第9話 班決めで少しだけ安心した日
五月の風は、四月より少しだけやわらかい。
教室の窓は半分ほど開けられていて、外から入ってくる空気が、ノートの端をときどき小さく揺らしていた。黒板の上の時計は、四時間目の終わりを知らせる少し前を指している。
七瀬湊は、頬杖をついたまま、先生の声を半分くらいだけ聞いていた。
国語の時間は嫌いじゃない。
でも今日は、教室の空気がどこか落ち着かなかった。前の席の男子も、斜め前の女子も、なんとなくそわそわしている。理由はたぶん、みんな同じだ。
「じゃあ、教科書はここまでにします」
先生がぱたんと本を閉じる。
その瞬間、教室の空気が少しだけ変わった。
「今日は、来月の宿泊学習について少し話をします」
教室のあちこちから、一気に声が上がる。
「やった!」
「ついに!」
「今日しおり配るの?」
「班決めある?」
「カレー作るんでしょ!?」
「はいはい、静かに」
と先生が言う。
でも先生も少しだけ笑っていた。
宿泊学習。
四年生になってから、みんながなんとなく楽しみにしていた行事だ。
学校からバスで二時間ほどの、山と湖に囲まれた自然体験施設へ一泊二日で行く。ハイキングをして、施設の広場でレクリエーションをして、夕方にはみんなでカレーを作る。夜は星を見る時間もあるらしい。
修学旅行ほど大きな行事ではない。
でも、家から離れて一晩泊まるというだけで、小学生には十分すぎるくらい特別だった。
先生は前の机の上に、薄い緑色のしおりを何冊も置いた。
「これから代表の人に配ってもらいます。なくさないこと。あと、おうちの人にもちゃんと見せること」
「はーい!」
元気のいい返事が教室に広がる。
その声にまぎれて、隣から小さな声がした。
「……宿泊学習」
朝比奈紬だった。
「何だよ」
「ちょっとだけ緊張する」
「まだしおりも見てねえのに?」
「だから緊張するの」
「意味わかんねえ」
「わからなくていい」
そう言いながら、紬は前の机の上のしおりをじっと見ていた。
こういうところは、転校してきたころからあまり変わらない。
平気そうな顔をしているのに、実はちゃんと気にしている。
しかも本人はそれを隠してるつもりらしい。
「班って、今日決めるのかな」
と紬が言う。
「さあ」
「どうだろ」
「先生に聞けよ」
「聞かない」
「なんで」
「まだ心の準備ができてないから」
「そんな準備いるのかよ」
「いるよ」
まじめな顔で言うので、湊は少しだけ笑いそうになる。
そのとき、前からしおりが回ってきた。
薄い緑色の表紙には、青い湖と山の絵が描いてある。
『奥多摩みずうみ自然の家 宿泊学習のしおり』
「うわ、ちゃんとしてる」
と紬が小さく言う。
「しおりなんだから当たり前だろ」
「でも、思ったよりそれっぽい」
「宿泊学習だぞ」
「そうなんだけど」
紬はそっとしおりを開く。
湊もなんとなく、自分のしおりを開いた。
中には一日目と二日目の予定表、持ち物、班行動についての説明、施設の簡単な地図が書いてある。
一日目は学校からバスで出発して、午前中に施設へ到着。荷物を置いたあと、昼食をとって、午後は班ごとにハイキング。夕方には広場の炊事場でカレー作り。夜はレクリエーションのあと、晴れていれば星を見る時間。
二日目は朝の集いのあと、湖の近くの展望広場へ行って、自然観察をしてから帰校。
「展望台ある」
と紬が言う。
「ほんとだ」
「湖も見えるって書いてある」
「へえ」
「夜、星も見るんだって」
「見れるならな」
「晴れるかな」
「知らねえよ」
そんなふうに話しながらもしおりを見ていると、宿泊学習が少しずつ本当に思えてくる。
班ごとに歩く。
班ごとに作る。
班ごとに動く。
その文字がやけに目についた。
「班は五人か」
と湊が言う。
「うん」
「男女混合でもいいんだって」
「ほんとだ」
「へえ」
「……」
会話が一瞬止まる。
紬も同じところを見ていたらしい。
しおりの上に落ちる前髪が、少しだけ揺れている。
「何」
と紬が聞く。
「何が」
「今、ちょっと変な顔した」
「してねえ」
「したよ」
「気のせいだろ」
「気のせいじゃない」
湊は答えずに、しおりのページをめくった。
班。
たったそれだけの言葉なのに、少しだけ落ち着かない。
宿泊学習なんて誰と一緒でも楽しいはずなのに、紬と別の班になるかもしれないと考えた瞬間、ほんの少しだけ嫌だと思った自分がいた。
そんなの、変だ。
「班決めは、今日の六時間目にやります」
と先生が言った瞬間、教室の空気がまたざわついた。
「えー、今日なの!?」
「どうしよう」
「一緒になろうね!」
「もう決めとこうぜ」
前の席でも後ろの席でも、声が飛び交う。
