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パラレルワールド

わたしの住んでいるパラレルワールドでは、こういう展開にはならない。

母は落ち着いた優しい大人だ。

「お母さん、このオルガン、どうしたの?」

「ついさっき、伯父さんが運送屋さんと一緒に運んで来たの。B子が大好きだったカヤ姉ちゃんの形見よ」

「わたしがカヤ姉ちゃんのこと好きだったの、お母さん、知ってたの?」

「そりゃあ、小さな頃のあなたは田舎の家へ行くたびにカヤを探していたもの。わたしだって妹を好きだった。亡くなってしまって、とても寂しいわ。こうなる前に何かしてあげられたかもしれないと思うと、残念でならないわ」

「わたしも・・・カヤ姉ちゃんに手紙を書けばよかったと思っているの・・・」


すると母は急に明るい口調で話題を変える。

「ねえ、B子! このオルガン、あなたが弾きなさいよ」

「え・・・だってわたし、楽器は苦手だもの・・・」

「だから、これから練習するのよ。せっかく貰ったのに使ってあげなきゃ、かわいそうだわ。伯父さんに電話して、教本が遺っていれば送ってもらいましょう。お母さんも時間を作って練習に付き合う。音楽は心をなぐさめるものよ。カヤもどこかで聴いていてくれるかもしれないわ」


そんなわけで、わたしはオルガンを習うことになる。

毎日まじめに練習して何曲か弾けるようになると、母がそばに来て歌ってくれる。

だから二人で 『夏は来ぬ』 なんかをデュエットして、若くしてこの世を去ったカヤ姉ちゃんに思いをはせる。


やがて母は優しい声で、カヤ姉ちゃんの子供時代のエピソードなんかを話してくれる。

年の離れた妹が生まれて嬉しかったから、いつも一緒に遊んでやったこと。

赤ん坊のわたしを連れて里帰りした時、成長したカヤが同様に喜んで可愛がってくれたこと。


「あなたがカヤに会えなくて寂しい思いをしていた時、何も言ってあげなくてごめんね。小さなあなたには話さない方が良いと思えたことがいろいろあったのよ。

でも、B子がカヤに懐いていたのと同じくらい、カヤはあなたを可愛がっていたわ。

これからはカヤが果たせなかった分まで、生きているこの時を大切にしようね」


もしかしたら母はわたしのために、事実に少し脚色を加えたかもしれない。

ほんの少し、優しい嘘が混じっていたかもしれない。

だって、人は他の人の悲しみに延々と拘泥していてはいけないのだ。それはある種のトリアージみたいなものだ。悲しみの中に住み続ければ心を損ない、明日に向かう体力を奪われてしまうのだから。


それからの母は強くなって、後から考えれば「ま~、世の中にはあんなに意地の悪い人たちもいるのね!」と思いたくなるような父方の伯母や祖母の冷たい仕打ちも笑ってかわし、内にこもりがちなわたしに心を砕く。

わたしは幼稚園の先生にはなりたくなくて、できれば獣医さんになりたいと思っていると正直に打ち明ける。

言葉を尽くして説明すると、母は理解を示し、夢に向かって二人で頑張ろうね!と言ってくれる。



残念なことに、現世ではそうならない。


母は怒りを吐き出し続ける。

「幼稚園の先生になりたいと言って学校にも行かせてもらって、練習用にオルガンまで買って貰って・・・わたしなんかなんにも買って貰ったことがないのに。

末っ子だからって甘やかされて・・・カヤばっかり可愛がられて・・・挙句の果てに、それも気に入らないで死んでしまうなんて、贅沢も良いところだよ!」


もしかしたら、それが母ならではの悲しみの表現方法だったのかもしれない。

本当はカヤ姉ちゃんに生きていて欲しくて、死を選んだ妹の弱さに苛立ちを覚えていたのかもしれない。


いずれにせよ、それは感情表現としてはあまりに稚拙だったし、わたしに向かって言うべき言葉ではなかった。

だからわたしは地雷を踏み続けた。

「お母さんには思いやりが欠けてる。自殺というのはカヤ姉ちゃんの最後のメッセージなのよ。カヤ姉ちゃんが何を思い苦しんでいたのか、わたしたちはそのことをもっと考えてあげるべきなのに、世間体だなんて・・・そんなことばっかり言う人が周りにいたからカヤ姉ちゃんは死んでしまったのよ。死んだ人を侮辱するのは良くないことだって、分からないの?」


予見していたことだが、わたしの言葉に説得力はない。

母は完全に激昂していた。

「あんたはいつだって、わたし以外の人の味方をするのね!

