靴下失踪事件――家族から隔離された男
たいていの事件は、日常の中で気づかないふりをしているうちに大きくなる。
靴下が片方だけ失踪する、というのもその一つだ。
最初は「洗濯機の底にでも落ちたか?」程度の話だった。
ところが、気づけば毎朝のように片側の靴下がいなくなる。
これはもう、事件である。
「あのさ、君の相棒、どこに行ったの?」
私は毎朝、残された片方に尋ねる。
もちろん返事などない。
だが、もし靴下が喋るなら、きっとこう言うのだろう。
「それがですね、あなたのオヤジ臭が原因でして」
こういう会話を想像するあたり、私の精神状態もそろそろ心配したほうがいい。
しかし、冗談ではなく、我が家では私の洗濯物だけが“隔離”されている。
家族会議が開かれたわけではない。
ある日、妻が洗濯機の横にクリアケースを置き、「お父さん専用」とラベルを貼ったのだ。
「へぇ、専用? 優遇されてるのか、俺」
そう思ったのも束の間、娘が冷静に言った。
「違うよ。お父さんのやつ、臭いが強いから。分けたほうが家族が幸せなの」
家族の幸せのために隔離された男。
こんな肩書きを名乗る機会は、人生でそうない。
靴下の立場にもなってみよう。
彼らは毎日、私の足に巻きつけられる。
汗と熱。
そして、ひと言では説明できない、長年培われた“何か”。
それらに耐えながら、一日の勤務を終える。
ある夜、タンスの中から、ひそひそ声が聞こえた気がした。
「今日の勤務、どっちが行く?」
「昨日は俺だよ。そろそろ交代してくれ」
「いや、あの足はな……精神的にくるんだよ」
私は思った。
靴下にまで敬遠されるほどなのか、俺の足は。
翌朝、タンスを開けると、片方しかいなかった。
もう片方は、奥の暗闇に身を潜めている。
私は小声で言った。
「気持ちは分かる。でも、出てきてくれ」
返事はなかった。
洗濯という行為は、人間から見れば単調な家事だが、靴下たちにとっては、
どうやら生存競争らしい。
洗濯機の中で揉まれ、遠心力に振り回され、他の洗濯物と何度もぶつかる。
そして、隙があれば逃げる。
タオルにくっついて紛れ込み、数日後、リビングの片隅で発見されることもある。
私はそのたびに、再会の場面を演じる。
「お前……こんなところにいたのか」
だが、戻ってきた一本は、たいがい“もう片方”ではない。
肝心の相棒は、依然として行方不明のままだ。
まるで捜索願を出されているにもかかわらず、
本人だけが妙にのんびりしている中年男性のようである。
いや。
靴下にまで自分を重ねる必要はない。
ある朝、片方だけになった靴下を手にして、
「またか……」
とつぶやいていると、妻がコーヒーを飲みながら言った。
「そういう日もあるよ」
いや、ほぼ毎日だ。
娘はスマホから顔も上げずに言った。
「色違いでも、誰も見てないから大丈夫」
どうやら私の足元は、家族にとってかなり優先順位が低いらしい。
それでも、誰も「買い替えたら」とは言わない。
そこだけは、妙にありがたい。
探しものというのは、不思議なものである。
探していると見つからない。
探すのをやめると、突然出てくる。
私の靴下も例外ではない。
ある日、何気なくソファに座った。
すると、お尻の下から、
「ふごっ」
という、妙な音がした。
立ち上がってみると、数日探していた紺色の靴下が出てきた。
埃をまとい、少しだけくたびれている。
私は彼を手に取り、しばらく眺めた。
「……冒険してきたのか」
もちろん返事はない。
そして私は気づいた。
また、相棒がいない。
そんなことを繰り返しているうちに、私は一つのことに気づいた。
靴下というものは、二つそろっているときには、ほとんど存在を意識されない。
右があって、左がある。
洗濯して、乾かして、たたんで、タンスにしまう。
それで終わりだ。
ところが、片方が消える。
すると急に、その一本が気になって仕方がなくなる。
タンスを開ける。
洗濯機の周りを見る。
ソファの下をのぞく。
家具の隙間まで確認する。
たかが靴下一枚なのに、妙に本気になる。
そして、見つからない。
私は思う。
人間も、たぶん似たようなものなのだろう。
いつもそこにあるものには気づかない。
なくなってから、初めて、その存在の大きさに気づく。
……とはいえ、靴下一枚から人生を語るほど、私はまだ悟ってはいない。
今日の私は、グレーと黒の靴下を履いて出かける。
左右で、まったく違う人生を歩んできた二人組だ。
靴の中で、きっと文句を言い合っている。
右が言う。
「お前、遅刻してきただろ」
左が答える。
「うるさい。脱走に失敗したんだよ」
右がため息をつく。
「それにしても……臭いが」
私は小さくつぶやく。
「それは俺のせいだ」
二人とも黙る。
そこだけは、意見が一致したらしい。
私は笑いながら家を出た。
今日も事件は終わらない。
靴下は失踪する。
私は探す。
家族は知らん顔をする。
そして翌朝、また片方がいなくなる。
たぶん、明日も同じだろう。
それでも私は、洗濯物を取り込むたびに、
二本の靴下がそろっていることを少しだけ期待してしまう。
右がいて、左がいる。
それだけのことなのに。
そして、もし明日の朝も片方しかなかったら――
私は残された一本に、また聞くのだ。
「なあ。今度は、どっちが逃げた?」
たぶん返事はない。
ただ、クリアケースの「お父さん専用」という文字だけが、今日も妙に鮮明に見える。
どうやら我が家で、いちばん行方不明になっているのは、
靴下ではなく、私の尊厳なのかもしれない。




