序章1:彼女のお話/その価値を今は正しく知らねども
走る。
走る。走る。走る。
焦げ茶色の長髪を靡かせながら、必死になって。
(チクショウ! ああ、チクショウッ!!)
溢れ出しそうな悲鳴を必死になって噛み殺し、零れ落ちそうな弱音を悪態で押し込めながら彼女は走る。
入り組んだ狭い路地の中であるにも関わらず、自らを追い立てる足音は遠ざかる事も無い。
左右に立ち並ぶ掘立小屋とあばら屋で区切られた秋の日差しが、焦燥と疲労から真夏のもののように感じられる。
「―――っは、ぁ!」
堰切るように一度だけ熱の篭った息を吐いて吸う。
肌に滲む汗に髪が張り付いて煩わしい。
幼い頃には男子に混じって遊んでいたから運動は苦手ではないけれど、脅威に追い立てられるという事実が普段異常に精神を磨耗させ、体力を奪っていた。
もう、限界が近かった。
状況は最悪だ。逃げ延びようと、生き延びようとした行為が全て裏目に出ている。
救援からは姿が隠れ、しかし追うものからは逃げられない。
運が無かった。本当に、運が無かった。
今日は偶然にも第一市壁の中に用事があって、その帰りに《侵食》が起こって迷宮から魔物が溢れ出た。
そんな中で、遠くから響いていた雄叫びも、剣戟の音も聞こえないことに、ふと気が付いた。
追い立てる魔物から逃げようと必死になっていたからだろう。
主戦場となる場所から遠く離れてしまったのか、それとも武装した者達が体勢を立て直すために市壁の向こうへと下がってしまったのか。
或いは、もう鎮圧されて、自分を追う魔物が最後の生き残りなのか。
解らない。助けて、と大声を出せば、もしかしたら誰かが聞き取ってくれるのかもしれない。
けれど、助けを求めてしまえば、きっとそれだけで。
―――――この足は、心と共に折れるだろう。
歯を食い縛る。
叫ぶ分の力を足に篭めて―――――何かに躓いて、その勢いのままに体を投げ出した。
「痛っ………」
咄嗟に地面についた手から感じる、ヒリヒリとした痛みに顔を顰める。
慌てて上体を起こして振り返れば、そこには倒れた男性の姿があった。
どうやら彼に躓いたようだった。
生きているのか、死んでいるのか解らない。けれど、今はそれを確かめている余裕はない。
自分を追うモノは執念深く、一度これと狙いを定めれば他には目もくれないらしかった。
だから、今は、立ち上がって走らないと。死んでいようが、少なくとも自分が走り去れば安全だろう。
前を向いて立ち上がるために手足に力を篭めて――――どすん、と重々しい何かが落ちる音が響いた。
跳ねるように顔を上げれば、少し離れた位置に道を塞ぐようにして地面に降り立った追うモノの姿。
半ば立ち上がった姿勢のまま、少しでも距離をとろうと立ち上がって背後へ下がろうとして―――ひっくり返る様に尻餅を付いた。
目の前には自らを追い続けた魔物の姿。詰みだ、と頭の冷静な部分が告げる。
逃げられない。逃げる術がない。逃げるだけの能がない。
「――――誰か」
食い縛っていた筈の口から、微かな悲鳴のような声が漏れた。
それは必死になって堪えていた弱音そのもの。
それを口にすれば、もう抗えないと解っていたから封じていた言葉。
立ち上がれなくなると解ってなお、それが力なく涙と共に零れだす。
「――――誰か、助けて」
神は地に在りて求めの声は響けども、救いの御手は伸ばされることはなく―――――――