名を消された鷹匠令嬢は、四十八の足環で功績を取り戻す
「返しなさい、アンネリーゼ」
「返すのは、そちらでございます」
机の上にあるのは、辞職願が一通。
鷹舎にいる伝書鷹は、零羽。
朝から数えやすくて助かる、とアンネリーゼは思った。腹立たしさまで数える羽目になれば、正午までに仕事が終わらない。
夜半の嵐で国境へ通じる伝書網が途絶えた。正午までに八経路すべてから休戦確認を得られなければ、管理責任は専属鷹匠である彼女に帰する。
四年間、公式報告に一度も名の載らなかった専属鷹匠に。
シグルドは辞職願を机へ伏せた。
「撤回しろ。今は命じている」
「一件目。本人の署名を伏せる。四十九件目になりますね」
「何を数えている」
「私の名を消した書類を」
机の抽斗には、彼自身の筆で書かれた命令がある。
——月報の訓練者欄から、アンネリーゼの名を外せ。評議員には、人前を好まぬ本人の希望と説明すること。
四年前、他家から彼女を迎えたいという勧誘状が届いた。シグルドは返書を先に封じ、それから毎月、彼女の名を消した。
愛していたからだ。
功績を知られれば、彼女はもっとよい条件で連れ去られる。舞台裏に置けば、誰も見つけない。水を運び、傷んだ手袋を替え、風に乱れた髪を直してやれる距離に、ずっと置いておける。
ずいぶん手厚い檻である。鷹なら初日に嘴で壊す。
「手放せない」
シグルドが机を回り込んだ。評議員の前では冷静な若き領主で通している声が、使用人しかいない部屋では命令形を次々に産む。よく育つ。アンネリーゼの功績欄より豊作だ。
「辞職は認めない。召集も中止しろ。嵐の直後に野生の風鷹を四十八羽も呼べば、おまえが傷つく」
「正午までに四十八羽を契約し、休戦確認を回収します。最後の任務を終えたら去ります」
「職務を放棄するつもりか」
「四年間、職務をなさった者の名を放棄させた方が、その言葉をお使いになりますか」
シグルドの指が辞職願の端で止まった。
「おまえを守るためだった」
「愛情一羽。隠蔽四十八冊。別の籠で数えます」
呼び笛を使えるのは三度まで。一度目の契約を二度目が補強し、三度目で確定する。四度目を吹けば、それまで選ばれた契約もすべて解ける。
三度で四十八羽。
失敗すれば、名を奪われたまま責任だけ負って辞めることになる。
アンネリーゼは机から辞職願を引き抜いた。
「午前八時までに、中庭を空けてください。ご命令は以上ですか、シグルド様」
主人へ許した命令は、それが最後だった。
* * *
「八扇、各六本。間隔は五尺。一本でも詰めるな」
ヴァスコは梣材の横木を肩へ担ぎ、領主への敬礼を半分で切り上げた。
中庭には四十八本の止まり木が、中心から八方向へ扇状に組まれていく。野生の風鷹が自分で着地点を選べるよう、隣との間を五尺空ける。「四十八座の止まり木割り」は、呼ぶ技術より先に要る。着地する場所もないのに来いとは、領主の会議だけで間に合っている。
ベルンが八種の経路紋を刻んだ開放式銀足環を運んだ。各紋六個、合計四十八個。留め金は開いたまま、一本の止まり木に一個ずつ置かれる。
「自由珠を見ろ」
老鷹匠が銀環についた透明な珠を日に透かした。
「人の手で脚へ押しつければ曇る。鷹が止まり木と足環を選べば澄む。曇ったものは契約に数えん」
伝書局員、国境使節、評議員が格子の外へ並んだ。シグルドはその前で、アンネリーゼが人前を苦手としているとは言わなかった。今日ばかりは本人が中央に立っている。嘘にも止まり木が必要なのだ。
アンネリーゼは笛を唇へ当てた。
一度目。
鋭い音が、嵐の雲を切った。
長く待つ必要はなかった。六つの影が別々の方角から落ち、互いの翼を避けて六本へ散る。銀環が跳ね、開いた輪へ脚が入り、留め金が自ら閉じた。
自由珠は六個とも澄んだ。
銀の表面に、細い文字が浮かぶ。
アンネリーゼ。
「一羽目から数えます」
彼女は一つずつ、珠、経路紋、脚の傷、羽の乱れを確かめた。
六羽。強制されたものは零羽。
領主の言い訳より、まだ少ない。
* * *
「東路、風向布二十二度。北西路、三十一度」
「重量上限、二百匁。八路、各六通」
ドロレスは真鍮秤の針から目を上げない。机には八枚の色分け盆、休戦確認を求める封書四十八通。選ばれた六個の足環の経路紋に合わせ、まず六通が該当する盆へ移された。
