七話
「私って帰れるんですか……?」
さっきまでの悲痛さが霧散し、きょとりとあどけない瞳が見返してくる。リリシアは強く言い切った手前少し罪悪感を覚えて慌てた。
「ステラナの帰還について、今のところこのセンフィール王国には情報がないわ」
なんせセンフィールにステラナが降臨したのは数百年前のたった一度だけ。そのときの情報しかない。
だが、ステラナの情報を持つのはなにもセンフィールだけでは無い。他国に情報の要請をだせば、なにか手がかりが得られるかもしれない。
ステラナに関する情報は各国ともに重要機密であり外交においても重きをおかれるものだ。おいそれと教えてはくれないだろうが、現在センフィールにはヒカリがいる。
(なんだか餌にするようで申し訳ないけれど……)
とくにヒカリの先代であるステラナが降臨したグラヴァス国は、センフィールとは友好的であるし、王族含め穏やかな人柄が多く争いは好まない。
今のヒカリの現状を話し、浄化のためといって助力を申し出れば飲んでくれる可能性は高い。
「他の国の情報が手に入らないかお兄様に聞いてみるわ。今手元にあるものには帰還出来ないと明言しているものはなかったし、なにか手がかりがあるかもしれない。少し待っていてくれる?」
もちろん無駄な期待になってしまうかもしれない。いや、その確率がずっと高い。そのことも合わせて告げれば、ヒカリは泣きながら顔を綻ばせた。そして隠すようにリリシアの胸元にぐりぐりと顔を押し付けた。
「待ってます。リリシアさんが見つけてくれるまでずっと」
「……期待させるだけになったらごめんなさいね」
「それでもいいです。リリシアさんだけは、私の味方なんだって分かったから。だからもう大丈夫です」
すんとヒカリが赤くなった鼻をすすりながら笑った。
リリシアは腕を伸ばし、サイドチェアにかけていたガウンのポケットからハンカチを出して涙の跡を拭いてあげた。
綺麗になった顔でご機嫌に笑ったヒカリは、うつ伏せで枕を抱き込むように横になった。
「……私、リリシアさんみたいなお姉ちゃんが欲しかったなあ」
「わたくしが?」
なんとなく真似して同じ体勢を取ってみる。腹這いになるのは初めてじゃないだろうか。少しお腹が苦しい気もするが、柔らかい枕に顔を預けるとこれはこれで気持ちがいい。
「私ずっとお兄ちゃんじゃなくてお姉ちゃんが欲しかったんです」
「お兄様がいらっしゃるの?」
「います。がさつで恩着せがましい兄が。だから優しいお姉ちゃんが欲しかったんです」
兄を語るヒカリはぐっと苦くしかめられた顔をしている。だが、それがリリシアには余計に気安い遠慮のない関係に見えた。
「まあ、お兄ちゃんも頭は良かったから、勉強教えてくれたりはしましたけど……そこだけはいいところだったかも」
「ふふ、仲がいいのね」
「たしかに悪くはなかったと思います……でも、五つ下の妹に勉強教えた対価でお菓子をせびるような人だったしなあ。せっかく買ったのに渡しそびれちゃったや」
こんなことになるならさっさと渡すんだった。
不意に淋しさを映した瞳が伏せられた。
独り言のように小さく落ちた言葉が、ツキンとリリシアの胸に冷たく刺さる。ごめんなさい、と飛び出そうになった言葉をすんでのところで飲み込んだ。
ここでリリシアが謝ったりしたら、きっとヒカリは慰めようとしてくれるだろう。一番心労を抱えているのは彼女なのに、そんなことをさせるわけにはいかないと耐える。
「前にリリシアさんに慰めてもらった後も、お兄ちゃんのことを思い出したんです。なにもしないで弱音だけ言ってもしょうがないから、とりあえず出来ることから取りかかれって。そのときは勉強だったけど、今も同じかなって思って、とりあえず力があるならやってみようって思ったんです」
だからあんなに明るくかったのかと、リリシアはあのときのヒカリの前向きさを思い出して納得した。同時に、そうやって悲嘆し続けずに前を向く彼女の強さが眩しかった。
(出来ることから、か……)
昔はリリシアもそうして頑張っていたはずだ。
兄のように出来ないのなら学べばいい。そうして頑張っていけば追いつけるはずだとそう信じていた。
(いつから辞めてしまったのかしら)
もう覚えてもいない。なにがきっかけだったかも分からない。ただ、自分がなにをしても父や兄がリリシアを見る目は変わらなくて、期待してくれるどころかハラハラした落ち着かない瞳で追いかけられる度に、ああ自分じゃダメなんだと思い知った。
(王妃様は王妃様で、わたくしのことはあまり目に入れたくないようだし……)
王女であるはずのリリシアはいつだって遠くに追いやられて、大変そうな家族を見ているだけしか出来ない。
「リリシアさんもラスティスさんとは仲がいいですよね」
私のお兄ちゃんもあれぐらいかっこよかったらなあ、とぼやく言葉に、リリシアは微苦笑を返す。
