幼年期の終わり
わたしはラスト・エンペラーだった。
正確には家臣無きラスト・エンペラーだった。
家中では摂政大臣の座をめぐって日夜壮絶なバトルが繰り返されており、幼いわたしが心静かに過ごせる時間は少なかった。
母の実家は大家族だったが、むやみな大声をあげる人はいなかった。大人たちは間延びするほど穏やかな低く落ちついた声で、Nの発音が特徴的な独特の話し方をした(不思議なことに、血縁者である母のNはごく普通のNだった)。
後になって「そのような話し方は山里に隠れ住んだ平家落人が末裔の特徴である」という説を唱える人がいた。平家落ち武者の伝説は本州の各地に点在するらしい。わたしは歴史物にも戦国物にもまったく興味を持たないので、へ~そうなんだ~、と言って聞き流すのが常だった。
耳あたりの柔らかなNはともかくとして、自分の意志で滞在する家ではないのだし、馴染もうと努力するような年齢でもなかったわたしにとって、さほど居心地が良いというわけではなかった。
ただ、実家にいる間の母はキンキン声を発せず、わたしが何をしていようと「B子―ッ!!」と怒鳴り散らすこともなかったので、それはそれで儲けものだったと言えるかもしれない。
わたしが会いたかったのはカヤ姉ちゃんだけだった。
山里の家に行くたび、今日こそはカヤ姉ちゃんがいると願ったが、期待はいつも裏切られた。
寂しく退屈したわたしは、無断でカヤ姉ちゃんの部屋に入った。
本棚に「キネマ旬報」が何冊もあったので、それを端から眺めて過ごした。
次に行った時もそうしてやり過ごした。たまに新刊が置いてあった。
いたんだ・・・カヤ姉ちゃん、今日だったら良かったのに・・・わたしはそう思い、まぼろしを追うように「キネマ旬報」を読みふけった。
そのうちに、新刊が増えることはなくなった。
今になって思えば、なぜわたしはカヤ姉ちゃんの不在の理由を誰にも尋ねなかったのだろう? なぜ周囲の大人に、カヤ姉ちゃんに会いたいと言葉に出さなかったのだろう?
せめてカヤ姉ちゃんの机に、置手紙を残してから帰れば良かったのに・・・
わたしには思い出せない。分かっているのは、いまだにわたしは自分の気持ちを正直に表現しない傾向があるという事実だけだ。
キネマ旬報が更新されないので、わたしは家の前の道を渡って川へ続く坂道を下りた。一人きりで水辺の景色を楽しみたかったのだが、なぜかいつも従兄弟たちがついて来た。
仕方がないので一緒に遊んだ。
川に行くと従兄は巧みに鮒を釣った。
伯母さんはそれを甘露煮にして夕飯に出した。
わたしは甘い川魚を食べられなかったので、のりたまを貰ってご飯を食べた。
従兄は無口で、時々マンガ本を貸してくれた。連載物の少年雑誌だから、つじつまがよく分からなかった。
この従兄は学校を出ると機動隊に入って成田で糞尿を浴び、そのうちいつの間にか刑事になった。
下の従弟の方は市の職員か何かになった。
父方のいとこも大勢いて、たいてい公務員か半官半民の勤め人になった。
母はよくわたしに「皆と同じように生きろ」と言った。というか詰め寄って、思春期のわたしを困惑させた。
もしもわたしが機動隊員になりたいと言ったとしたら、賛成しただろうか? そこは不明である。
わたしが中学生になったある日、カヤ姉ちゃんが亡くなった。
「幼稚園の先生になりたかったのだが心臓に疾患が見つかったせいで試験に落ち、それを苦にして自室で首を吊った」
というのが、わたしの知り得る情報のすべてだ。
そこに至るまでの会えなかった数年間、カヤ姉ちゃんがどこにいて何を思っていたのか、わたしには知る手段がなかった。
母に尋ねる、という選択肢はない。母は実妹の死に腹を立てていて、そもそもどのような事柄についても母から客観的な話を聞き出すには神がかり的な能力が必要で、わたしにはその才能がなかった。
今も時々空想する。もしも何かに挫折して自殺を考えている人に出会うことがあったら、言っておきたい。実行に移す前に、それまでに会ったことのある子供を訪ね回って欲しい。親戚とか知人とか、ボランティア活動で出会った子供とか・・・。
あなたのちょっとした優しさに情緒的な慰めを得た子供がいるかもしれない。うまく言葉に出せない子供ほど、心に秘めた思いは大きいかもしれないのだから、とりあえずすべての子供にお別れを言ってあげて欲しい。
そして、あなたが死を選んだ理由を、子供にもわかる言葉で説明してあげて欲しい。
子供なんか好きじゃないと言うなら、まあ、それはそれで仕方のない話です。どうぞお好きに。
それはともかくとして・・・
初夏のある土曜日、学校から帰って来たら玄関にオルガンが置いてあった。
「これ、どうしたの?」
母に尋ねると、カヤ姉ちゃんの形見分けに親戚の人が運んで来たと言う。
「こんなものを貰っても、場所塞ぎになるだけだわ」
母は言った。すでに怒りがにじみ出ていた。
家の玄関は、何を考えて設計したのか三和土だけでも下手な六畳間より広い。観葉植物も置物もない殺風景な伽藍洞だったので、「場所ふさぎ」というのはかなり大げさだった。
「まったく、カヤもはた迷惑なことをしてくれたよ」
母の怒りは、海中の岩穴に待ち構えて、小魚が通り過ぎるや否や牙を剥いて襲いかかるウツボのようなものだった。
別の言い方をすれば、「これ、どうしたの?」と訊いた時点で、わたしは地雷原に足を踏み入れていたのだ。
しかもなお、学習能力の低いわたしは母の暴言に驚き、抵抗を試みた。
「そんなこと、言うべきじゃないよ!」
そして地雷を踏んだ。