第4話 はじめてふたりだけの秘密ができた日
月曜日の朝、七瀬湊は少しだけ眠そうな顔で教室に入った。
昨日の夜、寝るのが少し遅くなったせいだ。
理由は自分でもよくわからない。
ただ布団に入ってから、金曜日の帰り道のことを何度も思い出してしまった。
「特別っぽいから困る」
自分で言ったくせに、その言葉を思い返すたびに妙に落ち着かなくなる。
教室にはもう、朝比奈紬が来ていた。
いつも通り机の上を整えている。
きっちりしていて、朝からちゃんとしている感じがするのが、なんだか少し悔しい。
「おはよう、湊くん」
「……おう」
「眠そう」
「眠い」
「昨日、夜更かし?」
「してねえ」
「じゃあ何」
「知らねえよ」
紬は少しだけ首をかしげてから、ふっと笑った。
「へんなの」
「おまえにだけは言われたくねえ」
でも、そのやり取りが前より自然になっていることに、湊はちゃんと気づいていた。
けんかしたあとのほうが、かえって話しやすくなることもあるらしい。
そんなこと、今まで考えたこともなかったけれど。
一時間目が始まる前、担任の先生が教室に入ってきた。
「今日は六時間目のあと、来週の歓迎会の飾りつけ準備をします」
「えー」
「めんどくさーい」
教室のあちこちから声が上がる。
歓迎会というのは、毎年この時期に転校生や新しく来た先生のために開く、ちょっとした学級会みたいなものだ。
歌を歌ったり、みんなでおやつを食べたりするだけの、そんなに大げさじゃない会。
「色画用紙を切る人、輪飾りを作る人、黒板の絵を考える人に分かれてくださいね」
先生がそう言うと、クラスの中がざわざわし始める。
「七瀬、輪飾りとか似合わなすぎ」
「うるせえ」
「じゃあ黒板の絵やれよ」
「もっと無理だろ」
男子が笑う。
湊は正直、どれも面倒だった。
できれば適当な役目で早く終わらせたい。
そのとき、先生が名簿を見ながら言った。
「七瀬くんと朝比奈さんは、備品室から折り紙と色ペンを取ってきてくれる?」
「え」
「はーい」
戸惑ったのは湊だけで、紬は平然と返事をした。
「じゃあお願いしますね」
そう言われてしまえば断れない。
湊は小さく息をついて立ち上がった。
「行くよ、湊くん」
「わかってる」
二人で廊下に出る。
まだ授業前の校舎は、少しだけ静かだった。
窓から入る春の光が廊下に細長く落ちている。
「備品室って、どこ?」
「職員室の近く」
「ふうん。やっぱり詳しいね」
「前も言ったけど、ふつうだって」
「私はまだわからないから、すごいよ」
「そんなことですごいとか言うな」
「そんなこと?」
紬が少しだけいたずらっぽく笑う。
最近、こういう顔をすることが少し増えた。
備品室の前に着くと、扉が少しだけ開いていた。
中には誰もいないらしい。
「先生、鍵かけてないんだな」
「入っていいのかな」
「取ってこいって言われたんだからいいだろ」
二人で中に入る。
中は思ったより狭くて、棚がぎっしり並んでいた。
画用紙、絵の具、縄跳び、習字道具、使いかけのガムテープ。学校中のいろんなものが押しこまれている。
「折り紙、どこだろ」
「たぶん上の棚」
湊は棚を見上げた。
たしかに色紙らしい箱が上のほうにある。
「取れる?」
「たぶん」
そう言ってつま先立ちになるが、少しだけ届かない。
あとほんの少しなのに、という距離だ。
「背、低いね」
「うるせえ」
「事実」
「おまえもそんな変わんねえだろ」
「私は認めてるよ」
なんだそれ、と言い返しながら、湊はもう一度腕を伸ばした。
やっぱり少し届かない。
「貸して」
「おまえに届くわけ」
「これ使えば」
紬は近くにあった小さな木箱を足元に引っ張ってきた。
「危ねえだろ」
「大丈夫」
そう言って、ひょいと箱の上に乗る。
思ったより迷いがない。
