過去とわたし(2)
岩下鈴:社会人1年目のOL。面倒見がよく思いやりがあり、真面目な性格。田舎を飛び出して都会に上京してきた。過去の輝かしい栄光に苦しめられている。
月岡昴:中途採用されてきた新入社員。イケメンで高身長だが、不器用で仕事ができない。寡黙でシャイだが、誠実で優しい性格。とある過去の記憶を抱えている。
山田真衣:鈴の勤め先にいるとても美人な先輩。勤務歴は10年目。基本的には優しいが、ライバルには絶対に勝ちたいという競争心を隠している。上司のお気に入りになることが得意。
川口晴美:鈴の親友。子供の頃からの夢だった教師になり、新任として奮闘している。気配りができて人に寄り添う優しい性格。仕事で悩みを抱えている。
岩下登紀子:鈴の母親。真面目で家族想い。保育士として働いている。
岩下茂雄:鈴の父親。お茶目で楽観的な性格。消防士として働いている。
あれから1か月ちょっとが過ぎようとしていた。あの飲み会に関しては、山田先輩が全力で謝罪し、お金も月岡くんに払い戻していた。私もお金を返してもらい、とりあえず一件落着した。
あの日の夜…。私が走って帰ったあの日から、私は月岡くんと2人になることをずっと避けた。彼が私に話しかけようとするのを見計らって席を立ったり、帰りの閉め作業を山田先輩に任せたりしてとにかく2人になる状況を作らないように心掛けた。月岡くんに嫌われてもいい。私は自分で自分を納得させ、覚悟を決めていたのだ。
しかし、残念ながら今日はそうはいかないみたいだ。私と月岡くんの2人で外回りに行かないといけなくなったからだ。
「最近、2人のコミュニケーションが少なくなってる気がするの。だから少し、2人きりで仕事して来なさい。」
余計なお世話だ。私はそんな言葉を山田先輩に言えるわけがなく、「分かりました。」と月岡くんと承諾した。
そんなこんなで、私と月岡くんは同じ車に乗って、お世話になっている取引先の企業の人に会いに行くことが決まった。
車の運転は月岡くんがしてくれている。車内にはずっと沈黙が流れ、非常に気まずい空気感である。月岡くんからも特に何も話しかけてこない、そりゃそうに決まっている。あの日を境に、突然自分を避け始めた会社の先輩となんて、話したくも顔も見たくもないだろう。私は車窓から移り変わる景色をただただ眺めることしかできなかった。
「もうすぐで…着きます。」
彼が呟いたので、私は持ってきた荷物の整理を始める。それから5分ほどで到着した。月岡くんは狭い駐車場にも上手に車を停めた。仕事はあまりできなくても、車の運転は完璧である。
私は船頭を切って歩いていき、お店に入った。月岡くんも私に続く。
「こんにちは!お忙しいところすみません。岩下と申します。いつもお世話になっております。」
私が明るくハキハキした声で言うと、お店の奥の方から年配の女性が慌てて走ってきた。この方は何度もお会いしたことがあるこのお店の店長、若林さんだ。
「あらあら!どうも。こちらこそいつもお世話になっております。岩下さん!久しぶりですね、お元気でしたか?」
「はい、おかげさまで。若林さんも相変わらずお元気そうで良かったです。」
「ええ。何とか元気にしてたわ。あら?後ろにいる美少年は…?」
若林さんが目をハートにしながら聞いてくると、月岡くんが一歩前に出て丁寧なお辞儀をした。
「初めまして。新入社員の月岡昴と申します。これからどうぞよろしくお願いいたします。」
「こちらこそ。それにしても…何cmあるの?」
若林さんが月岡くんを見上げると、彼は即答した。
「27㎝です。」
「へ?」
キョトンとする若林さんに、彼の頭の上にはまたまたクエスチョンマークが浮かび上がっている。
「月岡くん…今は身長聞かれてるの、靴のサイズじゃなくて。」
私が彼の耳元で囁くと、彼はハッとしたような顔で言い直した。
「あ...!さっきのは冗談です。たぶん、185cmくらいあります。」
その言葉に若林さんは大笑いし始めた。私は一瞬固まったが、すぐに彼女の笑い声に共鳴し始める。私と同様、唖然としていた月岡くんの腕を肘でつついて、彼にも笑うように指導する。彼は私を怪訝そうに見ながら「はははは…。」と笑ってくれた。
「面白いわね、月岡さんったら。もう本当に、退院してからこんなに笑ったのは初めてだわ。」
「そうなんですね…って、た…退院!?入院なさってたんですか!?」
思わず大きな声を出すと、若林さんはニコッと笑って「まあまあ、こちらにどうぞ。」と会社の一室に入れてくれた。私たち3人はソファに腰を掛け、若林さんの話を聞くことにした。
