パラダイスの子供たち 前編
子供なりに『死』についての概念を持ち始めた頃、わたしはひどく苦しんだ。
寝入りばなに、ドスンと地底に落ちた感覚がある。
たちまち『死』がわたしを包み込み、こんなつまらない毎日の果てに自分は死んで、いなくなるのだ。この行く先にあるのは真っ暗な『無』でしかないのだ。
そう思うと恐ろしく、小学生低学年のくせに不眠状態になる。
一度、うっかり昼寝している時に『それ』が来た。
僅かにクリムソンがかった灰色をした無限の塊(矛盾した表現だが未だにそうとしか言いようがない)が、わたしを押しつぶそうとしている・・・
ここに一つ、脳裏にこびり付いて消えない情景がある。
半覚醒状態で泣きながら目を開けると、隣の居間でテレビの前にいた父がわたしを見て、何か間抜けな生き物を見たというような表情を浮かべた。
嘲っているとしか受け取れない薄ら笑いだった。
その時、わたしは子供なりに父親の人間性を感じ取った。
少なくとも、父にはわたしの苦しみに対峙する能力がない、そう理解した。
わたしは『死』に取り憑かれていた。
しかし、この件に関する詳細は、また後の章で述べることにしよう。
わたしは『死』を恐れていたが、誰にも心のうちを吐露するつもりはなかった。
周囲の大人たちに、自分の弱点を知られてはならない。そう決意していた。
それでも気になって仕方がないので、ある日、一番『死』に近いと思われる祖母にさりげなく尋ねてみた。
「おばあちゃん、死ぬのが怖くないの?」
祖母は言った。
「わたしは早く死にたいんだ。毎日お迎えを待っているんだよ」
大人の発言が、わたしの情操教育に役立ったためしはない。
あ~そうか、どうりで・・・
そうやって、待っていたんだ。死ぬのを・・・
わたしは何となく納得した。
ほんの時たま外出する以外、祖母は家の中でじっとしていた。
伯母が留守で母が炊事する暇もないような時には米を研いで、さえないおかずを作るために動いたが、大抵は居間の籐椅子に腰かけて、長時間ただ空中の何かを見詰めていた。
いつ見ても同じような、これ以上はないと思えるほど地味な色合いの簡易キモノを着て、半白のくせ毛をひっつめにしていた。
完全な老婆だと思っていたが、よくよく考えれば現在のわたしと年齢的にはさほど変わらない。
わたしは当時も今も泳いでいなければ窒息してしまう回遊魚だ。年上の友人たちも似たり寄ったりの性質で、派手な生活を送っているわけではないが、60代というのはまだ若く自由のきく年代だと考えている。
だが祖母はひたすらじっと座ってお迎えが来るのを待ち続け、ああそれなのに、その不断の努力にもかかわらず、どういうわけかその後20年近く生きた。
その日、分かったような分からないようなやり取りの後で、わたしは祖母の肖像画を描いた。2Bの鉛筆で濃淡をつけ、しわの一本一本から鬢のほつれまで、一切見逃さず克明に描いた。
その絵は、どんな経緯があったのか忘れたが、何かの賞を貰って学校の廊下に飾られた。
「お婆様に対する敬愛の情に溢れている」
わたしのことなんか何も知らない誰か(こっちも誰だか知らない)大人の人の評が添えられていた。
当時でさえ祖母にはどのような種類の感情も持っていなかった。我が帝国に点在する風景の一部であり、ただ単に弟や牛たちと違ってチョロチョロ動かないので描き易かっただけ。目の前の物を克明に描くのが面白かっただけの話だ。
その後、その絵がどこに行ったのかすら覚えていない。
まあそんなわけで、まさに不動を具現化した祖母だったのだか、一度だけ物凄いスピードで走るのを目撃した。
そのことを記述する前に、我が帝国の全体像を展開しておこう。
わたしの家は主に酪農を営んでいた。
と言っても、大規模な牧場だったわけではない。乳牛の頭数は、最も多い時で(仔牛を含めて)せいぜい15頭程度。それ以上増やすわけにはいかなかった。
なぜかというと父は削蹄の仕事も請け負っていて、依頼が多いため郡内のほうぼうを回って他の牧場の牛まで面倒見ていたからだ。そういう職業の人は少ないらしかった。
ここで想像が働かない方には、『牛さんのネイリスト』とでも解釈して頂きたい。
