ダマスカス鋼
「師よ、スイスの友人が日本刀は砂鉄などというゴミのような鉄を使って作られているのだから、ヨーロッパのダマスカス鋼を使えばもっと素晴らしい剣になると言っていたのですが、師はこれをどう思われますか?」
師は苦笑しながら答えました。
「その子はよく勉強しているようじゃな。
確かに中世ヨーロッパの技術で考えた場合、砂鉄はクズ鉄じゃ。使い物にならん。
そして同時に勉強が足らんな。
和鋼は現在主流の間接製鉄法とは違い、不純物を燃やすのではなく、鉄を抽出して鋼を作る為、間接製鉄法では除去が難しいリンや硫黄といった不純物を除去した高品質な鋼が出来る事が解っておる。
近代以前にこれ以上の鋼は難しいじゃろう。
まぁ、これは興味のある者でなければ知らなくとも仕方のない事かもしれんが、もう一つの間違いの方はあまりにも非常識な間違いで何故疑問に思わなんだのか理解に苦しむわい」
その言葉に弟子はびっくりしました。
師がそこまで言うような間違いがあるとは思ってもみなかったからです。
「師よ、恥ずかしながらそのような間違いがあったとは私も気付きませんでした。
いったい、何がそうも非常識な間違いなのでしょうか?」
それを聞いた師はギョッと目を見開いた後、とても困ったように弟子に聞きました。
「弟子や、そもそもダマスカスとは今現在もこの世界に存在する都市なのじゃが、どこの国の都市かは解るかの?」
弟子はそこで自分がダマスカス鋼という鋼の名前は知っていても産地であるダマスカスがどこにあるのか知らない事に気が付きました。
東の日本刀、西のダマスカスソードなんて言葉も聞いた事があるし、きっとヨーロッパのどこかにあるのだろうな、と弟子はアタリをつけ、そこから弟子は考えてみました。
「スイスでしょうか?」
ハァ、と師はこれみよがしに溜息をついてみせます。
「正解はシリア・アラブ共和国の都市。それも首都じゃよ。
古代から現代に至るまで何度も名前の出てくる有名な都市じゃと思うが、お主は本当にスイスにあると思っておったのか?」
どうやら自分はかなり馬鹿な事を言ってしまったようだ、と弟子は羞恥を覚えましたが同時に疑問を抱きます。
「自身の教養の無さには恥じ入るばかりですが、シリア・アラブ共和国という事は、アラブなわけですからダマスカスは中東の都市です。
ならば何故、そこで産出した鋼を用いた剣が西洋で最も優れた剣であるかのように主張する者がいるのでしょうか?
中東は西洋の範疇には入らないと思うのですが」
師はうむ、と頷きます。
「中東は西洋ではない。当たり前じゃな。
ならば考えられるのは主張しておるのは白人至上主義の詐欺師か、詐欺師の主張を真に受けた人物。
もしくはお主のような目黒のさんまに出てくる殿様みたいな奴かの」
弟子は何を言われているのか解らず少し困惑してしまいました。
目黒のさんまと言われて弟子が思い浮かべるのは落語の噺です。
確か殿様が目黒でさんまを食べさせてもらって、城でも食べようとしたら不味くて家臣にさんまは目黒に限ると言い出すといった内容だったはずです。
その殿様みたいとはどういう事でしょうか。
少し考えてから弟子は言いました。
「産地を勘違いしているという事でしょうか」
師は満足気に笑います。
「うむ。ダマスカスではヨーロッパ向けにヨーロッパ風の剣も輸出しておった。
ヨーロッパでこの剣を見つけた者が殿様みたいに勘違いをしてダマスカスソードはヨーロッパに限る、と言い出したのやもしれんな」
それは十分にありうる話で弟子も師につられて笑ってしまったのですがすぐに違和感に気付いて顔を引き締めました。
「師よ、師は先程、私のようなと仰いましたが何か私は産地を勘違いしているのでしょうか」
師は答えます。
「お主はダマスカス鋼の産地がダマスカスであると思っておるようだが、それは違う。
ダマスカス鋼とはヨーロッパ人がつけた名前でな。今で言うインドから輸入された鋼なんじゃ。じゃからウーツ鋼と呼ぶ方が誤解が少ないじゃろう。
こんな事になったのはそれこそ目黒のさんまでな。ダマスカスで売られていた剣だからダマスカスの鋼でできとるとヨーロッパ人が思い込んでそう呼んでいたらそれが定着してしまったんじゃよ」
これには弟子も驚いてしまいました。
まさかダマスカス鋼がダマスカス産の鋼ではないなどと思いもしませんでした。
「師よ、私は納得いたしました。
ところで最初の質問に戻るのですが、結局、ダマスカス鋼で日本刀を作れば性能は上がるのでしょうか」
師はそれに対して言いました。
「性能は同等か、下がるじゃろう。
まだウーツ鋼が存在しておる十七世紀に日本にやってきたヨーロッパ人が日本の鋼はダマスカス鋼と同等かそれ以上としておるし、そんなもんじゃろう。
ただ、ウーツ鋼はその製法や産地の特色からリンが多量に含まれておる。
リンは鋼の硬度を上昇させ靭性を減少させる故に単純に和鋼と同じように作ろうとすれば切れ味や耐久性が下がるだけじゃから最良の作刀を模索する必要があるがの」
そんなものなのか、と少し弟子はがっかりしました。