その中で、紬はしおりを閉じて、小さく息をついた。
「……今日だって」
「みたいだな」
「どうしよう」
「何が」
「だから班」
「だからって」
「もう少しあとだと思ってた」
「そこまで緊張することか?」
「するよ」
紬は真面目な顔でそう言った。
その横顔を見ながら、湊は小さく息をつく。
たぶん、自分も少しだけ緊張している。
ただ、それを紬みたいに口に出さないだけだ。
五時間目が終わるころには、教室の中は宿泊学習の話でいっぱいだった。
「鹿とかいるかな」
「ここ奥多摩だろ、たぶんいない」
「魚いるかな」
「カレー焦がすやつ絶対いるよな」
「おまえだろ」
男子たちはいつも通りくだらない。
でもいつもより少しだけ声が明るい。
「七瀬、班どうする?」
と後ろの席の男子が言った。
藤沢じゃない。まだ小学生だから、その前の、昔から一緒の男子だ。
「どうするって」
「俺ら三人で固まる?」
「三人じゃ足りねえだろ」
「じゃああと二人入れればいいじゃん」
「女子でもいいんだよな?」
「らしいぞ」
湊は返事をしないまま、ちらっと隣を見た。
紬は女子二人に話しかけられていた。
「朝比奈さん、一緒の班どうする?」
「もう決めた?」
「まだ」
紬はそう言ってから、ほんの一瞬だけこっちを見た。
目が合う。
その瞬間、なぜか湊のほうが先に視線をそらしてしまった。
何やってるんだ、と思う。
でも、次の瞬間にはまた気になって見てしまう。
紬はまだ返事をしていなかった。
「七瀬?」
と後ろの男子がもう一度呼ぶ。
「ん?」
「聞いてる?」
「聞いてる」
「で、どうするんだよ」
「……あとで」
それだけ答えて、湊は机に肘をついた。
班なんて、別にそんな大したことじゃない。
三日間でも一週間でもない、たった一泊二日のことだ。
なのに、今日はその“誰と一緒か”が妙に気になった。
六時間目の学活が始まる。
担任の先生が黒板に大きく書いた。
『宿泊学習 班決め』
その文字だけで、教室の空気がまた少しだけ変わる。
「班は五人まで。男女混合でも、同性だけでもいいです。ただし、ちゃんと協力できる人同士で組んでください」
「はーい」
返事のあとすぐに、教室がざわざわし始める。
「ねえ、うちら一緒にしよう!」
「七瀬、どうする?」
「朝比奈さん、こっち空いてるよ」
「えー待って、まだ決めてない」
声があちこちから飛んで、教室の中は一気に忙しくなる。
湊は、思ったよりその空気が落ち着かなかった。
紬が誰かに先に声をかけられたらどうしようとか、そんなことを考えている自分がいる。
別に、そんな必要はないのに。
「湊くん」
小さな声で呼ばれて、顔を上げる。
紬が立っていた。
「何」
「班」
「うん」
「どうする?」
たぶん紬は、ただ確認しに来ただけだった。
でもその問い方が、“ちゃんと一緒だよね”と確かめてくるみたいで、湊の胸の奥が少しだけ静かになる。
「どうするって」
と湊は言う。
「一緒でいいんだろ」
「……うん」
紬の表情が、少しだけやわらかくなる。
「じゃあ、他どうする?」
「後ろのやつらが三人で固まるとか言ってた」
「じゃあ、ちょうどいいね」
「たぶんな」
そこへ、タイミングを見たみたいに後ろの男子二人が近づいてきた。
「七瀬、決まった?」
「朝比奈さんも一緒?」
「いいじゃんちょうど!」
片方の男子がにこにこしながら言う。
「朝比奈さん、よろしくな」
「よろしくお願いします」
「そんなかしこまらなくていいって」
「七瀬がいるなら安心だな」
「なんで俺基準なんだよ」
「だってそうだろ」
その言葉に、紬は小さくうなずいた。
「うん。湊くんいるなら、ちょっと安心」
「……」
一瞬だけ、言葉が出なかった。
「何その顔」
と男子がにやにやする。
「朝比奈さんに頼られてんじゃん」
「うるせえ」
ぶっきらぼうに返す。
でも、たぶん顔は少しだけ赤くなっていた。
班はそれで決まった。
五人班。
湊、紬、男子二人、それから女子一人。
ちょうどよく、変に浮くこともない組み合わせだった。
先生が黒板に班のメンバーを書かせたり、しおりに名前を書かせたりしている間も、湊はどこか落ち着かなかった。
でもそれは、嫌な落ち着かなさじゃない。
ちゃんと同じ班になれた。
それだけで、胸の奥にあった変なざわざわが少しだけ静かになっている。
そのことに自分で気づいて、さらに少し変な気分になった。
学活が終わったあと、班ごとに軽く話し合いをすることになった。
「一日目のハイキング、結構歩くっぽいな」
「湖の周り回るんでしょ?」
「展望広場ってここかな」
「カレー、誰が何やる?」
「おれ火の係やりたい!」
「まだ早いって」
わいわい話す声の中で、紬はしおりを開いて、真面目に予定を追っていた。
