プロローグ
眼下に広がる森は静かに、雄大に広がっている。
朝の陽射しが梢の間を縫い、鳥の声と風にそよぐ葉音が重なる。
大きな街道から外れたこの森は、ほとんど人が訪れることがない。
青々と広がる森の奥に、不自然に拓かれた場所があった。
中心には木造二階建ての家が建っていて、周りには畑、家畜小屋などが見える。
畑にしゃがみ込んでいた若い女が顔を上げ、額の汗を拭う。
彼女の名前はエイミ=シュローデン。紫色の長い髪をポニーテールにまとめ、人懐っこそうな笑顔と緑色の綺麗な瞳が印象的な女の子。
魚の形をしたヘアピンを前髪につけており、三匹の魚がそれぞれ黄色、ピンク、ライトブルー。
擦り傷や塗装が少し剥がれていることから、年季が入っている事が分かる。
少し大きめの白いシャツに、茶色い作業着を着用し、麦わら帽子を被っている。
収穫した作物を手際よく木箱に詰めて行く。
「デノックさん、こっちは終わりました! 今年はいっぱいとれましたね!」
「……うんうん。そうじゃのう、マリー」
「……だから、エイミですってば!」
のっそりと答えるのは、白髪混じりの男、デノック=ランプ。
年の頃は六十を越えているだろうか、背は高いが猫背気味。
にこやかな笑みを浮かべ、視線をエイミに投げかけながら、知らない名前を呼ぶ。
それに慣れている様子のエイミは、嘆息を入れながらタオルで額の汗を拭う。
「じゃあ、私は餌やりいってきます!」
「もうやってあるわい」
「え、ええ! いつの間に?! ていうか私の仕事とらないで下さいよ!」
「今日は、散歩に行くからのう。一人じゃ、大変だろうと思って」
いつものような軽口を交わしながら、二人は示し合わせたように土をならし、雑草を抜き、苗を植えていく。
静かで、代わり映えのしない日々。
それがエイミにとっては何よりの救いだった。
勇者部隊に所属していた頃を思い返すと、こうした作業がどれほど安らぎをもたらすかを知っている。
だが、その静寂は突然破られた。
ゴゴゴゴ……。
大地が低くうなり、土が波打つ。畑の道具ががちゃりと倒れ、家畜小屋の動物たちが一斉に鳴き始める。
「きゃっ!? 地震!?」
エイミが慌てて立ち上がり、よろめく。デノックは素早く腕を伸ばし、彼女を支えながら周囲を見渡した。
「……珍しい事もあるもんだ」
そう言い終えた時、森の奥で何かが砕けるような轟音が響いた。
地面が一際強く揺れ、森の空気が一変する。
やがて、震動が収まった。だが静けさは戻らない。
森の奥、農場からおよそ北に三百メートルの地点から、鳥たちが一斉に飛び立つのが見えた。
それを見たデノックは老人とは思えない足取りで駆け出していく。
「ま、待って下さい! 私も…!」
懸命にデノックの後ろ姿を追う。
震源地であろう場所に向かっているのはエイミとデノックの二人だけ。
森の動物達はその場所から一心不乱に逃げている。
デノックが足を止め、地面を食い入るように見つめている。
そのおかげでエイミは彼に追いつき、肩で息をしていたのも忘れ、目の前の光景に釘付けになる。
まるで巨大なシャベルで一掻きされたかのような底の見えない穴が地面に穿たれている。
「……何? 地震の影響?」
穴の縁には異様な光がきらめき、空気が歪んでいる。そこから吹き出す風は冷たく、どこか生臭さを含んでいた。
「……ダンジョンか」
デノックの声は一段低くなったように聞こえる。
穴は底知れず、見下ろすだけで足元がすくむ。
農場から少し離れた先に開いたその穴が呼吸をするかのように、冷たい風を彼らの頬に吹き付ける。
「深い、ですね。うわぁ……。何メートルあるんでしょうか……」
「んむ、危ないのう。落ちないようにしないと」
道の途中に空いた巨大な落とし穴が危険なのは誰の目にも明らかだ。
取り急ぎ、明日にでも柵を設ける必要があるだろう。
