八話
起床したリリシアはヒカリの身支度を手伝ってあげてから共に朝食を取った。
着替えを持ってきてくれたイリナはしっかり休めたかと心配している様子だったが、むしろ今のリリシアはかつてないほど清々しい気分で朝を迎えていた。
ヒカリは今日もゴルスタンの授業があるため二人は部屋の前で別れた。
そしてリリシアが真っ直ぐ向かったのはラスティスの執務室だ。
「お兄様にお伝えください。都合の良いときにお時間を頂戴したいと。わたくしは近くの部屋で待機しています」
外の護衛に伝言を頼むと、リリシアが背中を向けるよりも早く中から補佐のカリオが呼び止めてきた。
「リリシア様、殿下はすぐにお会いになるそうです」
「お忙しいのではなくて?」
「大丈夫です。むしろ根を詰めすぎているほどですので、どうか休むように言ってください」
そうはいってもあのラスティスのことだ。リリシアが言おうがカリオが言おうが、自分でやると決めたら断固としてやり通すだろう。
曖昧に笑って頷き返して中に入る。気をつかったカリオはリリシアと入れ違いに執務室を出て行った。
「やあリリシア。今日はどうしたんだい?」
「ヒカリのことでご相談が……浄化の力の使用で根を詰めすぎている様子なので、場所を変えてみてはどうかと」
「つまり実際の淀みの発生源に行って試そうということかい?」
「はい。なによりヒカリはずっと城内にいます。少しぐらい外の空気を吸って気晴らしもすべきかと思います」
ラスティスは考えるように沈黙した。そしてそう経たずに頷いて見せた。
「うん。一度現場に行ってもらおうとは思っていたからね。いいよ。父上には私から言っておこう」
言うが否や、ラスティスは地図を広げて王都から近い淀みの発生箇所をピックアップしていく。
「半月後にまず国内の貴族向けにヒカリのお披露目をしようと思っていたんだ。それより前に一度ヒカリには現場を見てもらおう……すると、出来るだけ人の目は避けた方がいいかな」
そうしてあがったのが王都からほど近い一つの森だった。木々が生い茂るその地域は、湿潤した土地で人や動物の行き来がなくルプが停滞しやすい。
行商人なども避けて通るために人目が少ないし、たしかに条件には合致している。
ここならば余裕をみても二、三日あれば往復出来るだろう。
ラスティスが少数先鋭の騎士たちもつけてくれるというので安心だ。
「それと、書庫の鍵をお借りしてもよろしいでしょうか」
「鍵を?」
「はい。ステラナに関する情報を得たいので」
王城内に一棟用意されている書庫は、主に官吏や貴族であれば出入り口の記帳のみで自由に閲覧が可能だ。しかし、最奥の部屋には鍵がかかっていて、王太子か国王からの許可がなければ入室は出来ない。
一般には容易に人の目に触れさせられない情報が詰まっており、ステラナに関する書物もそこにある。
「分かった。用意しておこう」
「……可能であれば、グラヴァスやその他降臨国にも情報の収集を要請したいです」
ピクリとラスティスの形の良い眉が片方跳ねた。穏やかな雰囲気が消え、こちらの考えを読もうという鋭い気迫を感じる。
「そこまでヒカリは切羽詰まっているのかい?」
「思い詰めているのは本当です」
さっきよりもラスティスは難しい顔で考え込んだ。
「ひとまず直近での降臨があったグラヴァスだけに絞ろう。それも父上から許可を得てからだからな」
「はい。大丈夫です。無理を言っているのは分かっていますから」
「それはいいけれど……ヒカリはそんなに落ち込んでいるのかい?」
心配だと言いたげにラスティスは眉を落とした。余計な心労をかけるのが心苦しく、また事前に知らせておいたほうが良いだろうと思ったリリシアは素直に話す。
「ヒカリのためというのに間違いはありません。それと、浄化の力だけでなく調べたいことがあるんです」
「調べたいこと?」
「はい。あの子が元の世界に戻る方法を――」
言葉は、大きな音で遮られた。ラスティスが机に両手を強く叩きつけながら立ち上がったのだ。
「自分が今なにを言ってるのか分かってるのか?」
音の余韻が消え、低く問い詰めるような声が届く。リリシアは背筋を伸ばした姿勢で真っ直ぐ目を逸らさずに頷いた。ラスティスは大きなため息とともに椅子に崩れ落ちるように腰かけた。項垂れた頭を支えるようにラスティスは目許を手で覆う。
「……リリシア、異世界から来た女の子はそんなに可哀想かい?」
