(1)魔法剣
少年は、息を切らして駆け出していた。
美しい金色の髪を振り乱し、まだあどけない愛らしい顔は、恐怖におののいていた。
黒い、重苦しい空気に囲まれ、その中を、必死にもがくように進んでいく。
(逃げなくちゃ。逃げなくちゃ……!)
少年の目には、うっすら涙さえも浮かんでいた。
金糸の縫い取りのある由緒正しき者の着るその衣服は、泥や得体の知れない体液で、黒々と汚れている。
その広い建物の中の、どこをどう通って来たかはわからない。
だが、少年は、その扉の前まで来ていた。
ぐごおおおおお……!
凄まじい轟音が響きわたる。少年は振り向かず、何も考えずに扉を開けた。
「あっ……!」
思わず足が止まる。
突き当たりである、大きな扉の前ーー宝物庫だった。彼の父親が、コレクションを飾っておくための部屋だ。
美しい絵画、骨董品、敷物、家具調度品など、世界中から集めた品物が、ひっそりと眠ったように並んでいる。
黒い風圧に押されるようにして、少年は室内へ転がり込んだ。
しゃああああっ!
黒い空気のような魔物が、部屋中を駆け巡る。
少年は、頭を抱えて蹲った。
(もうだめだ。僕も、お父様、お母様のようにーー!)
死を予期した彼が、餓鬼から逃れるのを諦めた瞬間であった。
一匹の、ウシに背格好の似た化け物が、壁を突き破ってやってきた。
それは、狂犬のように目を血走らせ、大きな口から、よだれをたらし、少年に目を留めると、ただちに向かってきたのだった。
少年が顔を上げる。
あんなものに食べられたら、すごく痛いんだろうな。そんなのいやだ!
そう思った時、少年の手は、なにかに偶然触れた。
そして、少年は、ウシの魔物が、かぶりつく寸前に、跳ね起きた。
「うわあああっ!」
夢中で、手にしたものを振り回していた。
『それ』が、銀色の渦巻く風を起こした途端、みるみるうちに、黒きものたちが吹き上げられる。
ぐおおおおうううううっ!
魔物たちの狂おしげな呻きが、室内に充満する。
少年は目を瞑り、恐ろしい声を聞くまいと、耳を塞ぎたくなる思いで、部屋を駆け出して行った。
正面から、ヒトほどもある黒いトカゲの姿をした妖魔が、シャアッと口を開き、飛びかかるがーー!
少年の走り去った後には、トカゲのものだった身体が砕け散って、バラバラと落ちた。
渦巻く銀色の風と共に、少年は、それまでいた城から、姿を消した。
「……ここは……!?」
我に返った少年は、あたりを見渡した。
それまで住んでいた城は、三日のうちに廃墟と化し、魔物で埋め尽くされ、真っ暗だった空には、夕日が浮かんでいる。
少年は、地面を見て、ぞっとした。
あたり一面、黒い土かと思われたものは、すべて魔物の死体であった。
三日間、突如、城を襲い、王国全体を襲った悲劇の末路は、魔物と人間たちの死であった。
その時、少年は、自分の右手を見下ろし、驚いた。
手には、美しい宝飾のついた剣が握られていたのだった。
どこで手にしたのかは覚えてはいない。ただ、自分が、そこでそうして生きていることが奇妙で、不自然で、不思議な、まったく理解のできない出来事であると感じていた。
彼は次第に思い出していった。
それが、彼の父が、貿易商から買ったという、珍しい魔法剣だということを。
いつの間に、自分は、こんなものをーー?
そして、この大地に敷き詰められた魔物の屍骸は、もしかして、この魔法剣のーーいや、自分のしたことなのだろうか?
膝が、がくんと地につく。
この城、いや、この国で生き残ったのは、自分ひとりだけ。
王である父も、王妃である母、三人の兄たち、妹たちの誰ひとりとして、生きている者などいないということ。
孤独をかみしめる前に、どうしていいかわからず、少年は跪いたままだった。
どのくらいの時間が過ぎた頃だろうか。
日はすっかり傾き、夜が来ようとしていた。
少年は、やっとのことで立ち上がった。
なにがなんだかわからなくなってしまった頭に思い浮かんだことは、とにかく、生きねばならないということだった。
「……行かなくちゃ」
目的は、わからなかった。
だが、少年は、その土地から離れ、旅立たなくてはならないと、強く感じていた。
引き摺るようにして、重い足を上げる。
しっかり握られた魔法剣だけが、彼が生きていることを証明していた。
突然の悲劇によって失われた故国、ヴァルス帝国。
初代魔法剣の使い手である、わずか十四歳の第四王子フィリウスの、魔物ハンターとしての宿命は、今始まったのだった。