「ここ、ハイキングのあとすぐ炊事だね」
「ほんとだ」
「けっこう忙しそう」
「朝比奈さん、料理できる?」
と班の女子が聞く。
紬は少しだけ考えてから言った。
「少しだけ。お手伝いなら」
「へえー、えらい」
「七瀬は?」
と今度は男子が聞く。
「普通」
「その“普通”信用ならねえ」
「知らねえよ」
班のみんなが笑う。
その笑いの中に、紬も自然に混ざっていた。
前なら、こういう場面で紬はもう少しだけ遠慮していた気がする。
でも今は違う。ちゃんと話して、ちゃんと笑っている。
それがうれしいと思う反面、少しだけ、自分だけが知っている紬じゃなくなっていくみたいで、胸の奥がくすぐったかった。
「ねえ」
と紬が言う。
「展望広場、湖見えるって」
「さっきも言ってたな」
「だってちょっと楽しみ」
「高いとこ平気なのか?」
「高いのはたぶん平気」
「たぶんかよ」
「でも、もし怖かったら」
「……何」
「そのときは、助けて」
さらっと言うので、湊は少しだけ言葉に詰まった。
「何で先に言うんだよ」
「だって、お願いしといたほうが安心」
「知らねえよ」
「でも、してくれるでしょ」
「……状況による」
「してくれる顔だ」
「顔で決めるな」
紬が小さく笑う。
その笑い方に、また少しだけ胸が落ち着かなくなる。
放課後、いつものように二人で帰ることになった。
校門を出ると、五月の風が少しだけあたたかかった。
四月よりも日差しは強いのに、まだ夏みたいな重さはない。
「班、決まってよかったね」
と紬が言う。
「……そうだな」
「ちょっと安心した」
「おまえ、ほんとに不安だったんだな」
「だったよ」
「今さらって言ったのに」
「今さらでも不安なものは不安」
紬はそう言ってから、少しだけ笑った。
「でも、湊くんが一緒なら大丈夫そう」
「なんで」
「なんとなく」
「またそれか」
「ほんとだよ」
湊は前を向いたまま、小さく息をつく。
なんとなく、でそんなふうに言われると困る。
でも、嫌ではない。
「湊くんは?」
と紬が聞く。
「何」
「班、一緒でよかった?」
「……別に」
「またそれ」
「うるせえな」
「じゃあ、ほんとは?」
「……よかったよ」
言ってしまったあとで、少しだけ耳が熱くなる。
でも紬は笑わなかった。
ただ、すごくやわらかい顔でうなずいた。
「よかった」
「何が」
「私だけじゃなかったから」
商店街を抜けて、川沿いの道に出る。
光が水に反射して、きらきらしていた。
しばらく二人とも何も言わなかった。
でも、その沈黙は前みたいに気まずくない。
むしろ今は、言わなくてもわかることが少しずつ増えてきている気がした。
「宿泊学習」
と紬がぽつりと言う。
「ちょっと楽しみになった」
「さっきまで不安って言ってたのに」
「不安もあるよ」
「じゃあどっちだよ」
「どっちも」
紬らしい答えだった。
「湊くんは?」
「まあ、楽しみ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「班、一緒だから?」
「……」
「図星?」
「違う」
「うそ」
「うるせえ」
紬がくすっと笑う。
その笑い方を聞きながら、湊は自分でもなんとなくわかっていた。
班なんて、誰と一緒でも宿泊学習はきっと楽しい。
でも、紬と一緒だからよかったと思ったのは、本当だった。
交差点が近づく。
別れ道の前で、紬が足を止めた。
「じゃあ、また明日」
「おう」
「しおり、今日はちゃんと読む」
「もう読んでるだろ」
「でも、もう一回」
「真面目かよ」
「宿泊学習だもん」
そう言って紬は、少しだけうれしそうに目を細めた。
「ねえ」
「何」
「今日、ありがとう」
「何が」
「最初に“一緒でいいんだろ”って言ってくれたから」
「……別に」
「その“別に”は、本当じゃないやつ」
「知るかよ」
「でも、うれしかった」
その言葉に、湊はまたうまく返せなくなる。
「じゃあね、湊くん」
「……おう、紬」
紬は小さく手を振って、自分の道へ走っていった。
その背中を見送りながら、湊はランドセルの肩ひもを握り直す。
同じ班になれた。
ただそれだけのことなのに、胸の奥は思っていたよりずっと静かだった。
安心したんだ、と気づく。
誰かと一緒になるとか、ならないとか。
そんなことでこんなに気持ちが動くなんて、少し前の自分ならたぶんわからなかった。
「……なんなんだよ」
小さくつぶやく。
でもその声は、前みたいに困っただけの響きじゃなかった。
宿泊学習はまだ始まっていない。
なのにもう、少しだけ特別なものになりかけている。
五月のやわらかい風の中で、湊はそんなことをぼんやり思った。