弟も大人になってからのある一時期、この仕事を手伝っていたのだが、三回ほど牛に蹴られて諦めた。
どうやらA君は動物を扱うセンスに欠けていた。人柄の良し悪しと動物に好かれるか否かは無関係、ということなのだろう。
事実、わたしがたまに遊びに行っていた乗馬クラブには荒々しく恐ろしげなサラブレッドがいて、周囲の人間を威圧していたのだが、馬主であるナントカ組の組長だという人物の指示には非常に素直に従っていた。
ヤクザにだって良い人は居るよ、と分かったような口をきく人もいるが、そもそも良い人間がヤクザなんかになりたがるわけがない。
まあ、それはともかくとして。
そんなわけだから父が留守の折には、母が牛の世話をしていた。
それより以前は、近所の農家数件でも乳牛を飼っていた。
地域の公民館の向かいに集乳所があって、子供一人入れるくらいの大きな牛乳缶をリヤカーや一輪車に載せて納めに行ったものだった。
それが農協か酪農メーカーだかのシステムだったのだろうけれど、わたしが世の中のはたらきを理解する前に集乳所はなくなってしまった。
他の家の人は国鉄に勤めたり外洋船に乗ったりして牛を手放したので、牛屋はうちだけになった。
うちにはかなり広い牛舎があったし、サイロその他の設備も整っていた。
家の門を入ったすぐ脇に昔からの井戸があり、その場所が都合良かったのか集乳所が建った。
内部でコンプレッサーや冷水池が稼働しているから子供は入って遊んではいけないとのお達しがあった。
ピカピカするステンレス製の搾乳機も導入されたが、扱えるのは父だけだった。
母の仕事は飼料と水やり、時たま敷き藁の交換をして畑の一画の堆肥用スペースに運んでいた。
母は牛たちの遊び場の南側にある畑でいろんなものを育てていた。
それ以外に、家から少し山側に行った田んぼで稲作をしていたし、町に下りる緩い坂の途中に畑を持っていたので、農作業はかなり忙しかった。
わたしは敷地内の畑の一部を利用してイチゴやラディッシュを育てた。
ある時、学校に来た業者からバラの苗を買い、その脇に植えた。
別の時には校庭の隅に栴檀のこぼれ種が発芽しているのを見つけて引っこ抜き、家の庭と牛広場を仕切る柵の近くに植えた。
学校の旅行か何かで行った先で見つけた白樺の幼苗も同様に引っこ抜いて持ち帰り、伯母が管理する北側の花壇に植えた。
バラは大きな赤い花を咲かせた。栴檀はあっという間に大木化して、夏場は牛たちに木陰を提供した。白樺もすくすくと育ち、エレガントな佇まいを見せた。
北東側の勝手口を出たところには、前世紀から生きている蘇鉄が3メーターを超えて聳え立ち、帝国のランドマークよろしく伯母の花壇を睥睨していた。
花壇は早春には水仙とヒヤシンスに縁どられ、やがて牡丹と芍薬合わせて50株ほどが咲き始める。
今しも満開を迎える直前に花屋さんがやって来て、あらかた刈り取って行く(後で知ったことだが、結構なお金と引き換えになったのだ)。
残念なことではあったが、すぐにも残りの蕾が花を咲かせ、伯母はそれを生け花の材料に使った。
牡丹が終わり芍薬も終わると、白とオレンジのユリが咲き、グラジオラスやダリアが咲いた。足もとにはクロタネソウとアイスプラントの原種が茎を伸ばした。
アイスプラントはカツオのあら汁に入れて煮立たせる。初夏の味わいである。
小道を挟んだ北側に鶏小屋があって、時間を決めて鶏を放ち、花壇で遊ばせていた。
花々の勢いが良いのは鶏糞のお陰だ。
何歳くらいまでのことか忘れてしまったが、何度か伯母と祖母に連れられて海岸へ行った。海の砂を採取するためだ。
伯母は車を運転できないので、明治維新以前から使っていたと思しき柳細工の乳母車を押して歩いた。
わたしはよくこの乳母車に弟を乗せて、庭中走り回ったものだ。
目的地はいつもの海水浴場からは大分離れた場所だった。海岸の砂は貝殻が砕けて出来た砂だから白くて肌理が粗い。
鶏にはこの砂が必要だった。卵殻の形成に欠かせないのだ。
この区域は遊泳禁止なのに、よそからやって来た観光客が警告を無視して流され、毎年ひとりふたり死んだ。
彼らもやはり『死』に取り憑かれ、ついに境界線を越えてしまったのだろうか?