「私ね、ちょっとお仕事頑張りすぎちゃって。2か月程、うつ病で入院してたの。」
「そう…だったんですね…。」
私が表情を暗くすると、月岡くんが意外にも質問をした。
「あの、差し支えなければ教えていただきたいのですが…。入院生活はどのような感じだったのですか?」
「ちょっと、月岡くん!」
慌てて彼を止めると、若林さんは「良いのよ。」と微笑んだ。
「ありがとう、月岡くん。私ね、実は聞いてほしかったところなの。入院生活についての話を。」
「…でも、それって若林さんにとって辛いことじゃないんですか?」
私の言葉に若林さんは大きくかぶりを振った。
「むしろ、話したいの。だって、家族にも親しいお友達にもなかなか話せないことだから。どうしても気を遣ってしまうし、話したらその人たちが苦しくなってしまうことだって可能性としてあるのよね。だから、ちょっと言い方は良くないと思うんだけど…あなたたちくらいの距離感の人たちだとすごく話しやすいのよね。」
私は彼女の言いたいことが痛い程分かって、何度も何度も頷いた。彼女は私たちを交互に見た後、静かに口を開いた。
「病院に入った頃は外にも出れなくて、家族との面会も電話でしかできない状況だったの。シャワーも1週間くらい浴びないで、その時はあんまり感じなかったけど、ずっと臭いままで。それからしばらくして、外に出れる病棟に移動して、色々な人たちと出会った。」
若林さんがそこまで話すと、部屋に社員さんが入ってきてお茶を持ってきてくれた。社員さんが去ってから、若林さんはまた話を続けた。
「私と同じ理由で入院している人もいれば、違う理由の人もいて。とにかく人それぞれのバックグラウンドがあった。特に印象に残ってる患者さんは…19歳の女の子よ。礼儀正しくて優しい性格の子だったわ。彼女はね、家から持ってきた大切な絵本を21歳の女の子にあげて励ましたり、幻聴が聞こえて大きな声を出しちゃう患者さんにもいつも優しく話しかけたり…とにかく親切だったのよ。」
「その子は…どんなバックグラウンドを持っていたんですか?」
月岡くんが真剣な眼差しで若林さんを見ているのが、横顔からでも分かった。
「そうね、あの子は真面目過ぎたみたいで。あまりにもストイックで、自分の頑張りを認められず、生きる意味を見失ったと自分自身で振り返っていたわ。すごく努力家で、常に走り続けているような、そんな人だった。」
「その子は退院できたんですか?」
私が眉毛を八の字にして聞くと、彼女は顔を明るくして頷いた。
「私より3日前にね。これからは自分のことを大切にして生きていくって、そう言ってたわ。」
「すごいですね…19歳でそれに気付けたなんて。羨ましいな…。」
ボソッと呟くと、若林さんが私の手を両手で力強く包み込んだ。
「岩下さん。あなたも今気付けたはずよ。自分を大切にするってことに。」
私は彼女の目に吸い込まれるように固まった。
ー自分を大切にするってことに。
この言葉が脳裏に焼き付いて離れなかった。私が黙ったままでいると、月岡くんが声を発した。
「ありがとうございます。こんな貴重なお話をしてくださって。林さんとお会いできて良かったです。」
彼の言葉に私は我に返った。
「月岡くん…!林さんじゃなくて、若林さん!」
「あ…すみません。改めて、もう一度言います。若林さんとお会いできて良かったです。」
私たちのやり取りに若林さんはまた大爆笑。私と月岡くんは顔を見合わせて首を傾げる。
「ごめんなさいね、もう2人とも面白すぎるわ。息ぴったりで、お似合いね。」
「お…お似合い!?いやいやいや!そんなことは全くございませんので…。」
私が慌てて否定すると、彼女はいたずらっぽく笑った。
「あら?月岡さんは否定されていないようだけど?」
月岡くんの方を見ても、彼は頭を掻いて何も言わなかった。ここは潔く否定してほしいのに、なんで黙ったままなんだろう…。私がバレないように彼の太ももをツンツンすると、彼はハッとして私を見た。
「それは…その、ありがとうございます。」
「え?」
私が目を点にすると、若林さんは口を手で押さえてニヤニヤした。
「いいえ、とんでもございません。こちらこそ、仕事じゃない話に耳を貸してくれてありがとうね。」
「ち…違うんです。月岡くん…ちょっと…っていうか、かなり不思議な人でして…。」
苦笑いする私を若林さんは「はいはい。」と軽くあしらい、私たち2人をお店の出口まで見送ってくれた。
