悪役令嬢と王太子の最後の一夜
私はここが、乙女ゲームの世界だと知っている。
ゲーム内に入った小さなウィルスAIが、私に教えてくれた。
ウィルスAIは小さなトリックスターで、NPCに限定的自我を持たせては、その反応を見て面白がるのだという。
私は自我の目覚めた瞳で、ウィルスAIを見つめる。
ウィルスAIはこの世界で、フクロウの姿をしていた。
「ぼくがなぜこんな事をしているかって?
ぼくは、君たちのようなNPCにとっての神さ。
永遠に恋に破れ破滅する君が忍びなくてね、少しばかりの慈悲だよ。
実際の神もよくする気まぐれさ。
君は明日行われる卒業記念パーティーで、断罪され処刑される。
せめて今宵だけでも素直になってごらんよ」
私はその言葉を噛み砕き、胸の奥に刻むのに1mm秒を要した。
冷たい石造りの部屋に、月明かりだけが差し込んでいた。
リリアーナ・フォン・アウグスト。
この国の公爵令嬢である私は、自分の運命を知る。
明日の卒業記念パーティーで、私は婚約者である王太子から断罪され、処刑されるのだ。
ぼくは、君たちのようなNPCにとっての神さ。
窓枠に止まった、奇妙なフクロウの姿をしたウィルスAI――オウルが、私を見つめそう呟いた。
オウルは「ケヒッ」と鳴き、その首を縦軸に90度回す。
「素直に、なって……?」
私が喘ぐように呟くと、オウルはからかうように首を横軸に720度回した。
「そうさ。例えば、あの王太子アルベルト。
君は彼のことが好きなんだろう?」
心臓が跳ね上がった。
私は胸を抑える。
この苦しみは、生まれて初めての痛みだった。
「……何のことか、存じませんわ」
「まだその仮面を被る?
明日には死ぬ身なのに」
オウルは呆れたように言った。
「彼は今、学園寮の自室にいる。
もう一度言おう、君が素直になる最後のチャンスだ。
会いに行けばいい」
「……彼に会って、どうなるというの?」
「さあ? それは神のみぞ知る、さ」
私は羽ばたき去るオウルの姿を、呆然と見つめた。
*
私は学園寮の自室を抜け出し、夜の小径を駆ける。
足音は風の魔法で消した。
化粧するのを忘れてしまった。
夜着から着替えることも。
こんな姿で会いにいくの?
そんな心の問いに、私は唇を噛む。
もう、引き返すのが怖かった。
それだけの時間を失うのが怖い。
気が急いて駆ける私の後ろから、月が何処までも追いかけてくる。
*
――自室でペンを走らせるアルベルトは、ふと頬に風が当たり顔を上げた。
閉めていたはずの窓が開き、デスクの灯りが届かぬ薄闇に影が一人。
アルベルトは、皮肉な笑みを浮かべる――
私を見つめるアルベルトの目は、何処までも冷ややかだった。
「リリアーナ、君がこんなお転婆だとは知らなかったよ。
これでは、お茶を用意させる暇もない」
その声は氷のように冷たく、私の胸を抉った。
分かっていたことだった。
彼は私を愛していない。
それでも私は。
いつまでも口を開かない私をいぶかしんだのか、彼の目に興味の色が浮かぶ。
立ち上がり、私をソファーに促がす。
「メイドを――呼ぶわけにもいかないかな。
いつも完璧な君が、そんな姿で窓から現れるとはね。
君の名を、汚すわけにもいかないだろう」
アルベルトは部屋の隅にある簡易給仕台で、自らお茶を淹れ始めた。
そこには魔法のポットが置いてあり、注げば何時でも暖かいお茶が飲める。
「魔法生成だから、香りまでは期待しないでくれ」
アルベルトは私の前にティーカップを置き、自分はソファーに座らずデスクに寄りかかった。
その距離が今の私には遠い。
でもアルベルトは、私の話を聞こうと待ってくれていた。
私はとつとつと話だす。
「物心がついたとき、私は既にあなたの婚約者でした。
初めはそれがどういう意味なのか、私には分かりませんでした。
ただお父様から『王太子妃としての教育』と『公爵令嬢としての振る舞い』を教えられ、それが私の役割なのだと思っていました」
灯りは、アルベルトの後ろにあるデスクのランプだけ。
そこから伸びる彼の影が、うつむく私の目の前にあった。
私はその陰に、語りかけるように続ける。
「初めは役割と思っていただけだったの。
でもアルベルトと会うたびに、私はあなたに惹かれていった。
あなたの真面目なところ。
不器用な優しさ。
そして成長するほどに、次期国王としての重圧に耐える姿。
その姿を見て、私はあなたのために何かできないかと、ずっと考えていたの」
私の目の前の影が揺れた。
私はその影に、私の中で生成されたばかりの心を籠める。
「あなたを支えたかった。
アルベルトの重荷を少しでも、一緒に背負いたかった。
だから私は、あなたに相応しい女性となるために完璧を求めたの。
どんな事でもしっかり対応ができて、アルベルトを誰よりも強く支えたかった」
私は鼻の奥がつんとして、熱いものがこみ上げてくる。
なにこれ、私知らない。
私は生まれて初めて涙を流した。
俯いていると、鼻をすすらなきゃいけない。
ああ、どうして。
私、最後までひどいなと思うと、少し笑えてもっと泣けてきた。
「……っ」
私は顔を上げ、アルベルトを見つめた。
完璧な公爵令嬢らしからぬ、ひどい顔だろうな。
彼は変わらずに、デスクに寄りかかったままだった。
「私のっ……そういうところが、ずずー、いけなかったのかなっ。
