序章3:彼女のお話/その価値を今は正しく知らねどもⅡ
「――――――ふぇ?」
歩みは亡者のように。
地を滑る幽鬼のような足取りで、見知らぬ男が反り返った刃を片手に少女と魔物の間に割り込んだ。
その姿は彼女にとって理外の何かで、だからそれが何なのか咄嗟に理解できなかったのは当然のこと。
だから、ただ突然のことに、現実を忘れたかのような間の抜けた声が漏れた。
「――――ォオッ!!」
先ほど自分が躓いた人物だと気づくが早いか、雄叫び染みた声を発して男が魔物へと飛びかかる。
それを見て、彼女は助かった、と湧き上がった歓喜と安堵の想いに胸を撫で下ろそうとして。
「ガッ――――カアァァァァァァァッ!」
血を吐き踏鞴を踏んで、そして叫ぶ男の横顔に明らかな死相を垣間見て、歓喜も安堵も一瞬で消し飛んだ。
「おい、まて、なんで」
状況も忘れて、ただただ呆然と見知らぬ誰かに問いかけた。
自分以上に死に瀕した人間を前にしたからか、或いは安全が確保されたからか。
恐怖に震えていた心が、冷や水を浴びせられたように冷静さを取り戻す。
「なんで」
もはや死に体。目の前の彼は、もう死ぬしかない体を動かしている。
安らかに死を受け入れるべき体を、苦痛と引き替えに動かしている。
死ぬべき、死んでおくべき人間が、血を吐きながら刃を振るっている。
なぜ? なんで? どうして? そんなのは決まっている。
馬鹿でも解る。自分が助けを求めたからだ。
幸いにして、最後の弱音が届いたからだ。
――――何一つとして間違いは無い。道理に適っている。
疑問を差し挟む余地などない。
生きているのならば、どれだけの、どれほどの苦痛を伴おうとも、その命を絞り尽くして自らを助けるのは当然のことだ。
何一つとして、間違ってはいない。道理に適っている。
彼は至極当然の、当たり前のことをしているだけだ。
特に驚くべき点はない。特筆すべき事実はない。この場において彼の行いは最善だ。
何一つとして、間違ってはいない。道理に適っている。
「なんで」
なのにどうして、その姿は胸を打つのか。
胸に締め付けられるような痛みがある。
頭の中では、なぜ、なぜ、なぜ、と疑問が絶え間なく浮かんでは消えていく。
「どうして」
助けの言葉は堪えきれずに零れただけであり、何か意味があった訳ではない。
特別な生まれではない。因縁めいた過去があるわけでもない。何かを秘めているなんて在り得ない。
ただの女だ。平凡な生まれの、平凡な家庭に生まれた。ただ面倒臭いだけの女だ。
「なのに」
何一つとして間違っては居ない。道理に適っている。
死にかけの彼が、私の存在に奮起して、命を懸けて私を助ける。
この流れに異論を差し挟む余地は無い。万人が道理と頷くだろう。
たとえ魔物と相打って彼が死のうとも、自分が生き残ればそれは正しい。
間違っていない。正しい。この考えは正しいのだ。
なのに、どうしてだろう。
これは駄目だという想いが胸を焦がした。
自分のような平凡な女のために、そこまでしては駄目だと。
瞬きすらも疎むほどに、死に体とは思えぬ泰然とした背中から目を離せない。
そこまでするのならば、何か特別なもののためであるべきだと。
わからない。わからない。訳がわからない。
幸いにして、彼が戦うそれを除いて周囲に魔物の気配は無い。
だから、例え彼が死に絶えようとも、私は確実に助かるし、それは正しく、どうにでもなるのに。
「GYL――――」
振り下ろされる魔物の爪は空を裂いて、そうと定められたが如くに魔物の首が零れ落ちる。
何が起こったのか、何が起きたのか、彼女には理解できはしないけれど。
彼が手にした、見たこともない浅く反った細い剣を振るって血払いをしたことで、戦いが終わった事を理解して。
「■■■、■■■■■■■■」
振り返った彼が、彼女には理解できない言葉を口にした。
それが何かを彼女が理解しようとする前に、ぱたり、と糸の切れた人形の如くに彼は地面に倒れこむ。
「っ!?」
彼が死んだところで何の問題がないのは解っているのに。
それでも彼女は彼に駆け寄らずにはいられなかった。
追加:眠っている小歳に対するディーノ独白。
昏々と眠り続ける彼を前に考える。
ああ、もうずっとずっと考えている。
彼が目覚めるまで、後どれだけだろう。この調子なら、日が昇るまでだろうか。
解らない。けれど、考える時間だけは山ほどある。
いいや、違う。在るのは考える時間じゃない。覚悟を決める時間だ。