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靴下失踪事件――家族から隔離された男

掲載日:2026/09/18

たいていの事件は、日常の中で気づかないふりをしているうちに大きくなる。


靴下が片方だけ失踪する、というのもその一つだ。


最初は「洗濯機の底にでも落ちたか?」程度の話だった。


ところが、気づけば毎朝のように片側の靴下がいなくなる。


これはもう、事件である。


「あのさ、君の相棒、どこに行ったの?」


私は毎朝、残された片方に尋ねる。


もちろん返事などない。


だが、もし靴下が喋るなら、きっとこう言うのだろう。


「それがですね、あなたのオヤジ臭が原因でして」


こういう会話を想像するあたり、私の精神状態もそろそろ心配したほうがいい。


しかし、冗談ではなく、我が家では私の洗濯物だけが“隔離”されている。


家族会議が開かれたわけではない。


ある日、妻が洗濯機の横にクリアケースを置き、「お父さん専用」とラベルを貼ったのだ。


「へぇ、専用? 優遇されてるのか、俺」


そう思ったのも束の間、娘が冷静に言った。


「違うよ。お父さんのやつ、臭いが強いから。分けたほうが家族が幸せなの」


家族の幸せのために隔離された男。


こんな肩書きを名乗る機会は、人生でそうない。



靴下の立場にもなってみよう。


彼らは毎日、私の足に巻きつけられる。


汗と熱。


そして、ひと言では説明できない、長年培われた“何か”。


それらに耐えながら、一日の勤務を終える。


ある夜、タンスの中から、ひそひそ声が聞こえた気がした。


「今日の勤務、どっちが行く?」


「昨日は俺だよ。そろそろ交代してくれ」


「いや、あの足はな……精神的にくるんだよ」


私は思った。


靴下にまで敬遠されるほどなのか、俺の足は。


翌朝、タンスを開けると、片方しかいなかった。


もう片方は、奥の暗闇に身を潜めている。


私は小声で言った。


「気持ちは分かる。でも、出てきてくれ」


返事はなかった。



洗濯という行為は、人間から見れば単調な家事だが、靴下たちにとっては、

どうやら生存競争らしい。


洗濯機の中で揉まれ、遠心力に振り回され、他の洗濯物と何度もぶつかる。


そして、隙があれば逃げる。


タオルにくっついて紛れ込み、数日後、リビングの片隅で発見されることもある。


私はそのたびに、再会の場面を演じる。


「お前……こんなところにいたのか」


だが、戻ってきた一本は、たいがい“もう片方”ではない。


肝心の相棒は、依然として行方不明のままだ。


まるで捜索願を出されているにもかかわらず、

本人だけが妙にのんびりしている中年男性のようである。


いや。


靴下にまで自分を重ねる必要はない。



ある朝、片方だけになった靴下を手にして、


「またか……」


とつぶやいていると、妻がコーヒーを飲みながら言った。


「そういう日もあるよ」


いや、ほぼ毎日だ。


娘はスマホから顔も上げずに言った。


「色違いでも、誰も見てないから大丈夫」


どうやら私の足元は、家族にとってかなり優先順位が低いらしい。


それでも、誰も「買い替えたら」とは言わない。


そこだけは、妙にありがたい。



探しものというのは、不思議なものである。


探していると見つからない。


探すのをやめると、突然出てくる。


私の靴下も例外ではない。


ある日、何気なくソファに座った。


すると、お尻の下から、


「ふごっ」


という、妙な音がした。


立ち上がってみると、数日探していた紺色の靴下が出てきた。


埃をまとい、少しだけくたびれている。


私は彼を手に取り、しばらく眺めた。


「……冒険してきたのか」


もちろん返事はない。


そして私は気づいた。


また、相棒がいない。



そんなことを繰り返しているうちに、私は一つのことに気づいた。


靴下というものは、二つそろっているときには、ほとんど存在を意識されない。


右があって、左がある。


洗濯して、乾かして、たたんで、タンスにしまう。


それで終わりだ。


ところが、片方が消える。


すると急に、その一本が気になって仕方がなくなる。


タンスを開ける。


洗濯機の周りを見る。


ソファの下をのぞく。


家具の隙間まで確認する。


たかが靴下一枚なのに、妙に本気になる。


そして、見つからない。


私は思う。


人間も、たぶん似たようなものなのだろう。


いつもそこにあるものには気づかない。


なくなってから、初めて、その存在の大きさに気づく。


……とはいえ、靴下一枚から人生を語るほど、私はまだ悟ってはいない。



今日の私は、グレーと黒の靴下を履いて出かける。


左右で、まったく違う人生を歩んできた二人組だ。


靴の中で、きっと文句を言い合っている。


右が言う。


「お前、遅刻してきただろ」


左が答える。


「うるさい。脱走に失敗したんだよ」


右がため息をつく。


「それにしても……臭いが」


私は小さくつぶやく。


「それは俺のせいだ」


二人とも黙る。


そこだけは、意見が一致したらしい。


私は笑いながら家を出た。


今日も事件は終わらない。


靴下は失踪する。


私は探す。


家族は知らん顔をする。


そして翌朝、また片方がいなくなる。


たぶん、明日も同じだろう。


それでも私は、洗濯物を取り込むたびに、

二本の靴下がそろっていることを少しだけ期待してしまう。


右がいて、左がいる。


それだけのことなのに。


そして、もし明日の朝も片方しかなかったら――


私は残された一本に、また聞くのだ。


「なあ。今度は、どっちが逃げた?」


たぶん返事はない。


ただ、クリアケースの「お父さん専用」という文字だけが、今日も妙に鮮明に見える。


どうやら我が家で、いちばん行方不明になっているのは、

靴下ではなく、私の尊厳なのかもしれない。

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