第7話 はじめて“好き”に近いものを知った日
雨の日に手をつないで帰った次の月曜日、七瀬湊はいつもより少しだけ早く目が覚めた。
別に楽しみだったわけじゃない。
そう思いたかった。
でも、朝ごはんを食べながらも、制服に着替えながらも、頭のどこかでずっと考えていたのは、金曜日の帰り道のことだった。
水たまり。
小さな傘。
触れた指先。
少し冷たかった手。
「……」
思い出したところで、湊はひとりでむっとした。
ただ手をつないだだけだ。
転びそうになったから。
それだけ。
なのに、なんでこんなに残っているんだろう。
教室に入ると、朝比奈紬はもう来ていた。
いつも通り机の上を整えている。
何も変わらない顔。
何も知らないみたいな顔。
そのくせ、湊の心臓だけが少し変に跳ねた。
「おはよう、湊くん」
「……おう」
「眠そう」
「眠くねえ」
「じゃあ、機嫌悪い?」
「悪くねえ」
「じゃあ、変」
「おまえな」
紬は少しだけ笑った。
その笑い方を見た瞬間、金曜日の「私はちょっとだけうれしかった」が頭の中で勝手によみがえってきて、湊はあわてて目をそらした。
「何」
「何でもねえ」
「何でもないときの顔じゃない」
「それもう聞き飽きた」
紬は不思議そうにしながらも、それ以上は追ってこなかった。
でも、追ってこないことが少しだけ残念だった自分に気づいて、湊はさらに機嫌が悪くなった。
午前中の授業は、やけに長かった。
黒板の字が頭に入らない。
先生に当てられたらちゃんと答えられるくらいには聞いていたけれど、終わったあと何をやっていたのかうまく思い出せない。
隣では紬がノートをとっている。
小さくて、きれいな字。
たまに前髪が少し揺れる。
消しゴムを使う指先まで目に入ってきて、自分でも嫌になる。
なんでそんなところまで見てるんだ。
二時間目と三時間目のあいだの休み時間。
紬が消しゴムを落とした。
ころん、と机の下に転がる。
湊はほとんど反射で拾っていた。
「ほら」
「ありがとう」
「……おう」
手渡した瞬間、指先が少しだけ触れる。
たったそれだけで、また金曜日を思い出しそうになる。
「湊くん?」
「何」
「なんか今日、やさしいね」
「は?」
「消しゴム、すぐ拾ってくれた」
「目の前だったからだろ」
「ふうん」
紬はそう言いながら、少しだけこっちを見た。
「でも、ちょっとだけ変」
「おまえ今日そればっかだな」
「だってほんとだもん」
言い返せなくて、湊は椅子に座り直した。
変なのは自分でもわかっている。
ただ、その理由をうまく言葉にできないだけだ。
昼休み。
今日は久しぶりに校庭が乾いていて、男子たちはすぐに外へ飛び出していった。
「七瀬ー!」
「早く!」
いつもなら真っ先に出るはずなのに、湊は少しだけ机に座ったままだった。
「行かないの?」
と紬が聞く。
「行く」
「でもまだ座ってる」
「今行くとこ」
「ふうん」
紬は給食のあと片づけをしながら、こっちを見ていた。
「湊くん」
「何」
「今日、ちょっと変だけど」
「だから何だよ」
「無理してない?」
その一言に、湊は一瞬だけ黙った。
「してねえよ」
「ならいいけど」
「……何で」
「何が?」
「無理してないか、とか」
聞くつもりなんだよ、という意味で言ったのに、紬は少しだけ首をかしげた。
「なんとなく」
「またそれか」
「なんとなく、気になっただけ」
その言い方がやわらかくて、湊はそれ以上何も返せなくなる。
結局、校庭には出た。
出たけれど、やっぱり少しだけ変だった。
ボールを受けても、前みたいに何も考えずに投げられない。
休憩のときにふと教室の窓を見上げて、そこに紬がいるわけでもないのに、なんとなく目で探してしまう。
「七瀬、今日ぼーっとしてね?」
「してねえ」
「朝比奈さんのこと考えてた?」
「ちがっ……!」
思わず強く否定して、まわりの男子が笑う。
「うわ、図星っぽい」
「違うって」
「顔赤くね?」
「うるせえ!」
そんなふうに騒いでいるうちに、余計に意識してしまう。
放課後、掃除当番はなかった。
ふつうならすぐ帰れる日だ。
なのに、ランドセルを背負ったあとも、なぜか湊は立ち上がれなかった。
「帰らないの?」
と紬が聞く。
「帰る」
「じゃあ行こう」
紬は当たり前みたいにそう言う。
その当たり前が、うれしい。
うれしいと思った瞬間、湊は自分で少しだけびっくりした。
二人で校門を出る。
空は明るくて、風もやわらかい。
金曜日の雨なんてもう遠い話みたいだった。
「今日、体育なかったね」
「急に何だよ」
「走れなくて残念かなって」
「おまえの中で俺、ほんとにそれなんだな」
「だって好きでしょ?」
「まあ」
「私、ちょっとだけわかってきた」
「何を」
「湊くんが何してると機嫌いいか」
「そんなの見てんのかよ」
「見てるよ」
あっさり言われて、湊は足元を見た。
そんなふうに見られてるなんて、考えたこともなかった。
「じゃあ逆に」
と紬が言う。
「私が何してると機嫌いいかわかる?」
「知らねえ」
「即答だね」
「……図工」
「え?」
紬が少しだけ目を丸くする。
「あと、本読んでるとき」
「……」
「あと、いちご食ってるとき」