「お兄様が優しいからわたくしのことを受け入れてくれるのよ……でないと、平民の血が混じったわたくしがあんなふうに言葉を交わすことは出来ないわ」
「平民……? でも、王妃様も偉い貴族の出だって聞きましたけど……」
訝しむヒカリはゴルスタンの授業をよく聞いているようだ。最近ではセンフィール国内の有力貴族を学んでいると聞く。
王妃リリシュテルの生家は王家に次ぐ権力を持つ公爵家だ。きっといの一番に覚えさせられたのだろう。
「わたくしは王妃様の子どもではないのよ。お母様は平民の出で、たまたまリリシュテル様の目に留まって侍女として王宮に迎えられたの。そのときにお父様と知り合ったのか側妃となってわたくしを生んだのよ」
「じゃあ、その、リリシアさんのお母さんは、いま……」
おずおずと伺う瞳はもう察しがついているのだろう。少し気が咎めた様子のヒカリに頷いて肯定を示した。
「わたくしを無事に出産したもののその後は体調が回復しなくて……数年の療養を経て亡くなったわ」
「ごめんなさい。私ったらなにも知らずに無遠慮に訊いたりして……」
「ずっと昔のことだから気にしなくていいのよ。お母様との思い出だって、もうほとんど覚えていないもの」
いつだって母――アリシアは寝台の上で横になってばかりだったから、リリシアは乳母に育て上げられたのだ。母の腕の温もりというものはついぞ知らずじまいだ。
遊んだ記憶も、一緒に食事をした記憶もない。けれど、最後に頭を撫でられたことだけはよく覚えていた。
弱々しい手だった。力が入らず震えた手を伸ばし、アリシアはまだ五つになったばかりのリリシアの頭を撫でて薄く微笑んでいた。
――王妃様の言うことを聞いて、立派な王女様になってね。
それが最後の言葉だった。
母を亡くしたショックでか、リリシアはそのあとすぐに高熱を出して一週間ほど寝込んでいた。その間に母の葬儀は終わり、気づけばリリシアは一人になっていた。
「お母様はわたくしが立派な王女になることを望んでいたわ。けれど、やっぱり側妃の子というのは嫌われてしまうのか、リリシュテル様はわたくしになにもするなとおっしゃったわ」
「そんな……ひどいです!」
「仕方がないわ。あの方の立場を考えれば、王妃である自分がいるのにお父様が平民の女を召し上げられたんだもの。気に入らなくて当然よ」
体調が回復し、母の遺言通りに頑張ろうと意気込んだリリシアは、意を決してリリシュテルの元を訪れていた。
今考えれば事前に伺いも立てずに行ったって王妃である忙しいあの方が会えるはずがないと分かる。が、そのころのリリシアは子どもらしく無鉄砲だったので、堂々とリリシュテルを訪ねたのだ。
さすがに子どもを追い返すのは忍びなかったのか、リリシュテルは会ってくれたものの、開口一番に「立派な王女になるにはどうしたらいいですか」と宣ったリリシアをしばらく淀んだ眼で見下ろし、ため息交じりに「なにもしなくていいわ」と呟いたのだ。
今思い返せば彼女が疲れていたのだと分かる。顔色は悪かったし、目の下には濃い隈があった。そんななかで会った平民の血を引く王女が、いきなりそんなことを訊ねてきたら失望するのもよく分かる。
いっそ冷たく叱りつけられなかったのが不思議なほどだ。
「本当はね、わたくしもお兄様みたいに国のために働きたいの。お母様の遺言だからってだけじゃなくて、わたくしがただみんなの役に立ちたいから。同じように国のために頑張りたいの。でも、わたくしがなにかすればお兄様やお父様に逆に心労をかけて負担になってしまうから……だから、もうなにもしないことにしたの」
言いながら、リリシアは笑った。諦めることに慣れてしまった、もの悲しさが滲んだ顔で。
「……リリシアさんは、家族のことが大好きなんですね」
「そうね。――好きよ。国のために頑張るお父様も、お兄様も……それに、王妃様も凜々しくてかっこよくて、大好き」
ヒカリに釣られて口にしたはずだったのに、言葉にした瞬間それは思いのほかリリシアの心に馴染んだ。
ずっと押し殺して固まっていた心の奥から、柔らかい温もりを見つけ出したような気分だった。
(そうよ。好きなのよ……わたくしはみんなのことが、家族が好きだから役に立ちたかったの)
一番大事な気持ちだったはずなのに、どうして忘れてしまっていたんだろう。
でも、なくしてしまった大事なものは、今手元に帰ってきてくれた。
胸に宿る温かさを包むようにリリシアは枕を抱き寄せた。そしてふと隣で辛そうに俯くヒカリを見た。
「ヒカリ。ありがとう」
あなたことは、わたくしが必ず元の世界に戻してみせるわ。例えどれだけ時間がかかったとしても。
自然と微笑みながら、柔らかい表情の裏でリリシアは決意を固めていた。
当のヒカリは、はにかんだリリシアをまるで見入るようにその小さくなった瞳孔でじっと映していた。