隣に立つデノックは、普段と変わらぬ笑みを浮かべていた。驚くエイミを支え、肩に手を置くと一言だけ告げる。
「……仕事に戻ろうかのう」
「え、ええ?! このままですか?!」
「うん。どうしようもないじゃろ? 寝て起きてから考えればいいんじゃ」
「う、うーん。デノックさんが、そう言うなら……」
二人は再び畑に戻り、作業に取りかかる。
初めは頭の中で色々と考えてしまっていたエイミだったが、土を耕し、苗を植え、収穫物を箱に詰めているうちに、あっという間に一日が終わりに近づいていた。
気がつけば夕暮れ、家の窓には灯りがともり、デノックは既に帰宅しているようだ。
農場主は、夕餉の支度まで終えていたらしい。穏やかな食事と入浴を済ませ、夜は静かに更けていった。
翌朝。エイミが目を覚ますと、家の中にデノックの姿はなかった。
「散歩に行くって言ってたっけ……。今回はすぐ帰ってくるといいけど」
彼がふいに姿を消すことは珍しくなく、いつ戻るのかも分からない。
これもランプ農場では日常茶飯事であった。
朝一の見回りをしていた時、家畜小屋が騒がしくなった。
嫌な予感が頭をよぎり、走って現場に向かうと、巨大な猪が鼻息を荒げながら地面の匂いを嗅いで周りを見回している。
エイミは全力で走りながら、体に魔力を纏わせ猪の前に立ち塞がる。
すると彼女の体を光が包み込む。鎧が姿を取り、片手には重そうなメイスが握られている。かつて勇者部隊で用いた装備だ。
重厚な分厚い全身鎧は陽光に照らされて、鈍い銀色に輝く。
頭部があるはずの場所には兜が見当たらない代わりに、天使の輪の様な物が浮かんでいる。
首が無いように見える事から、エイミは勇者時代に「首無騎士」と呼ばれていた。
見えていないだけで兜も存在するが、光を反射することで相手からは見えなくなる仕組みだ。
急所を隠し、自身の視線をも隠すことが出来る、便利な兜だ。
重装騎士の姿になったエイミは、獣に向かって一歩踏み出そうとする。
全身の力を足に込め、引きずるようにして前へ。
息を止めて、歯を食いしばり、魔力を循環させる事で少しでも力に変換する。
体を駆け巡る痛みに耐えながらも、何とか一歩踏み出し、わざとらしく地面を鳴らす。
ビクリと震えた猪はその圧に負けたのか、後退りをして踵を返し、森へと駆け去っていった。
しばらく周りを警戒したあとで、鎧が光になって消え、跡形もなく消失する。
残されたのは、肩で息をしながら地面に倒れ込むエイミの姿だった。
かつては鎧を着たまま夜通し戦った事もあったが、今では一歩前に進むだけで、この有様だ。
だが、威圧感は健在なようで、野生の獣を退けるには十分だった。
やがて立ち上がると、彼女は息を吐き出す。
「あの穴のせいで、棲家を失ったんだろうな…。農場の周りに柵を……」
言いかけた所で、ダンジョンの事を思い出す。
あのままにしておけば、知能の低い獣は穴に落ちてしまうかも知れない。
「そうだ、あの穴の周りに柵を作らないといけないんだった!」
そう思いダンジョンに足を運ぶと、すでに穴の周囲には木柵が組まれていた。デノックの仕業に違いなかった。
彼は時にぼんやりして見えるが、要所では確実に仕事を済ませている。
謎の多い人物でもあるが、エイミにとっては頼もしい存在だった。
そして二日後、何食わぬ顔でデノックは戻ってきた。
行き先を尋ねると、簡潔に答えただけだった。
「ダンジョンが出来たって報告に行ってた。近々ギルドの先遣隊が来るみたいだよ」
不安を覚えさせる言葉であったが、デノックが農場に戻ってきたこと自体が大きな安心でもあった。
準備を整えるよう言われたエイミは、早速使っていなかった二階の掃除にとりかかる事にした。
穏やかなランプ農場の日々は新しい段階へと進みつつあった。