「突然家族と引き放されて知らぬ世界に呼ばれることを、お兄様は可哀想だとは思わないのですか?」
「いや。同情するよ。だが、僕たちが同情してどうなる? 僕たちが一番に考えるのは国民――ひいては国のことだ。あの子になにがなんでも淀みを浄化してもらわなければならないんだよ」
「そんなことは分かっています」
つい、吐き捨てるような言い方になった。兄の諭すような口調に腹の底がムカムカしたのだ。
リリシアだって王女だ。家族のように国のためになりたいと常々思って来た。今さらそんなことを言われなければ分からないような、そんな子どもに見えたのか。
「逃げ道を全て塞いだところでステラナが世界を救ってくれるのですか? それはわたくしたちは良くても、彼女たちにはあまりに酷です。むしろ、帰還方法を用意した上で、協力を申し出たほうがよほど建設的ではありませんか」
「例え僕たちとステラナの間でその協力が締結できたとしよう。だが、他国はどう思う? 帰還方法を調べていると知られただけで、彼らはセンフィールを世界の謀反人のように仕立てるだろう」
「それは……」
分かっている。分かっているからこそ、リリシアは事前にラスティスに言っておくべきだと思ったのだ。もちろん大々的にやるつもりはないが、自分のせいで国にまで迷惑をかけたくはない。
「こんなことになるなら、母上がお前に任せると言ったときに反対していれば良かった」
呻くような声に、パチリと目を瞬く。
「リリシュテル様が……?」
彼女が、ヒカリをリリシアに任せると言ったのか。
見開いた目でラスティスを見るが、彼は珍しく乱暴な動作で髪をかき回していて気づいていないようだ。
「リリシアのことだからこうやって情が湧くと思ったよ。まあ、それがステラナのことを支える上でいいほうに作用してくれればとも思ったが……まさかそんなことを言い出すなんて」
呆れと心配を混ぜたような声がつらつらと吐き出される。
「お前は割り切れない性格だから同情に引きずられているんだ。そういった王族らしからぬ非情になりきれないところが、父上も僕も心配だよ」
ふと持ち上がった兄の目は、リリシアを認めて遠慮がちに微笑んだ。
――ああ、またあの目だわ。
ぐっと喉が締まるような息苦しさを覚えた。
小さい子どもを危険から遠ざけるような善意に溢れた目だ。それがなによりリリシアを苦しめる。
「許可をいただけるまで、わたくしはここから動きません」
「……リリシア」
「もちろん情報が漏れるようなことはしません。例え帰還方法があったとして、それをお兄様たちの許可もなく実行することもしません。なによりヒカリはわたくしたちを救おうと浄化に積極的です。調べるだけなら問題はないかと思います」
ここまで強く意見を押し通そうとしたのは初めてだ。反抗するように言葉を並べるのも。
どうしてここまで必死になれるのかしら――そう疑念が過り、けれどすぐにあの子のためだからだと強く思った。
(お兄様の言うように同情や憐れみよ。分かってる)
それはリリシア自身が一番理解していた。ラスティスのように、その同情とも一線を引くことが正しいのだろう。だが、引く気はなかった。
早口で詰め寄るリリシアに、ラスティスが一度息をついてから「分かった」と頷いた。
「父上や母上には話を通す。反対されたら諦めるんだ――分かったね?」
「……はい」
「グラヴァスに要請も出してはみるが、あまり期待しすぎないように」
「ありがとうございます。お兄様」
頭を深く下げて執務室を後にする。部屋から出る直前、ラスティスに呼び止められた。
「今さらだけれど、あまりあの子に心を砕きすぎないようにな」
「――はい」
頷いて部屋を出たものの、ラスティスの言うように本当に今更な話だった。
自分がヒカリに対して強い庇護欲を持っていることは自覚している。幼い子どもにするように抱きかかえてこの腕の中で守ってあげたいと思っている。泣き顔や苦しむ顔ばかり見ているからだろうか。
(そういえばステラナの付き添いは王妃様がわたくしに任せるとおっしゃったようだけれど……)
どうしてだろう。昔はなにもするなと言っていたのに。
てっきり出しゃばった真似をして不興を買ってるんじゃないかと思っていたからほっとした。けれど、理由が分からないのももやもやして落ち着かない。
(嫌っているだろうわたくしを、重要人物であるステラナに……?)