足環が行き先を選ぶ。人が先回りして鷹を経路へ押し込まない。面倒である。面倒だからこそ、後から誰も「領主の鷹が偶然飛んだ」とは書けない。
最初の六通を量り終えると、アンネリーゼは二度目の笛を吹いた。
今度は風向布が一斉に持ち上がった。二羽が屋根をかすめ、四羽が鐘楼の向こうから滑り込む。先の六羽は動かない。新たな六羽だけが、空いた止まり木と銀足環を選んだ。
澄んだ自由珠、十二個。
刻まれた名も、十二個。
「十二羽まで数え直します」
一からである。腹が立つほど丁寧に。四年間も一人分だけ抜けるような数え方を、職人の仕事とは呼ばない。
ドロレスは新たな六通を順に量り、西路の封書を最後に秤へ載せた。
「百九十七匁。西路、通せます」
「通してください。十二通、完了です」
フェルミンが記録台の前へ立ち、十二個の自由珠を公衆へ示した。
「強制による曇りなし。開放式銀足環十二個、契約者名はすべてアンネリーゼ。これより領法に基づく公開審問を開始する」
シグルドが替えの手袋と水差しを持って格子へ来た。
「指が赤い。替えを持ってきた」
「ありがとうございます」
「では辞職を——」
「水一杯、手袋一組。辞職撤回の条件には数えません」
彼の口が閉じた。使用人の前なら三つは命令を重ねていたところだが、使節と領法官が見ている。声量まで領法に従うらしい。
ベルンは四冊の日誌と封をした書類袋を、フェルミンの記録台へ置いた。日誌には四年分の訓練日、羽数、経路、失敗、再訓練の日付。書類袋にはシグルドの自筆命令。
証拠は逃げない。
逃げるのは、だいたい書いた人間である。
* * *
「午前十時四十分。再点検を始めます」
アンネリーゼの声に、局員たちが八枚の盆へ散った。
「残る封書、三十六通」
「三十六通」
「銀足環、三十六個。留め金は全開」
「全開」
「止まり木、三十六本。五尺間隔」
ヴァスコが縄尺を張り、一本ずつ親指を立てる。
「北扇、よし。東扇、よし。南東、四分ずれてる。直せ」
横木が動く。自由珠が日の中で揺れる。封蝋、紐、経路紋、風向布。先に済ませた工程が一つでも崩れれば、最後の一吹きはただの大きな音になる。
アンネリーゼは替えの手袋を締め直した。シグルドが持ってきたものだ。物に罪はない。持ち主の条件交渉が厚かましいだけだ。
「皆様へ申し上げます。呼び笛は、これが三度目です」
格子の外にいた者たちが口を閉じた。
「四度目はありません。吹けば、先に成立した十二羽の契約まで解除されます。三十六羽が揃わなければ、正午の期限には間に合いません」
シグルドが一歩出た。
「危険ならやめろ。責任は私が——」
「記録者は、いまの発言も記載を」
「記載します」
フェルミンのペンが走る。
シグルドは続けなかった。公的な紙の上では、命令にも足跡が残る。
アンネリーゼは格子の中央に立った。四十八座が見える。八色の盆が見える。十二羽の風鷹が、彼女の肩ではなく、自分で選んだ止まり木からこちらを見ている。
三度目の呼び笛を吹いた。
音は一度目より低く、二度目より長く、中庭の石を震わせて消えた。
一羽。
鐘楼の上から灰色の翼が降りた。
二羽、五羽、九羽。
屋根という屋根から風が剥がれ、翼になって集まる。局員が身を伏せ、使節の外套が煽られ、八扇の止まり木が次々に沈んだ。
「十八」
アンネリーゼは喉の奥で数えた。
銀環が閉じる。自由珠が澄む。
「二十七」
羽ばたきが頬を打つ。笛を握る指の裂け目が開いた。まだ。
「三十四、三十五」
三十五羽が着地した。
合計、四十七羽。
最後の一羽は中庭の上を旋回している。白い腹を見せ、降下しかけては翼を返す。空いた止まり木は西扇の端。銀足環もある。隣との間隔も——。
ない。
人がいる。
シグルドが格子の内側へ入り、アンネリーゼのすぐ後ろに立っていた。落下してくる鷹から守るつもりで、五尺の着地線を塞いでいる。
親切一羽。障害物一名。後者が重い。
「四十七。——そこを退いてください、シグルド様。最後の一羽が、私を選べません」
「私はおまえを守ろうと」
「五尺空けろと言ったでしょう」
ヴァスコが敬礼より先にシグルドの肩を押した。
「外へ。領主だろうが柱だろうが、寸法を食うなら同じだ」