わたしはあまり水際に近寄らないよう気を付けながら、欠損のない桜貝や巻貝を見つけて自分の手提げ袋に入れた。
細長く尖った巻貝は平凡過ぎる。よほど色合いが気に入らなければ拾わなかった。
一番好きだったのは楕円形の巻貝で、猫貝と命名した。『不思議の国のアリス』に登場するチェシャ猫の顔に似ていたからだ。
オレンジ色の貝殻を拾い上げると、猫貝はにんまりと笑った。
持ち帰った貝殻は、真水で洗い、良く乾かしてからオルゴール付きの木箱に入れた。
廃車置き場で拾ったフロントガラスの破片と混ぜ合わせると、海賊の宝箱のように見えた。
鶏小屋の横でサクランボの木が実をつけると、わたしと弟は早い者勝ちに捥いで食べた。小さな木なのに毎年必ず律義に働いて、わたしたちに喜びを与えてくれた。
勝手口から眺める庭は、花壇に季節の花が咲き誇り、蘇鉄と白樺というありそうもない組み合わせの向こうで、藤色の花房こぼれる木陰に牛たちがまどろんでいる。
思い返してみれば、楽園のような家に生まれ育った。
南西の角では椎の木の大木が影を落とし、裏庭の果樹園の中心に備わった古井戸の周りに水芭蕉が群生していた。
梅が咲くとメジロが来て、まれに何を思ったのかカワセミも飛来した。
しょっちゅう蛇が出たが、あまり気にしなかった。
秋は外の手水場の横に絶妙な枝ぶりに剪定されたキンモクセイが香り、それが終わると、水盤を取り囲むようにマリポーサの白い花が妖艶な香りを放った。
北側を囲む槇の生垣とハランの茂みとの間には短い丸太が適当に積まれており、時々覗くと大きなシイタケがたくさん付いていた。
伯母は時々鶏を絞めて夕餉の鍋にした。
学校から帰って来た時、勝手口の向こうの橙の枝に首のない鶏が逆さにぶら下がっていれば今夜のおかずが何になるのか分かる。
わたしはいつも楽しみにしていた。
牛のお産が始まると、わたしは外のかまどで薪を焚いてお湯を沸かす準備をした。牡が産まれた時、食肉の市場相場が低かった場合は、内々(獣医さんとか馬喰とか)で屠って分けた。これは少々後ろ暗い、違法行為だったらしい。
生れたばかりの仔牛肉は脂肪分が少なくヘルシーだが、味覚的には食肉用の成牛と比べるとかなり劣る。なので伯母はバターをたっぷり使いカツレツを作った。必ずニンジンのグラッセとカリフラワーのクリーム煮が添えられていた。
そういう料理を作れるのは、我が家では伯母だけだった。
父の職業の絡みで、家の冷蔵庫には常にバターやチーズがふんだんにあったにもかかわらず、祖母が食卓に提供するのはサクランボの横でとれたキュウリの酢の物と、鶏小屋の裏に繁茂している蕗の佃煮くらいだった。
弟が祖母を好かないのはそれも一因だったのだろう。
その他の事情を考え合わせるに、わたしたちのお婆さんは、かのスクルージさんも尻込みする第一級の吝嗇家であったと断言して間違いはない。
長くなってしまったので分割します。
後編では、いよいよ祖母が猛スピードで走ります。ご期待ください。