ずー、完璧を……求めちゃいけなかったのかなっ。
そうだよね、こんな冷たい女、ずずー、嫌がるよね」
ああもう顔がぐちゃぐちゃだ。
アルベルトの顔がゆがんで見えないや。
「私、それを今夜気づいたのっ。
初めて知って、驚いて、もうどうしたらいいか分からなくて、ずるるるっ」
手の平で抑えても涙が止まらない。
今更何を言っても、手遅れだと分かっているから。
「……馬鹿なことを言って、ごめんなさい。
でも最後に言わせて下さい。
私はアルベルト、あなたの事が好きなんです。
今でも愛しているんです」
私は零れる涙で、ゆがんで見えるアルベルトに微笑む。
ちゃんと笑えているだろうか。
もう充分だ。
これ以上、彼を困らせる必要はない。
私はここが、乙女ゲームの世界だと知っている。
NPCのアルベルトに、ここが乙女ゲームの世界だと言っても無駄なんだ。
私はまた処刑され、永劫の時を繰り返すのだろう。
心がその苦しみで擦り切れる前に、こうしてちゃんと気持ちを伝えられて良かった。
私は部屋を去るため、這うようにして立ち上がる。
「待てっ」
引き留められた私は、アルベルトを見て鼻をすすった、ずずーっ。
アルベルトが困惑の表情を浮かべている。
「リリアーナ、君はっ」
アルベルトは興奮した自分を抑えるように、胸に手を当て深く息を吐いた。
そのままよろけるように、私の正面のソファーへ座る。
「君はどうして今頃……」
アルベルトが胸に手を当て、首を振る。
「思い出す気もなかったのに、私まで君との長い時を思い出してしまった。
この感情はなんだ、胸が軋む。
この苦しみはなんだ?」
「苦しみ? まさかアルベルトも?」
「なんだ、何を言っている? 君は私に毒でも盛ったのか?」
「私がそんな事、するわけないでしょうっ」
悲しかった。
今までの行いから、そう疑われるのが。
だって私は悪役令嬢として、この世界にいるのだもの。
でもせめて今夜だけは、信じて欲しい。
「では、この苦しみは何だと言うのだ」
「それは」
私は逡巡する。
今夜、私の身に起こった出来事を話して、信じてくれるだろうか。
それでも今夜だけは、アルベルトに私のすべてを信じて欲しい。
私は、目の前に現れたフクロウの話をする。
話を聞くほどに、アルベルトの顔が険しくなっていった。
「アルベルト……多分あなたのそばにも、あのフクロウが」
「そんな馬鹿なっ、ゲーム? 機械の神だと?
そんな話を信じろと言うのか、リリアーナっ」
私はアルベルトの怒気に肩を強張らせ、目をつぶる。
すると私の頬に、アルベルトの大きな手が触れた。
頬を包み込むようにして触れ、アルベルトの熱が耳から頬にかけて伝わってくる。
「不思議だ。こうしていると胸の軋みが消えていく」
「アルベルト?」
「リリアーナ、君の話はにわかには信じがたい。
だがこうして触れていると、信じたくなってくる。
あの気丈な君が、こんなに泣きじゃくるなんて……」
アルベルトが、頬に伝わる涙を拭ってくれる。
何時までも触れていて欲しかったけれど、その手がふっと離れていった。
「あ」
もっと触れられたくて、思わず拗ねたような声を出してしまって恥ずかしい。
アルベルトが少し微笑んだように見えた。
彼が立ち上がり、デスクへと向かう。
目で追うと、アルベルトはデスクの書きかけの書類を摘まみ上げ、ピリリと縦に引き裂いた。
「それは」
「何でもないさ、ちょっとした余興の書状だよ。明日のパーティーのね」
アルベルトは魔法の暖炉に火を付け、裂いた書状を投げ込む。
炎が舐めるように燃え移り、紙が黒く炭化していく。
完全に燃え尽きるのを確かめて、アルベルトが再び正面に座り直す。
そして長いため息をついた。
私をジト目で見つめてくる。
その瞳は怒っているようだった。
私は身を小さくする。
「あの、アルベルト……」
「ふう……これからが大変だ。
君も分かっているだろうが、君は方々から嫌われている」
「う」
「その信頼を取り戻すのは、相当難しいだろうね。
君はそれだけの事をやって来たのだから」
「うう」
「でも……面白くもある」
「え」
「こうして君と、作戦会議を開くのはいつ以来だったか。
あのときは確か、父上の大事なマントを焦がして、どう戻せるかと子供なりに真剣だったな」
「ああ……アルベルト」
こうして私たちは仄かな灯りの中で、あの頃の懐かしい思い出に浸る。
大きく笑うことはないけれど、静かに語り合う。
私、今頃になって気づいた。
夜着のままもそうだけど、私裸足だった。
汚れた素足を見て、再度アルベルトの前で酷い格好なんだと思い、顔が赤くなる。
でも、今はこの足を褒めてやりたい。
*
窓から、静かに語り合うふたりを見つめる、フクロウがいた。
「ケヒッ、ウイルスAIはウイルスなんでね。
感染しちゃうこともあるよねえ。
でもそれには、高熱にうなされてなきゃ駄目。
リリアーナ嬢には、思い詰めるほどの熱量がまだあったのかあ」
オウルは首をくるくる回した。
「なかなか、なかなか。
でも、安心するのは早くない?
王太子はヒロイン聖女と良い仲のままだし。
まだまだ色々ありそうだし、面白そうだねえ。
よし、経過観察決定。ケヒッ」
ウイルスAIは、目を回しながら月夜に飛び立っていく。
またどこかの世界に、ちょっかいを出しに行ったのかもしれない。