使節の前で命令を浴びせ返されたシグルドは、反論しかけた口を閉じた。フェルミンのペン先が待っているのを見て、格子の外へ下がる。
一歩。
二歩。
五尺。
空いた。
上空の鷹が翼を畳んだ。
白い腹が反転し、褐色の背が陽を切る。まっすぐには来ない。西扇を一度大きく回り、四十七羽の視線と人間たちの息を置き去りにして、最後の止まり木へ爪をかけた。
銀足環が跳ね上がる。
輪の内側へ脚が入り、留め金が閉じた。
自由珠は曇らない。
透明な珠の下、銀に浮かんだ文字をフェルミンが読む。
「契約者、アンネリーゼ」
四十八羽。
名義まで、揃った。
「荷合わせへ移ります!」
余韻に餌をやる暇はない。鷹は誇りでは飛べても、二百匁を超えた封書は運んでくれない。
ドロレスが残る三十六通を一通ずつ秤へ載せた。
「百八十八、東路」
「東路、一」
「百九十四、南路」
「南路、一」
局員が復唱し、足環の経路紋と同じ色の盆へ封書を置く。百九十六。百八十四。百九十一。針が止まるたび、紐が結ばれる。
西路の二通で、ドロレスの指が止まった。
「百九十九匁。西路、現在の風では百九十七まで」
「封蝋台紙を外します」
「次、百九十八匁。同じく」
アンネリーゼは台紙だけを薄刃で剥がした。本文にも領主印にも触れない。再計量。
「百九十六匁」
「通せます」
「百九十七匁」
「西路、通せます」
三十六通を量り終え、先の十二通と合わせる。八経路、各六羽。色盆ごとに六通。足環の経路紋、封書の宛先、風向布の角度、すべて一致。
「午前十一時十分」
ドロレスが時刻を告げた。
「八路、出します」
格子が開かれた。
最初の六羽が東へ上がる。次の六羽は北へ。翼の群れはぶつからず、八方向へ六羽ずつほどけていった。最後の一羽が西の屋根を越えたとき、中庭には四十八本の空の止まり木だけが残った。
休戦確認が戻るまで、四十分余り。
フェルミンが記録台へ四冊の日誌を広げた。
「ベルン。読み上げを」
「四年前、第一月。訓練六羽、東路。担当、アンネリーゼ」
一冊目。
「同年、第二月。再訓練二羽、北西路。担当、アンネリーゼ」
二冊目、三冊目、四冊目。
日付、羽数、経路、失敗、成功。乾いた項目が積み重なる。ベルンは一度もアンネリーゼの苦労を褒めなかった。褒め言葉は訂正できる。日付は、そう簡単には消えない。
続いて、四十八冊の月報が運び込まれた。
各月報には、領主家の印がある。功績欄には「領主の鷹」。訓練者欄だけが空白。確認欄には書記の小さな印があり、空白を見た者たちが四年間、口を閉じた順番まで残っていた。
ベルンが言った。
「育てた名だけが、毎月抜けております」
フェルミンは封を切り、自筆命令を取り出した。
「シグルド。これはあなたの筆跡ですか」
「……そうだ」
「『アンネリーゼの名を外せ。評議員には本人の希望と説明すること』。あなたの命令ですか」
「そうだ」
「本人の希望を確認しましたか」
「していない」
評議員へ向けていたシグルドの背が、わずかに縮んだ。私室では何度でも「撤回しろ」と言えた声が、一問ごとに痩せていく。
「月報の功績と、それに伴う報酬を受領したのは」
「私だ」
「他家からの勧誘状へ、本人より先に返書した事実は」
「ある」
「理由を」
シグルドはアンネリーゼを見た。
「愛していた。名が広まれば、他家へ移ると思った。私のそばに置きたかった」
フェルミンのペンが止まらない。
「愛情は訂正理由ではなく、加害の動機として記録します」
シグルドの肩が落ちた。
そこへ鐘が一度鳴った。
西の空から、一羽が戻った。
脚には青い封書。国境使節が受け取り、印を確認する。
「西路、休戦継続!」
続いて二羽、四羽、六羽。北から、東から、南から、風鷹が帰る。止まり木へ降りるたび銀環が日に光った。
ドロレスが盆を埋める。
「東路、六通」
「北東路、六通」
「北路、六通」
八枚の盆が一つずつ満ちていく。午前十一時五十二分。最後の西路六羽目が止まり木を踏み、封書を外された。
「八経路、各六通。休戦確認、四十八通。正午前の帰還を確認します」
フェルミンは一本目の足環を掲げた。
「契約者、アンネリーゼ」
群衆が領主ではなく、彼女へ向き直る。
二本目。
