第3話 はじめてけんかした日
朝比奈紬が七瀬湊を名前で呼ぶようになってから、三日ほど経った。
最初のうちは、そのたびに湊の調子が少し狂った。
「湊くん、おはよう」
「……おう」
「湊くん、消しゴム落とした」
「見えてる」
「湊くん、それ国語の宿題?」
「だったら何だよ」
そんなふうに返すたび、紬は少しだけ不思議そうな顔をする。
けれど、呼ぶのをやめたりはしなかった。
しかもたぶん、わざとでもない。
それが余計にやりにくい。
一方で、湊のほうはまだ紬のことを名前で呼ぶのに慣れなかった。
「朝比奈」
「なに」
「……いや、何でもない」
何か言うたびにそんな感じになる。
名前で呼んだのは、あの日の帰り道で一回だけだ。
あれはあれで、なんだか特別だった気がして、教室の中で簡単に口に出したくなかった。
金曜日の五時間目は、体育だった。
校庭に白い線が引かれ、二つのチームに分かれてリレーをすることになった。
湊は足が速い。こういうときはわりと期待される側だ。
「七瀬、アンカーな!」
「おう」
クラスの男子が当然みたいに言う。
湊も当然みたいにうなずいた。
同じチームには、紬もいた。
「朝比奈さん、走るの速い?」
「ふつうです」
「ほんとかなあ」
女子たちがそんな話をしている。
湊はちらっと紬を見た。
本人は相変わらず落ち着いた顔で、赤白帽のつばを整えていた。
「おまえ、走れんの」
「たぶん」
「たぶんって何だよ」
「走ってみればわかる」
「適当だな」
そう言うと、紬は少しだけ首をかしげた。
「湊くんは、走るの好きそう」
「好きそう、じゃなくて好き」
「やっぱり」
その言い方が、ちょっとだけ当てられたみたいで落ち着かない。
リレーが始まる。
第一走者が走り出し、バトンがつながっていく。
湊のチームは最初から少しリードしていた。
紬の番になったときも、まだ一位だった。
「朝比奈さん、がんばれー!」
クラスの声が飛ぶ。
紬はうなずいて、バトンを受け取った。
思っていたより速かった。
フォームは少しぎこちないけれど、足はちゃんと前に出ている。
何より、抜かれそうになっても顔色を変えずに走っているのが意外だった。
「へえ……」
湊は思わず小さくつぶやいた。
紬は二位に少し差をつけたまま、次の走者へバトンを渡す。
女子たちの間から「すごい!」という声が上がった。
そのまま最後のアンカーまでつながって、湊のところにバトンが来る。
「七瀬、頼む!」
「おう!」
湊は全力で走った。
風を切る感覚が気持ちいい。
コーナーを回って、ゴールテープを切る。
一位だった。
「やったー!」
「勝った!」
チームのみんなが集まってくる。
その中で、紬も少しだけ息を切らしながら立っていた。
「おまえ、意外と速いじゃん」
「意外とは失礼」
「だって、なんか文化系っぽい」
「何それ」
「見た目」
「それも失礼」
でも紬は怒ったふうでもなく、少しだけ頬を赤くしていた。
たぶん、ちゃんと走ったからだ。
「でも、湊くんのほうが速い」
「まあな」
「得意げ」
「得意だからいいだろ」
そう言い返したところで、近くにいた男子が言った。
「朝比奈さん、七瀬のこと湊くんって呼ぶの、なんか仲いい感じするよな」
「するする!」
女子まで乗っかってくる。
湊は一気にむっとした。
「別に仲よくねえよ」
「でも名前呼びじゃん」
「それはこいつが勝手に」
「勝手って何」
紬の声の温度が、少しだけ下がった。
けれど湊は、その変化に気づかないまま続けてしまった。
「だいたい、そんな気軽に名前で呼ぶなよ」
「……」
その瞬間、周りがしんとした。
紬は目を丸くして、それからすぐに表情を戻した。
でも、その戻し方が、昨日までとは少し違った。
「ごめん」
「いや、別にそういう意味じゃ」
「やめたほうがいいなら、やめる」
それだけ言って、紬はふいっと視線をそらした。
まずい、と思ったときにはもう遅かった。
休み時間になっても、紬は湊のほうをあまり見なかった。
話しかければ返事はする。でも、それだけだ。
「消しゴム取って」
「はい」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
丁寧すぎる。
なんだその距離感は、と湊は思う。
でも原因はたぶん、自分だ。
昼休み、紬は女子たちと図書室に行ってしまった。
湊は校庭に出たものの、いつもみたいにドッジボールに集中できなかった。
ボールを取っても投げるタイミングが少し遅れる。
「七瀬、どうした?」
「別に」
「朝比奈さんとなんかあった?」
「何もねえよ」
言い返したけれど、何もなくはない。
放課後になっても、紬はすぐに帰り支度を始めた。
今日は一緒に帰らないつもりらしい。
「朝比奈」
呼び止めると、紬はランドセルを背負ったまま振り返った。
「なに」
「……帰んの?」
「帰るよ」
「途中まで」
「今日は大丈夫」
その「大丈夫」が、ちょっとだけ刺さった。
「いや、でも」
「迷わないから」
昨日までなら、ここで少しくらい言い返してきたはずだ。
