幸子は若いころはキラキラしていた。あの頃に戻って説教したい。
幸子は朝五時に目が覚める。
壊れたままの目覚まし時計は鳴らない。それでも身体は正確だった。
ただ、歳を取ると眠れなくなる。それだけだ。
六畳一間の台所で湯を沸かす。一人分の味噌汁。一人分の白米。
テレビをつければ、誰かの幸せが流れている。新婚、家族、老後の旅行。画面の中の人間は、みな同じ顔をしている。
幸せそうな顔。
幸子はテレビを消した。妬みでも怒りでもない。ただ、自分の居場所がそこにないと分かる音がした。
未婚。子どもなし。
「自由だったのよ」
そう言い聞かせてきた言葉が、今は少しだけ軽かった。
古いアルバムを開く。そこには若い自分がいた。
長い髪。無防備な笑顔。まだ世界を疑っていない目。
腹が立った。
「あんた、この先どうなるか知らないのよ」
戻れるなら、説教してやりたい。
そう思った瞬間、視界が歪んだ。
「……ああ」
世界が、暗転した。
◇◇◇
目を覚ますと、天井が違っていた。
身体は軽く、声は若い。鏡の中には、アルバムの中の自分がいた。
1995年。
幸子は理解する。
過去に戻っている。
「覚悟しなさい」
鏡の中の自分に言う。
「これから、うるさいわよ」
最初の出会いは、最悪だった。
大学のベンチ。若い幸子はサンドイッチを食べながら笑っている。
その無防備な顔に、苛立ちがこみ上げる。
「その恋、失敗するわ」
突然の言葉に、若い幸子は顔をしかめた。
「は? 誰ですか」
「未来を知ってるの。あなた、後悔する」
「気持ち悪いんですけど」
即答だった。
拒絶。警戒。不快。
「関わらないでください」
その一言で、会話は終わった。
二度目も、同じだった。
「その仕事、やめなさい」
「失礼すぎます」
「その男――」
「もういいです!」
完全な拒絶だった。
若い幸子は、怒りと嫌悪を隠さない。
「あなた、自分の後悔を押し付けてるだけでしょ」
その言葉に、幸子は何も返せなかった。
正しかったからだ。
三度目。
幸子は、少しだけ言い方を変えた。
「……疲れてるでしょ」
若い幸子は、怪訝な顔をする。
「は?」
「夜、ちゃんと寝れてない」
一瞬だけ、表情が揺れた。
だが、すぐに顔を背ける。
「……だから何ですか」
「別に」
それ以上は何も言わなかった。
説教を飲み込んだ。
四度目。
またベンチで出会う。
沈黙が流れる。
「……また来たんですか」
「ええ」
「暇なんですか」
「そうかもしれないわね」
若い幸子は、少しだけ呆れたように笑う。
完全な拒絶ではなかった。
五度目。
若い幸子がぽつりと呟いた。
「……なんで、そんなに私のこと知ってるんですか」
幸子は答えない。
ただ、座る。
逃げない。押し付けない。
六度目。
夜。
若い幸子が言う。
「……あんた、私でしょ」
沈黙のあと、幸子は頷いた。
若い幸子は苦笑する。
「そっか。だから、あんなにうるさいんだ」
その声に、敵意はもうなかった。
そこから、少しずつ会話が始まった。
最初は短く。
次は、少しだけ長く。
やがて、途切れながらも続くようになる。
「失敗が怖い」
「分かるわ」
「でも、誰にも言えない」
「そうね」
「強がってるの、バレたくない」
「知ってる」
若い幸子は、少しずつ本音をこぼすようになった。
「ねえ……私さ」
声が震える。
「ずっと一人な気がするんだよ」
幸子の胸に、深く刺さる。
何十年経っても消えなかった感情だった。
「……そうだったのね」
それだけを返す。
否定しない。正解も言わない。
ただ、受け止める。
「生きてて、よかった?」
その問いに、幸子は少し考える。
「……まだ分からない」
正直に答える。
「でもね」
続ける。
「話を聞いてくれる人がいたら、少しは違ったかもしれない」
若い幸子は、小さく笑った。
それからは、もう説教はしなかった。
未来も教えない。
ただ、そこにいる。
「また失敗したら?」
「一緒に後悔しましょう」
「ずるいな、それ」
「そう?」
「安心するじゃん」
拒絶は、消えていた。
代わりに残ったのは、少しの信頼だった。
やがて、別れの時が来る。
世界がほどけていく。
「待って!」
若い幸子が叫ぶ。
「私、間違えるんでしょ何度も失敗するんでしょ」
幸子は首を振る。
否定でも肯定でもない。
「失敗していい」
「たくさん後悔していい」
「それでも」
言葉を選ぶ。
「私は、生き延びた」
若い幸子が泣く。
「……じゃあ、私」
「ちゃんと生きるの?」
幸子は、最後に言う。
「生き延びなさい」
世界が白くなる。
◇◇◇
目を覚ますと、元の部屋だった。
何も変わっていない。
未婚。子どもなし。現実はそのまま。
それでも、胸の奥の重さが違った。
鏡の中の自分を見る。
老いた顔。
でも、もう嫌いではなかった。
「怖かったね」
「ひとりで、よくやってた」
その言葉を、ようやく自分に言えた。
玄関のドアを開ける。
特別な一日ではない。
それでもいいと思えた。
過去は変わらなかった。
未来も変わらない。
それでも、自分の見方だけは、変えられる。
幸子は歩き出す。
もう一人ではない。
過去の自分と、並んでいるから。
人は、受け入れられたその瞬間から、何度でも、生まれ変われる。
現代小説【幸子は若いころはキラキラしていた。あの頃に戻って説教したい。】
完