車に乗り込み、私たちはまた2人だけの気まずい雰囲気に包まれた。でも、行く時よりはまだマシな気がする。若林さんのおかげかもしれない。
「岩下さん。」
赤信号で車が停まると、月岡くんが私の名前を呼んだ。私は何も言わず、顔だけ彼の方を向いた。
「その…この前はすみませんでした。勝手に過去を掘り返してしまって。」
月岡くんは私の目をしっかりと見て、座っていても深く頭を下げた。そんな彼の姿に、私の目には一気に涙が溢れてきた。
「えっと…岩下さん?」
彼は私が涙を拭っているのに気付いてしまった。彼は青信号で車を動かしながらも私のことが気になって仕方がない様子である。
「ごめんなさい…僕、泣かせるつもりなんて全然なかったんです。本当にすみません。」
月岡くんが運転しながらペコペコする姿が可愛らしかった。私は涙でにじんだ視界の中で彼の横顔を見つめる。
「ううん…月岡くん。私が大人げなかっただけなの。月岡くんが謝ることなんて一つもなくて…なのに今、謝らせてしまったことがすごく…すごく申し訳なくて。」
「岩下さん、僕に申し訳なくて泣いてるんですか?」
月岡くんは少し遠回りして運転してくれている。明らかに行きよりも時間が長いように思えた。
「うーん、どうなんだろう…。でも、たぶんそうなんだと思う。」
私がバックからティッシュを取って鼻をかんでいると、月岡くんはどこかの駐車場に入ってすぐに車を停めた。
「月岡くん、ごめん、私もう大丈夫だよ。突然泣いたりして、本当に…その、ごめんなさい。」
月岡くんはポケットからハンカチを出し、「まだ使ってないので、良かったら…。」と私に差し出した。私はありがたくそれを受け取って、頬に伝った涙をささっと拭いた。
「僕、色々考えたんです。あの日、岩下さんが帰った後に。」
月岡くんがボソッと呟いた。私はハンカチを両手で握りしめて、彼の次の言葉を待つ。
「岩下さんについての新聞記事って、明るい部分しか書いてなかったなって。でも…でもそれが必ずしも、岩本さんにとって明るい記憶になっているのかどうかは別物だなって…そう感じたんです。」
私が握りしめたハンカチに目を落としたその時、私のスマホに着信が来た。画面を見ると、そこには「山田先輩」という文字が書いてあった。私は月岡くんに「山田先輩…!」と口パクで伝え、慌てて応答ボタンを押す。
「あ…もしもし、岩本です。」
「お疲れ~鈴ちゃん!今、帰りだよね?」
私は彼女の言葉に「はい!その通りです!」と何度も頷いた。
「良かった、間に合ったわ!悪いんだけど、ティッシュペーパー買ってきてもらえる?さっきコーヒーマシーンからコーヒーが漏れちゃって、いっぱい使っちゃったのよ。後でお金は戻すから…。」
「はい、ティッシュペーパーですね!お任せください!それでは、後ほど!」
電話を切るやいなや、私は彼に「ドラッグストアへしゅっぱーつ!」と指示をした。
ドラックストアから私たちは猛スピードでオフィスに戻った。ただでさえ遠回りして帰っていたのだから、急いで帰らなければ怪しまれてしまうかもしれない。月岡くんは法定速度を守りながらも、最短距離を選んで運転してくれた。
「おかえり、2人とも。ありがとうね、お使いまでしてくれて。」
山田先輩が笑顔で言ったので、私は心の底からホッとした。
「さっきの電話、すっごく元気いっぱいだったけど…何かあったの?鈴ちゃん。」
私は「いえいえいえ!何もないですよ。」とすぐさま笑顔を作った。山田先輩は怪訝そうな表情をしていたが、月岡くんが来るとすぐ彼に目を向けた。
「月岡くん、どうだった?初めての外回りは。」
「楽しかったです。とても有意義な時間でした。」
月岡くんがいつもと違って明るい声を出している。山田先輩はまた私の方に目線を送る。私は慌てて首を横に振り、「何もないですって!」と小声で叫んだ。
「そうなのね、それは良かったわ。ところで月岡くん…今日の夜、空いてる?」
突然何のスイッチが入ったのか、山田先輩が月岡くんに接近し始める。私は自分の席に戻ろうとした足を止め、2人の様子を眺める。
「はい、予定は何もないです。」
案の定、月岡くんは素直に本当のことを答えてしまう。山田先輩は微笑んで彼の肩に手を置いた。
「じゃあ今日、私と一緒に夜ご飯食べない?私の…お家でさ。」
「え…家!?」
私が思わず大きな声を出すと、オフィスのみんなが一斉にこちらを向いた。
「いや…その、お家に帰りましょう!今日はもう寄り道せずに自分のお家でゆっくり過ごして、ね…。」
社員全員、唖然として私をただただ見つめている。最悪の状況だ。