当たり前といえば当たり前なのですが、普通の鋼の品評会のようで物足りなく感じます。
そこで弟子はあれ、と思いました。
「師よ、ダマスカス鋼といえば錆びない事で有名ではありませんか。しかし玉鋼は錆びやすいと聞きます。
その点は考慮に入れないのですか?」
師は手を左右に振りながら答えます。
「弟子や、錆びぬ鉄などありはせん。何故なら錆びた鉄の方が本来の鉄の姿で、ワシ達の知る状態の鉄は鉄から酸素を無理矢理引き剝がしたものに過ぎんからじゃ。
錆びるというのは鉄の傷が治っていくようなもので実に自然な動きなんじゃよ。
この動きは鉄に含まれた不純物によって促進されるから鉄の純度が高ければ錆びる速度は落ちる。
良質な鋼が粗悪な鉄より錆びにくいのはこれが理由じゃな。
ウーツ鋼も錆びにくいというだけで普通に錆びるぞ。和鋼も同様で純度が高いが故に錆びにくいが錆びないというわけではない。
和鋼が錆びやすいという誤解は日本の気候が湿度が高く錆びやすいという事を忘れておるのと、古い油が原因で発生した錆びを和鋼が原因だと思い込んでしまった事が原因じゃ。
付着物によっても錆びは促進されるから使用したのなら拭き取りが必要じゃし、目に見えぬ程度の錆びでもそこから錆びが広がるからこれも取らねばならんし、空気に触れさせておくと酸素が錆びの原料となり水素が錆びを促進させるから触れさせぬよう何らかの膜で覆う必要がある。そしてこの膜も油や塗料といった外的な物であれば古くなるとその膜が逆に錆びを促進させてしまうので定期的に取り除いて新しく覆い直す必要がある。
手入れを怠るとあっという間に錆びるのはこういった事が原因じゃな。
ちなみにステンレス鋼が錆びにくいのは、ステンレス鋼に含まれておるクロムが酸化した際に発生する膜が鉄を保護しておるからで何らかの理由でこの膜が破壊されればやはり錆びる。
錆びないと誤解するのはこうした事を知らんか、目を瞑っておるだけじゃろう」
弟子は大変驚きました。
錆びは鉄の美しさや強さを損なう物でまさか逆に錆びた鉄の方こそ自然な状態だとは信じられぬ話です。
しかし、そこで弟子ははたと気がつきました。
「師よ、疑問があります。
師のお話にも出てきたステンレス鋼ですが、ステンレス鋼はダマスカス鋼を参考に作成された錆びない、いえ、錆びにくい鋼ではありませんか。
で、ある以上、ダマスカス鋼もステンレス鋼のような錆びにくい鋼なのではありませんか?」
師は意地悪そうな笑みを浮かべます。
「ステンレス鋼が錆びにくい理由はクロムに由来するものだという事はさっき言うたな?
実はじゃな、ウーツ鋼にクロムは含まれておらん。ウーツ鋼を調べてもさっぱり錆びぬ理由が解らなんだからの、七つの金属を混ぜ合わしてダマスカス鋼は作られたという伝説に着目して合金の研究が行われ、その延長線上にステンレス鋼が存在するというだけじゃ。
まぁ、ウーツ鋼は普通に錆びる金属じゃから調べた所で錆びない秘密なぞ解るわけがないわな。
ダマスカス鋼が錆びない理由などというものはヨーロッパで作られていた粗悪な鉄と比較して錆びないと言ったのをそのまま錆びないと解釈してしまったか、ウーツ鋼と関係の無いデリーの鉄柱をウーツ鋼製と勘違いしておるかじゃよ。
ちなみに、デリーの鉄柱が錆びておらんのは単純に鉄分が酸化しにくい環境だったという事と、錆びる前に黒錆が発生した為に黒錆が膜となり錆びなかったというだけじゃ。
そもそもあれはアショーカ王を讃える仏教由来の建物から強奪された物で伝説も後付けじゃったりする。
じゃから神秘でも何でもなく、表面の黒錆を削ぎ落としてから錆びやすい環境に置いておいてやれば普通に錆びるぞ」
弟子は驚きながらも尋ねます。
「師よ、しかしダマスカス鋼はカーボンナノチューブ構造が見つかっておりオーパーツという話も聞いております」
師は答えます。
「あれは単に電子顕微鏡の電子線で傷付けた結果、炭素がカーボンナノチューブのような形状になっただけじゃよ。
ただの単純ミスじゃな」
うぅむ、と弟子は唸りました。伝説の鋼が単なる高品質な鋼になってしまったようでガッカリしたような、神秘ってそんなものだよなぁという諦めの感情が入り混じり、やがてそれはため息という形で吐き出されるのでした。
「師よ、私は納得いたしました。
実はダマスカス鋼を用いた刀で無双する話を考えていたのですが、どうやら止めた方が良いようですね」
それに対し師は否定します。
「創作の世界ではダマスカス鋼は現実のウーツ鋼を離れ、魔法の金属となっておる。
現実と混同すれば問題ではあるが、創作の世界におけるダマスカス鋼は確かに魔法の金属なのじゃから気にせず使用すれば良い」
とはいえ、ロマンはもう壊れちゃったんだよなー。どうしよっかなー、と内心弟子は思っていましたが、とりあえずこの件は保留にする事にしました。
そんな弟子の内心を師は正しく把握していましたがここから先は本人の問題じゃしこれ以上は不要じゃろう、とほっとく事にしました。
二人は笑い、和やかに弟子はその場を去りました。