春を待てずに
日曜日の昼下がり、僕は行き慣れない喫茶店の窓際で少し格好をつけて熱い珈琲を飲みました。
勿論、砂糖もミルクも入れませんでした。
そんな大人になりたかったのです。
ナポリタンやピザトースト、オムライスに硬めプリン。
それらを懐かしむ、そんな感性への憧れ。
その全てをヒアシンス色のブックカバーに忍ばせて、頬杖ついて読みました。
お店の方を、マスターと呼んでみたかった。
メロンソーダとバニラの溶け合う前の煌めきを砕きながら、どこぞのお嬢さん……否。
あなたと密やかに、微笑みながら、微睡みながら未来を歩いてみたかった。
「君の冷えた指先を温めたい」
そんな台詞で陶酔のひとつもしてみたかったのですが、どうにも僕の指の方がいつもいつも冷たくて。
与えてもらうばかりの恋でした。
なぜ、全て過去形なのですか?
よくぞ訊いてくださいました。
僕はもう、そう長くはないようなのです。
自分のことなのに、ずいぶんと濁すのねとあなたは笑うでしょう?
僕はあなたのどんな顔も大好きですが、やっぱり笑った顔が一番なのです。
ふつう、ですよね。
ああ、そうです、その少し困ったように眉頭の上がる笑い方!
そして決まって耳の横の髪を後ろにまとめるその仕草。
その癖を「かわいいね」と言ったら、唇を尖らせてむくれっつらで僕の額を小突きましたね。
それすらもいとおしくて、いとおしくて。
それは今も変わらずで。
聴いてください。
珈琲はもう、すっかり冷めてしまいました。
しまいました、なんて言いつつ本当は嬉しいくせにって思いましたか?
思いましたよね。
さすがです。
ですが、今日ばかりはもう少し熱かったなら……
そう願っていたのです。
思い通りにならないのが人生、などとどこぞで聴いた台詞を思い出しました。
そうだ。
旅行の最中、熱を出した時にあなたに言われたのでした。
その節は、ごめんなさい。
きっと浮かれていたんです。
では、何点か。
夏には中野区江古田の急坂の、タチアオイをご覧なさい。
スラリと伸びたその姿、きっと僕にそっくりですから。
秋には国立、大学通りの銀杏並木をご覧なさい。
それが生前、僕が猫背で歩いた道なのです。
冬には文京、湯島の障子。
開ければ壁、閉じれば窓。
笑い転げた冬の午後。
そして春。
僕の部屋に行ってみてください。
ベランダのテラコッタの鉢にヒアシンス。
あれは僕がひとりで植えました。
最後に見た時には、もう蕾ができていましたから。
きっと間も無く咲きますよ。
あくびしながらスズメ数えたあの朝も、しょうもない言い争いをしたあの昼も、月灯に沈んだあの夜も、あの球根は全部観ていた、聴いていた。
こういうことを言うとまた君は頬を風船みたいにして……
今、僕にはあなたの啜り泣く声と脈を告げる電子音が聴こえます。
できればあなたの声だけを聴いて眠りたいのです。
ですが、それは叶わぬ願いというものですね。
もう間も無くでしょうか。
先程まであなたの熱を奪っていた指先ももう、わからないのです。
雪はもう、溶けましたか?
まだなら、あの、踵の高い靴はだめですよ。
それから、ヒアシンスが咲き終えたなら、鉢をひっくり返してみてください。
それから……
それから……
それから……
ありがとう。
愛しています。




