な木の引き戸をバシンと閉めた。


あのように俊敏に動く祖母を目撃したのは、後にも先にもこの一度きりだ。


母は後を追わず、歯噛みをしながら居間の向こうを睨んでいた。

捕まえて八つ裂きにしてやれば悩みの種が一つ減っただろうに、そうしなかったのは嫁姑の立場という固定観念がストッパーとして働いたからなのだろうか。

しかし自分の子供に手を上げる際にそのストッパーが効かないというのは、まったく納得のいかない話ではある。


やがて母は椅子に座り、冷めたご飯を食べ始めた。

食べながら、母は泣き出した。

ご飯を食べながら泣いている母を、わたしは醜いと思った。


気に入らなければ何のためらいもなく我が子を殴り蹴り叱るというよりクソミソに罵倒する母が、その子供の目前で、ひたすら我が身のためにだけ悔し涙を流している。

これほど気色の悪い景色は他にない。

わたしはすっかり嫌になり、食べかけのご飯を置いたまま外へ出た。


庭の井戸場をまたぐと東側は畑になっていて、ぐるりをお茶の木が囲んでいる。柔らかな新芽が育って、茶摘みを待っていた。

籠に集めた茶葉は、なんという道具なのか知らないが木枠に金物と和紙を張った畳半畳くらいの浅い箱にあけて、炭をおこした掘り炬燵の上でかき混ぜたり揉んだりする。子供の手にはかなり熱いが、わたしはこの作業が好きだった。

出来上がったお茶は渋みより苦みの強い良いお茶で、家の一年分をまかなうに足りた。


茄子の枝には早くも星形の可愛い花が付いている。背の高い垣根の足もとで、おいしそうな三つ葉が威勢よく伸びていた。


豊かで美しいこの家で、人間だけが醜かった。


獅子舞さながら頭髪を振り立てて歯噛みする母。

日本神話の絵巻に描かれた餓鬼そっくりの祖母。

悪魔の手先としてさまざまの奸計をめぐらす伯母。

家族のドタバタに無関心を貫く妖怪ぬらりひょんのような父親。


どいつもこいつも居なくなればいい、と思った。

この家があれば、弟と二人だけで自由に暮らしていける筈だ。


あれこれ考えていると牛がモ~と鳴いた。

食後のお水を待っているのだ。

子供の力ですべての牛に水のバケツを運ぶのは大変な労働だったが、わたしは何とかやりおおせた。

仔牛に近寄ると首を伸ばしてわたしの手を舐めた。


牛舎の匂いは独特だ。乳牛特有の体臭と、汚れた敷き藁の匂い。牧草と配合飼料の匂い。アブやヘビ除けに使うアースの匂いと機械油の匂いが僅かに混じっている。

温かく心安らぐ匂いだ。


牛たちの目は大きくて、ちょっと虚ろで、優しかった。


牛たちの隣の部屋には、壁沿いにいろんな機械が置いてある。反対側には酪農組合のマークが付いた飼料の袋が積んであって、それをよじ登れば梯子を立てるより手っ取り早く屋根裏に上がれた。屋根裏には藁束の備蓄が詰まっている。

藁の上に寝転がっていると眠ってしまいたくなった。

暫くの間はここに住もうかな、などと考えていると、母の軽トラがどこかに出かけて行く音が聞こえた。


庭で髪や服から藁くずを払い落としてお勝手に戻ると、タイル張りの流しの中でサザエさんの御飯茶碗が真っ二つに割れていた。

母である。

こういう事は何度かあった。

食べ残しをほったらかして雲隠れしたわたしへの見せしめか、祖母の意地悪への八つ当たりか、多分その両方だろう。茶碗をくれた人が『伯母側の人間』だから、当てつけの意味もあったかも知れない。

どっちにしても「危なかったな~」と思った。

ぐずぐず居残っていたら、自分も同じ目に遭わされたことだろう。


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