「何それ」
「なんとなく」
今度は湊がそう言う番だった。
紬はしばらく黙って、それから少しだけ笑った。
「見てるんだ」
「見てねえよ」
「見てないとわかんないよ」
「たまたまだろ」
「ふうん」
その「ふうん」は、たぶん信じていない。
商店街を抜けて、川沿いの道に出る。
春の光が水に反射して、きらきらしていた。
「ねえ」
と紬が言う。
「金曜日のこと、まだ気にしてる?」
心臓がどくんと鳴った。
「何が」
「手、つないだこと」
まっすぐ聞くなよ、と思う。
でも紬はたぶん、本当にまっすぐ聞いているだけだった。
「……別に」
「うそ」
「何でわかるんだよ」
「ちょっとだけ」
「ちょっとって何だよ」
「今日ずっと変だから」
そこまで言われると、もうごまかしきれない。
「……ちょっとだけな」
と湊は小さく言った。
「ちょっとだけ?」
「おまえ、いちいち拾うな」
「大事なところだから」
風が吹いて、紬の髪が少し揺れた。
「私は」
と紬が言う。
「ちょっとだけじゃなかった」
「は?」
「けっこう気にしてた」
湊は思わず立ち止まりそうになる。
「なんで」
「なんでって」
「ただ転びそうだったからだろ」
「そうだよ」
「じゃあ」
「でも、はじめてだったし」
また、それだ。
はじめての名前。
はじめてのけんか。
はじめての秘密。
はじめての手。
紬は、そういうのをちゃんとひとつずつ覚えていく。
「私ね」
と紬は前を向いたまま続けた。
「金曜日の夜、ちょっとだけ手を見た」
「……何してんだよ」
「変?」
「変」
「でも、なんか残ってる気がしたの」
「残るわけないだろ」
「そうなんだけど」
紬は少しだけ笑った。
「でも、そう思うくらいには、私も変だった」
湊は何も言えなかった。
自分だけじゃなかった。
そうわかっただけで、胸の奥のざわざわが少しだけやわらぐ。
「おまえさ」
「何」
「そういうの、簡単に言いすぎ」
「だめ?」
「だめじゃねえけど」
「じゃあいいじゃん」
「よくねえよ」
紬はくすっと笑った。
交差点が近づいてくる。
いつもの別れ道。
その手前で、道の向こうから同じクラスの女子が二人歩いてくるのが見えた。
「あ、朝比奈さん!」
「ほんとだー!」
紬がそっちを向く。
「お疲れさま」
「今帰り?」
「うん」
女子たちは楽しそうに紬に話しかける。
最近仲よくしている子たちだ。
「ねえねえ、朝比奈さんってさ」
一人がにやにやしながら言った。
「七瀬とほんと仲いいよね」
「毎日一緒に帰ってるじゃん」
「え、もしかして好きなの?」
時間が止まったみたいだった。
湊は思わず息を止める。
紬は少しだけ目を丸くして、それから湊のほうを見た。
ほんの一瞬だけ、視線が合う。
「好き、は」
と紬が言う。
「まだ、わからない」
前にも聞いた答えだった。
なのに今日は、その続きがあった。
「でも」
紬は小さく笑った。
「湊くんといると、変な感じになることはある」
女子たちが「えー!」と声を上げる。
「何それー!」
「もうそれ好きじゃん!」
「違うの?」
「まだわかんない」
紬はそう言ったけれど、耳が少し赤かった。
湊のほうも、たぶん赤くなっていたと思う。
「じゃ、じゃあまたね!」
と女子たちは面白がったまま去っていく。
静けさが戻る。
「……」
「……」
どっちからもすぐに何も言えなかった。
先に口を開いたのは紬だった。
「ごめん」
「何が」
「変な感じになるって言った」
「……」
「嫌だった?」
「いや」
本当は、嫌じゃなかった。
むしろ、その言葉が頭の中で何度も響いている。
「俺も」
と湊は言った。
紬がこっちを見る。
「何」
「変な感じになる」
「……そっか」
「おまえといると」
「うん」
胸の奥が、また少しだけ熱くなる。
「それって」
と紬が小さく言った。
「好き、に近いのかな」
湊はすぐには答えられなかった。
好き。
その言葉は、まだ少し大きすぎる。
でも、まったく違うとも言えなかった。
「……わかんねえ」
と正直に言う。
紬は少しだけうなずいた。
「私も」
「でも」
「でも?」
「たぶん、前とは違う」
そう言うと、紬は目を細めて笑った。
「うん。私もそう思う」
風が吹く。
春の匂いがした。
「じゃあ」
と紬が言う。
「まだ、名前はつけなくていいね」
「何に」
「この感じ」
「……そうだな」
名前をつけたら、何かが変わってしまいそうだった。
だから今は、まだこのままでいい気がした。
別れ道の前で、二人は立ち止まる。
「また明日」
「おう」
「湊くん」
「何」
「今日はちょっとだけ、うれしかった」
「何が」
「私だけじゃないってわかったから」
その言い方がやわらかくて、湊は少しだけ視線をそらした。
「俺も」
「うん」
紬は小さく手を振る。
「じゃあね」
「……また明日、紬」
紬が走っていく。
その背中を見送りながら、湊は胸の奥に残る熱をひとつ息と一緒に吐き出した。
好きかどうかは、まだわからない。
でも、名前のないこの気持ちが、前よりずっと特別なものになっていることだけは、もうちゃんとわかっていた。
春の空は高くて、昨日までより少しだけまぶしく見えた。