しかも王妃から言い出したというのか。
もしかしてそんなに嫌われていないのかも。そんな都合のいい妄想が過って慌てて振り切った。
「しばらくは書庫に通って文献と睨み合いね」
兄に追いつきたいと様々な文献を手当たり次第に読み漁っていた頃を思い出して苦笑する。あの頃はとにかく必死で少しでも多く知識を詰め込まなければいけないと思っていた。そんな調子で上手く行くはずがなく、ただ文字を目でなぞるだけで大した身にはならなかった。
あの頃は追い詰めた末の行動で、書庫まで行く足取りは重かったが今のリリシアは違った。
「自分にできることがあるって、こんなに気分がいいのね」
自然と背筋が伸びるような生き生きとした感覚だ。
そんな心打ちに身を預けるように、リリシアは意気揚々と足を進めた。
◇
陽が傾き始めたころ。
他国との使者の謁見を終えたティグラとリリシュテルの元を、ラスティスは訪れていた。
「リリシアが書庫の鍵の使用を求めてきました。それと、出来るならグラヴァスへステラナの情報提供を願い出たいと」
「たしかヒカリは力の使用で悩んでいたそうだな。分かった。グラヴァスには私から書状を用意しよう」
ティグラの言葉にラスティスが一度頭を下げて礼を言う。
頭を持ち上げたラスティスはどこか強張った面持ちであった。気づいたリリシュテルが「ほかにもなにかあるの」と訊ねれば、ラスティスは一度謁見室の中を見渡して人の目や耳がないことを確認してから本題に入った。
「リリシアはヒカリの元の世界への帰還方法を探したいようです」
「なに?」
さすがのティグラも動揺を示す。それはそうだ。自分の娘が世間から裏切り者と呼ばれるような行いに手を出そうとしているのだ。一方、リリシュテルの表情は相変わらず揺れることを知らない水面のように静かだ。
「あくまでヒカリの精神的負担を取るためで、例え発見したとしても私たちの許可なく実行することはないと約束しました」
生真面目で責任感の強いリリシアのことだ。口約束だけでも十分信用には値する。
それが分かっているからか、ティグラも渋い顔はしつつも強い言葉で反対はしなかった。
「いいじゃないですか。好きにさせれば。あの子だって大々的に言いはしないでしょう」
「母上っ!」
すました顔で聞いていた彼女は興味はないとばかりに立ち上がってしまう。その背中をラスティスは慌てて呼び止めた。
「どうしてリリシアをステラナにつけることにしたのですか? あの子が王族に似合わず情に深すぎることは十分ご承知のはずです。それなのになぜ……!」
感情にものを言わせて訴えるなど、リリシアの前では決して見せない姿だ。
だが、このままでは妹の身に危険が及ぶかもしれない。そう不安がるラスティスなど目もくれず、リリシュテルは淡々と背中を向けたまま答えた。
「今から付き添いを変えれば、ステラナの精神的支柱が崩れます。なにより、私たちが言って聞くような子じゃないでしょう」
「ですが、今までそうしてきたように言って聞かせればきっとリリシアも――」
言いかけて、ラスティスは言葉をのんだ。壇上の上座から見下ろす母が、冷笑するように自分を見下ろしていたからだ。
まるで分かっていない。そう言われている気分になった。
ゾクリと背筋が冷えるような感覚で立ち竦む。
ラスティスにとってリリシュテルは母と言うよりは「王妃」という人間だった。
愛されていないわけではない。ただ、母が一等大事にしている人間はすでに決まっていて、その人の前以外ではリリシュテルはいつだって冷徹で威厳ある国母の顔しか見せないのだ。
リリシュテルはこれ以上話はないとばかりに去ってしまった。その背中をティグラは気遣うように眺め、しかし声をかけることはない。
今日も今日とて暗い色でまとめ上げられたドレスを、ラスティスは苦い目で見送った。