それもこれも、あの伯母さんと婆さんに育てられたせいだよ。あいつらと一緒になって、いつもわたしを馬鹿にして、えらそうに、このろくでなし!」


不思議でならないのは、常日頃は忙しい忙しいと言って怒っているばかりの母なのに、不毛な罵倒を延々と続ける時間ならいくらでもあった、という点だ。



「あの伯母さん」という人物の説明をしておくべきかもしれない。

我が帝国は悠久の昔から長女を家長として奉っていた。

伯母は18代目の女帝となるべく生まれたのだが、運悪く戦争やら何やらわたしの知らない事情などで婿さんを取りそびれた。

もう間に合わないと分かった頃には、三人いた妹たちは全員遠方に嫁いだ後だった。

そんなわけで、末っ子で長男の父が嫁を取り家長の名を継いだ。

しかし、これはあくまでも暫定措置だった。

わたしが産まれると、伯母は上を下への大騒ぎをした挙句、母の手から赤んわたしをひったくった。

以来、女帝の座に返り咲くため、正式な跡取りとなる(筈の)わたしを懐柔し、傀儡と化した母親(祖母)を意のままに操り、ふたりして母を引きずり落とすための総攻撃を仕掛け続けていた。


伯母は暇さえあればわたしを行楽地やデパートに連れて行った。また、祖母もまじえて頻繁に妹たちの嫁ぎ先その他の親戚を訪ね、わたしの母がどんなに愚かで悪い女であるか、微に入り際に穿って説明した。

「本当に困っているのよ・・・」


わたしは卓上ピアノとか美しい絵本とか、いろんな贈り物を貰った。

近所の子供たちの誰もが児童用の黄色い雨傘を使っていたけれど、わたしのレインアイテムは可愛いピンクで統一されていたので、どこに置き忘れても必ず家に届けられた。

プードルみたいな冬用コートを買って貰ったこともある。

帰りの地下鉄の中で、伯母はわたしにささやいた。

「こうやっていろんな所に連れて行ってあげるのも、流行の服を買ってあげるのも、わたしだけよ。あんたのお母さんはなんにも買ってくれないでしょう?

伯母さんの言うことだけを聞くのよ。お母さんの言うことなんか、聞いちゃ駄目よ」

頭の上から呪詛のような言葉が降り注ぎ、わたしは凝固した。お腹の底に冷たい何かが広がって行くのを感じていた。

黒い車窓に映る伯母の顔は、『イワンの馬鹿』という絵本に描かれていた小悪魔そっくりだった。


今はあまり機会もないが、たまに地下鉄に乗るとあの顔を思い出す。

そして、父方のつくりだと言われる自分の顔が、どうか伯母に似ませんようにとひたすら願う。



母がほとんど何も買ってくれないのは当たり前だ。大きな財布を握っているのは伯母の方だったのだから。

伯母はわたしを怒鳴ることも叩くこともしなかったので、多少はましな存在だったのだが、かといって母が怒りの矛先をわたしに向ける時に、庇ってくれるわけでもなかった。

怒号や泣き声が家の中に響いても、姿を見せる気配はなかった。


よくよく考えてみたら、わたし自身、伯母に助けを求めた憶えはない。


母はストレスのせいで精神の均衡を失っていたのだろう。伯母と祖母への当てつけが主な目的で、頻繁にわたしを罵り暴力を振るった。母の側につくのは、日に日に難しくなっていった。



きっちり三年後に生まれた弟も、同じ運命をたどった。


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