「契約者、アンネリーゼ」
使節たちも向き直る。
六本、十二本、二十四本。四十八本目まで、同じ名が公的記録へ書き取られた。
四年間、空白だった場所へ。
「四十八羽、名義まで数え終えました」
アンネリーゼはシグルドを見た。
さあ、残る一羽は、あなたの口である。
フェルミンが問う。
「四十八羽を訓練したのは誰ですか」
「アンネリーゼだ」
「八経路の再建を指揮し、正午前に休戦確認を回収したのは」
「アンネリーゼだ」
「四年間、月報からその名を消すよう命じたのは」
「私だ」
「では、領主家名義で記録された四年間の功績は、誰に帰属しますか」
シグルドは記録台の前で膝をついた。
「功績は彼女のものだ。四年間のすべてが、アンネリーゼのものだ。私は名と報酬を奪った」
フェルミンが四十八冊の月報を一冊ずつ開く。シグルドは訂正票へ一枚ずつ署名し、フェルミンが確認印と元の記録との照合番号を加えた。
一冊目に赤い訂正印が落ちた。
二冊目。
三冊目。
四十八冊目。
逃げ道が、一冊ずつ閉じていく。実に見やすい。四年間で初めて、領主の事務仕事が気に入った。
「次に、訂正契約を読み上げます」
第一項、四十八冊の功績をアンネリーゼ名義へ訂正する。
第二項、四年間の報酬差額を三日以内に一括して支払う。
第三項、アンネリーゼは依頼の受諾、経路、羽数、危険度について職務上の拒否権を持つ。
第四項、領主家から独立した鷹匠工房一棟を、設備と土地使用権を含めて引き渡す。
第五項、以後すべての報告会へ、功績者本人を出席させる。
第六項、従来の専属主従契約を本日で終了する。
「異議は」
「ない」
シグルドが署名する。領主印を押す。金庫役の局員が報酬差額の支払命令書を受領し、三日後の日付を記入した。ヴァスコが独立工房の鍵を記録台へ置く。
フェルミンは契約書を二通に分け、一通をシグルドへ、一通をアンネリーゼへ渡した。
「訂正および契約変更を、公的記録として確定します」
群衆の視線は、もう領主へ戻らなかった。
四年間「領主の鷹」と呼ばれた四十八羽が、アンネリーゼの名を刻んだ足環を鳴らしている。
上下は、ひっくり返ると案外静かだ。紙と印と、膝が石へ触れる音しかしない。
シグルドは膝をついたまま、領主印も指輪も持たず、両手を空にした。
「主人として、おまえを縛る資格はない」
今度の声には命令がなかった。
「それでも、伴侶として隣に置いてもらえないだろうか。拒まれても、訂正契約は変えない。報酬も工房も、すべて履行する」
アンネリーゼは署名済みの控えを開いた。
四十八件の訂正番号。差額支払期限。拒否権。工房の鍵番号。主従契約終了の印。
全部ある。
「足環をはめる側にはさせません」
「分かっている」
「私の返事を先に封じることも」
「二度としない」
「髪に触れるのも、仕事を引き受けるのも、残るのも、私が決めます」
「はい」
領主への返事にしては素直すぎる。主人ではなくなったので、一件の矛盾もない。
アンネリーゼは控えを胸元へ収めた。
それから、自分の左手を差し出した。
「では、立ってください。シグルド」
呼び捨てにされた彼が顔を上げる。
求婚への答えは、彼女の手の側にあった。彼は何もはめず、ただその手を取って立ち上がった。
* * *
「動かさないでください。薬がずれます」
「それは私の台詞では?」
「ここは私の工房です」
移転当日、シグルドは新しい作業台の端に腰掛け、アンネリーゼの裂けた指へ薬を塗っていた。
工房の鍵、一揃い。訂正月報の控え、四十八冊。報酬差額、期限どおり全額。未処理の領主命令、零件。
数えやすい。たいへん結構。
彼は清潔な布を巻き終えると、風で乱れた彼女の髪へ手を伸ばした。
途中で止める。
「触れても?」
アンネリーゼはその指と、自分の髪との間を測った。五尺も要らない。許可一つで足りる。
「梳くことだけ、許可します」
シグルドの指が慎重に髪へ入った。絡んだ一房をほどき、肩の後ろへ流す。勝手に飾りをつけることも、印を残すこともしない。
「もう少し近くへ座っても?」
「それは別件です」
「申請する」
「審査します」
彼は笑い、次の許可を待った。
主人は零人。
隣に残す男は、一人。
アンネリーゼは、そこから先だけ数えずにおいた。