「おい、落ちるなよ」
「落ちないよ」
紬が手を伸ばす。
指先が箱に触れた、その瞬間だった。
がたっ、と小さく音がして、木箱がぐらついた。
「……っ」
紬の体がふらつく。
湊は反射で腕を伸ばしていた。
「危ない!」
そのまま紬の手首をつかみ、引き寄せる。
紬は箱から降りるような形でよろけて、そのまま湊のほうへ倒れ込んできた。
「うわっ」
二人そろって、後ろの棚にもたれかかる。
がたがた、と棚の中身が少し揺れた。
一瞬、時間が止まったみたいだった。
近い。
近すぎる。
紬の髪が頬のあたりに触れそうで、制服の袖が腕に当たっていて、息まで少し近い気がする。
湊は固まった。
紬も固まっていた。
「……」
「……」
どっちもすぐに動けない。
先に我に返ったのは、たぶん紬のほうだった。
「ご、ごめん」
「いや、べつに」
「べつにじゃない」
「じゃあ、ごめん」
「なんで湊くんが謝るの」
「知らねえよ」
あわてて体を離す。
けれど、心臓の音だけは全然静かにならなかった。
紬は耳まで少し赤くなっていた。
そんな顔、初めて見た気がする。
「だから危ねえって言っただろ」
「……うん」
「素直かよ」
「今のは、素直になるしかない」
その返しが少しおかしくて、湊は変に力が抜けた。
けれどそのとき、棚の上のほうからぱさっと何かが落ちてきた。
「あ」
一枚の紙だった。
色あせた、少し厚めの画用紙。
床に落ちたそれを、紬が拾い上げる。
「これ、なに」
「さあ」
二人でのぞきこむと、それはずいぶん前のクラスで作ったらしい寄せ書きだった。
『6年2組 卒業おめでとう!』
『先生、ありがとう!』
『また会おうね!』
色とりどりの文字が、少し曲がりながら書かれている。
絵も混ざっていて、下手だけど楽しそうだった。
「これ、昔のやつかな」
「だろうな」
紬が端っこを指さす。
「ここ、なんか書いてある」
「ん?」
小さく、目立たないところに鉛筆で書かれた文字があった。
『この紙、見つけた人はラッキー!』
「何それ」
「子どもっぽい」
「子どもだろ」
さらに下に、もっと小さく続きがあった。
『でも、先生には内緒』
二人は顔を見合わせた。
それだけ。
ただそれだけの文なのに、なんだか妙におかしい。
「内緒だって」
「言うほどのことでもねえな」
「でも、見つけたの私たちだけだよ」
「たしかに」
紬は寄せ書きをもう一度見た。
それから少しだけ目を細めた。
「なんか、いいね」
「何が」
「こういうの。知らない誰かの、前の時間が残ってる感じ」
「……ふーん」
「この教室にも、この学校にも、私たちの知らない時間があったんだなって思う」
「そりゃそうだろ」
「でも、見つけるとちょっと違う」
そう言って、紬は紙を大事そうに持った。
湊はその横顔を見て、少しだけ黙る。
こいつ、たまに変なところで立ち止まる。
でも、そういうところは嫌いじゃなかった。
「どうする、それ」
「先生に言う?」
「内緒って書いてあるし」
「本気で守るの?」
「なんとなく」
紬が少しだけ笑う。
「じゃあ、秘密にする?」
「……秘密?」
「うん。私たちが見つけたってこと」
言葉にされると、妙に特別に聞こえる。
「別に、いいけど」
「ほんと?」
「そんな大したことじゃねえし」
「でも秘密は秘密だよ」
紬はそう言って、寄せ書きをそっと元の棚の中へ戻した。
今度は無理に上へ置かず、手前の見えにくい隙間に差し込む。
「これでまた誰かが見つけるかも」
「ラッキーなやつな」
「うん」
二人で少しだけ笑った。
そのあと、ちゃんと折り紙の箱と色ペンを見つけて、教室へ戻る。
「遅かったねー」
「迷った?」
「備品室って狭いんでしょ?」
クラスメイトが好き勝手に聞いてくる。
「別に」
「普通に探してただけ」
紬もそれ以上は言わなかった。