なのに今日は、きれいに線を引くみたいに言う。
そのまま教室を出ていこうとした紬を見て、湊は思わず言った。
「待てよ」
紬が足を止める。
「……何」
「その、さっきの」
「体育の?」
「うん」
「別に気にしてない」
「気にしてるだろ」
「してない」
「うそつけ」
言った瞬間、紬の眉がぴくっと動いた。
「湊くんにうそつけって言われたくない」
「は?」
「ほんとは、名前で呼ばれるの嫌だったんでしょ」
「嫌っていうか」
「じゃあ何」
「なんか、その……変な感じするだけで」
「変な感じなら、嫌なのと同じじゃない」
まっすぐ言われて、湊は言葉に詰まった。
違う。
嫌じゃない。
でも、その違いをうまく言葉にできない。
「私は、ちゃんと仲よくなりたかっただけ」
と、紬が言った。
「覚えやすいし、そのほうが近いかなって思ったから」
「……」
「でも、湊くんはそうじゃなかったんだね」
そう言われると、胸のあたりが変に苦しくなる。
「ちがう」
「何が」
「そうじゃねえよ」
でも、説明できない。
湊は口を開いて、閉じた。
紬は少しだけ待った。
それでも何も出てこないので、小さく息をつく。
「もういいよ」
「よくねえ」
「じゃあ、ちゃんと言って」
正面から言われて、逃げられなくなった。
廊下の向こうでは、ほかのクラスの笑い声がしている。
教室の中には、まだ数人だけ残っていたけれど、ここだけ妙に静かだった。
「……嫌じゃない」
やっと、それだけ出た。
紬が少しだけ目を上げる。
「嫌じゃないけど」
「うん」
「先生とか親とかとは違うだろ。名前で呼ばれるの」
「違うね」
「だから……なんか、変な感じする」
紬は黙って聞いている。
「でも、嫌とかじゃねえし」
「……うん」
「なんか、その」
「うん」
「特別っぽいから、困る」
言ってしまったあと、自分で何を言ってるんだと思った。
耳が熱い。顔もたぶん赤い。
紬は一瞬きょとんとして、それから、ふっと目元をやわらかくした。
「特別っぽい?」
「そこ拾うなよ」
「だって大事なところ」
「大事じゃねえ」
「大事だよ」
さっきまでの固い空気が、少しだけほどける。
紬はランドセルの肩ひもを握り直した。
「じゃあ、嫌じゃないんだ」
「だからそう言ってる」
「じゃあ、呼んでもいい?」
「……おう」
「湊くん」
「すぐ言うなよ」
「確認」
「確認すんな」
紬がくすっと笑った。
その笑い方を見て、湊はやっと息ができた気がした。
「じゃあ」
と紬が言う。
「湊くんも、朝比奈じゃなくて呼んで」
またそれか、と思う。
でも今日は、前みたいに詰まりながらでも、逃げずに言えた。
「……紬」
「うん」
紬は満足そうにうなずいた。
「じゃあ、帰ろう」
「え、いいのかよ」
「今日は大丈夫って言ったけど」
「言ったな」
「でも、一緒に帰りたくないとは言ってない」
そう言って先に歩き出す。
湊は一拍遅れて、その後を追った。
外はもう夕方だった。
校門を出ると、オレンジ色の光が道の端に長く伸びている。
二人で歩く帰り道は、昨日までと同じはずなのに、少しだけ違って見えた。
「ねえ、湊くん」
「何」
「さっき、ちょっとだけうれしかった」
「何が」
「ちゃんと言ってくれたから」
「……別に」
「その『別に』は、べつにじゃないときの言い方だね」
「うるさい」
紬が笑う。
その声を聞いて、湊も少しだけ肩の力を抜いた。
川沿いの道に出る。
風が吹いて、草が揺れる。
「今日、ほんとにけんかしたかと思った」
と紬が言った。
「しただろ」
「じゃあ、はじめてのけんかだ」
「そんなうれしそうに言うことか?」
「だって、仲よくないとけんかもしないでしょ」
「意味わかんねえ」
「私はちょっとわかる」
湊は横目で紬を見る。
転校してきたばかりのくせに、こいつは時々、やけにわかったようなことを言う。
でも今日は、その言葉が少しだけうれしかった。
「……じゃあ、もうけんかしねえようにしろよ」
「湊くんが変なこと言わなければね」
「おまえもだろ」
「じゃあ、おあいこ」
交差点が近づく。
別れ道の手前で、紬が足を止めた。
「また月曜日」
「おう」
「忘れないでね」
「何を」
「特別っぽいから困る、って言ったこと」
「忘れろ」
「無理」
「最悪だ」
「はじめましてのときから言ってる」
「それも覚えてんのかよ」
「覚えてるよ」
そう言って紬は、今日いちばんやわらかく笑った。
「じゃあね、湊くん」
「……おう、紬」
名前を呼ぶ。
今度は、前より少しだけ自然に。
紬は満足そうに手を振って、道の向こうへ走っていった。
ひとりになったあと、湊は小さく息を吐く。
けんかなんてしたくなかった。
でも、あんなふうにちゃんとぶつかって、ちゃんと戻れたことが、少しだけうれしかった。
ただ隣の席の転校生だったはずなのに。
朝比奈紬――紬は、もう少しずつ、ただの「クラスメイト」じゃなくなってきている。
それがいいことなのかどうか、まだ湊にはよくわからない。
ただ、月曜日にまた顔を合わせるのが、少しだけ楽しみになっていることだけは確かだった。