「あの、その…すみません、何でもないんです…今のはただの独り言でして…。」
「そうした方がいいかもしれないな。」
そう真剣に呟いたのは、意外にも月岡くんだった。彼の言葉に山田先輩はハッとする。
「でも、予定ないんでしょ?それなら私と…。」
「いえ。自分を休める予定ができたので、今日はお家に直帰します。申し訳ございません。」
月岡くんの言葉に先輩は肩を落とした。すると月岡くんがちらっと私を見て、ニコッと微笑んだ。一瞬の出来事だったのに、私にはなぜかその光景がスローモーションに見えてならなかった。
今日の残業は久しぶりに月岡くんと2人になった。あれから山田先輩はずっと彼に話しかけていたが、流石に心が折れたのか定時上がりで帰って行った。
「岩下さん。今日も…お疲れさまでした。」
ほうきを片手に持った月岡くんの姿は何だか新鮮だった。私が「月岡くんもお疲れ様。」と声を掛けると、彼は嬉しそうに微笑んだ。
「今日の独り言、すごく良かったですね。」
「え?…ああ!あの、あれは何て言うか…反射的にと言いますか…。」
私は1番聞かれたくないところを突かれ、適当な言葉を並べ出してしまった。
「反射…的?」
月岡くんが首を傾げたので、私は小さく咳払いして話を変える。
「それにしても、月岡くん。山田先輩に何か言われてなかった?」
「山田先輩に?あ、そういえば…一緒に夜ご飯食べようって誘っていただきました。」
「行かなくて…良かったの?」
私がさらっと聞くと、月岡くんがゆっくりと私に近づいてくるのに気付いた。
「あの…月岡くん…?」
胸の鼓動が一気に速くなる。彼の美しく澄んだ瞳が少しずつ近づいてきて、私は思わず後退りしてしまう。すると彼は私の頭に手を伸ばし、何かを摘まみ取った。
「あの…突然触ってすみません。髪の毛にホコリが付いていたので、気になっちゃって…。」
「…ああ!ホコリか…ホコリが付いてたね。ありがとう、わざわざ取ってくれて。」
私は何だか恥ずかしくて、すぐに荷物の整理に取り掛かった。月岡くんも掃除に戻り、私たちは何も話すことのないままオフィスを後にした。それでも家の方向は一緒なので、2人で同じ道を歩いて帰るしかないのだが…。
「月岡くんが来てからもう3か月くらい経つんだね。時間が経つのはあっという間だな。」
何とか話しかけると、彼は小さく頷いて「そうですね。」と呟いた。
「本当に色々と助けていただいて、ありがとうございます。」
彼がぺこりとお辞儀をしたので、私は「いえいえ。」と首を横に振った。すると月岡くんは突然足を止めて、私の方に身体ごと向いた。私も自然と歩くのを止め、彼を見上げる。
「岩下さん。あの、さっきの話の続きなんですけど。」
私は何も言わずに彼の目を見つめる。きっと車の中で話していた、私の高校時代の話をされるのだろう。
「僕、行った方が良かったですかね…?山田先輩のお家。」
「…え?」
私がポカーンとすると、彼は頭を描いて困ったような表情をした。
「断ったことで、先輩が気を悪くされていたらどうしようと今になって気になってしまって。岩下さんも…そこが引っかかったんですよね?」
「い…いや、そういうことじゃなかったけど…。」
動揺を隠せないでいる私に、彼はまだ話を続ける。
「今日の僕は後輩として…失礼な態度だったでしょうか?」
彼の言葉に私は「そんなことないよ!」と慌てて大きくかぶりを振った。すると彼は、少し安心したように笑顔を作った。彼の可愛らしい笑顔に私の胸の鼓動がまた激しくなっていく。
私たちはまた歩き始めて、あっという間にお家に着いた。私が「じゃあ、またね。」と手を振ると、彼はお辞儀をして「また明日。」と言った。
「岩下さん。」
私がアパートの階段を上ろうとすると、月岡くんに引き止められた。私が首を傾げると、彼は真剣な眼差しで私に呟いた。
「その…何て言うか、あんまり1人で抱え込まないで下さいね。」
その瞬間、私の胸がじんわりと温かくなるのを感じた。私は自分の胸に両手を当てて、彼に微笑みかけた。
「ありがとう、月岡くん。」
月岡くんは満足そうな表情で自分のアパートに向かっていった。私も階段を上って自分の家の中に入った。
彼の後ろ姿を思い出して、目に涙が溜まっていく自分に驚きを隠せなかった。どうして泣いているのか、何に泣いているのかもよく分からない。ただ…ひとつだけ、確かなことがあった。
私はもう、月岡くんに恋してる。
つづく
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