備品室で転びそうになったことも。
変に近くなって、二人とも変な顔になったことも。
昔の寄せ書きを見つけたことも。
どれも言わなかった。
それが少しだけ、胸の奥にしまわれた感じがした。
六時間目のあと、教室は歓迎会の準備でにぎやかになった。
女子が輪飾りをつなげて、男子が黒板の絵に文句を言って、先生が「けんかしないの」と笑っている。
湊は色画用紙を切りながら、ふと隣を見た。
紬は折り紙を細く切って、輪にしてつなげていた。
指先の動きが丁寧で、たぶんこういう作業は得意なんだろう。
「何」
と紬が言う。
「見てた」
「別に」
「見てたなら見てたでいいのに」
「おまえ、最近そういうの多いな」
「湊くんがわかりやすいから」
その返しに少しむっとしながらも、湊は小さな声で言った。
「……秘密」
「え?」
「さっきの」
紬は一瞬きょとんとして、それからすぐに意味がわかったらしい。
口元をやわらかくした。
「うん。秘密」
「誰にも言うなよ」
「湊くんこそ」
「言わねえよ」
たったそれだけのやり取りなのに、周りには聞こえない声で交わしたせいか、妙に近く感じた。
歓迎会の準備が終わるころには、空は少しだけ夕方の色になっていた。
帰り道。
二人はいつものように並んで歩く。
商店街を抜けて、川沿いへ出る。
春の風が少しだけあたたかい。
「ねえ」
「何」
「今日のこと、ほんとに誰にも言わない?」
「言わねえよ」
「備品室でのことも?」
「……それは言うな」
「やっぱりそこ気にしてる」
「気にするだろ普通」
「私はちょっとだけ面白かった」
「は!?」
「だって、湊くん固まってた」
「おまえもだろ」
「うん、固まってた」
あっさり認めるから、余計に調子が狂う。
「でも」
と紬が言った。
「助けてくれて、ありがとう」
「……ああ」
「今日のありがとうは、ちゃんと大きいやつ」
「大きいやつって何だよ」
「牛乳より大きい」
「比較そこかよ」
紬が笑う。
その笑い方を見ていると、備品室で赤くなっていた顔まで思い出しそうになって困る。
「秘密があるの、ちょっといいね」
紬が前を見たまま言った。
「何が」
「みんなには関係ないことを、二人だけが知ってる感じ」
「……」
「変?」
「いや」
変じゃない。
むしろ、少しわかる。
今日見つけた寄せ書きも。
先生には内緒、なんて書かれた子どもっぽい言葉も。
それを本当に内緒にして歩いている今も。
なんだか少しだけ、自分たちだけの場所を持ったみたいだった。
「また何か見つかるといいね」
「ラッキーなやつ?」
「うん」
「おまえ、ああいうの好きだな」
「好きかも」
交差点が近づく。
別れ道の前で、紬が立ち止まった。
「じゃあ、また明日」
「おう」
「秘密、忘れないでね」
「忘れねえよ」
紬は小さくうなずく。
「……私、ちょっとうれしい」
「何が」
「はじめて、二人だけの秘密ができたから」
その言い方は、前みたいにからかう感じじゃなかった。
まっすぐで、少しだけやわらかい。
湊は一瞬だけ言葉を失って、それからぶっきらぼうに返した。
「大げさだろ」
「そうかな」
「そうだよ」
「でも、私はそう思った」
そう言って紬は笑った。
夕方の光の中で、その笑い方はいつもより少しだけ大人っぽく見えた。
「じゃあね、湊くん」
「……おう、紬」
紬が走っていく。
その背中を見送りながら、湊は小さく息を吐いた。
二人だけの秘密。
言葉にすると、やっぱり少しだけくすぐったい。
でも、嫌ではなかった。
むしろ、明日また教室で顔を合わせたとき、何も言わなくても同じことを思い出せるのだとしたら、それは少しだけ、特別なことのように思えた。
川沿いを吹く風はやわらかくて、春は昨日よりほんの少しだけ先に進んでいる気がした。




