六話
ヒカリがゴルスタンに初めて講義を受けた日からすでに二週間が経った。
リリシアは変わらずヒカリのそばで彼女の生活のサポートをしていた。
といっても、すでにこちらの生活に慣れ始めているヒカリへのサポートなどほとんどない。彼女はわからないことがあればすぐにゴルスタンやリリシアたち周囲の者を頼るし、明るく謙虚な性格で使用人たちからの評判もめでたい。
それでもなぜリリシアがそばにいるのかと言えば、ひとえにヒカリが不安そうにするからである。
雛鳥の刷り込みかな、とラスティスはどこか微笑ましそうに、そしてからかいまじりに言った。
ヒカリは午前はゴルスタンからの講義で、午後は淀みの浄化訓練を行っている。
淀みによって著しく枯れかけた草花は研究のために一部を王都にある研究機関に持ち帰って来ている。
それを部分的にヒカリの訓練に当てているのだ。
「うぅ~~……ダメ! 出来ない!」
ローテーブルの上にはプランターごと包んだ大きなガラスの箱が。それに向けて両の手のひらを向けて唸っていたヒカリは、息も止めていたのかプハッと大きく呼吸をすると同時にがっくりと項垂れた。
「どうやったら浄化なんて出来るようになるんだろう」
独りごちた彼女はすぐに起き上がると背後にいたレトランに訊ねた。
「レトランさんはどうやって火をつけてるんですか?」
「自分の中を巡るルプを一カ所に凝縮するようなイメージ――でしょうか」
「ルプシャールは自分の中のルプなら感知できるんですか?」
「漠然としたものにはなりますが、なんとなくならば可能です」
「そっか……凝縮か。私の場合はここにあるルプを引き剥がすようなイメージかなあ……」
気を取り直したヒカリは今度は前のめりになってプランターを真上から見下ろす。両手の指先でなにかを摘まむ動作を繰り返したが、数分で力尽きたようにソファに倒れ込んだ。
「ダメ……ちまちました作業って苦手なんだった。これすっごく時間かかるやつだ」
リリシアたちが見ているだけでは分からない疲労があるのだろう。手をかざしているだけに見えるヒカリは、いつも時間が経つごとに疲労感を見せ、呼吸が乱れている。今日もそろそろ止めたほうが良さそうだ。
「ヒカリ。今日はそろそろ休みましょう。夕飯ももうすぐ準備できると思いますから」
「リリシアさん……はい。そうします」
悔しそうではあるが最近は粘らずに素直に作業をやめるようになった。始めたてのころは「大丈夫です!」「まだ出来ます!」と振り切っては結局ベッドに倒れ込む羽目になっていたので反省したのだろう。それとも業を煮やしたリリシアが頑として中断させるようになったから諦めたのか。
理由はどうあれ、ちゃんと身体を休めるようになってくれたのはありがたいことだ。
イリナは厨房に確認してくるついでに気晴らしの紅茶を持ってきてくれるらしい。護衛のレトランは部屋の前で警護しているからと外に出た。
異性の自分がいてはヒカリがくつろげないという配慮だろう。
「ヒカリ、あなたは毎日頑張ってるわ。むしろ頑張りすぎなぐらいよ。そう落ち込まないで」
丸くなった背中を撫でる。ゆっくりと持ち上がった瞳が、上目遣いにリリシアをひたと見た。
「リリシアさん」
「なあに?」
「今日、一緒に寝てくれたりしませんか……?」
おずおずとした申し出に目をしばたたく。遅れて理解したリリシアは、くすりと微笑んで「ええ」と頷いた。
夕飯や湯浴みも終えた二人は、ヒカリの寝室にある大きなベッドで横になっていた。
やっと寝静まり始めた城内にはまだ人の気配がかすかに動いているが、それでも賓客用に誂えられた部屋までは届かない。
明かりを消してから並んで横になり、リリシアはしばらくのあいだヒカリからのアクションを待っていた。
てっきり話したいことでもあったと思ったのだが、静寂ばかりが過ぎていく。
ここは自分から声をかけるべきかと思ったとき――。
「私って、もう元の世界には戻れないんですよね」
ヒカリが呟いた言葉に息をのんで振り向いた。いったい誰が彼女の耳に入れたのか。
よほどリリシアが怖い顔をしていたのだろう。ヒカリは苦笑して怒らないで欲しいと宥めてきた。
「私がゴルスタン先生に聞いたんです。だから先生は悪くありません」
横になって向き合いながら、伺うように恐る恐る見てくるものだからリリシアも顔を緩めた。
そうだ。遅かれ早かれヒカリは誰かに問いかけたはず。むしろ余計な不安を煽ったりしないゴルスタンで良かったと思おう。
「……いつか言おうとは思ってたの。けれど、これを伝えたら、あなたがまた泣いてしまうんじゃないかって思って」
ステラナの降臨は直近でも二百年前のことで、その前も百年単位で間隔がある。
まずモデルケースの少なさと文献の古さが懸念点ではあるが、ステラナが帰還できるとしたら大々的に知られていてもおかしくはない。だが、あいにくとそういった話は一切聞いたことがなかった。
「分かってます。私のこと心配してくれたんですよね。私も落ち込んだけど、ちゃんと切り替えられたと思ってたんです」
でも、とヒカリは身体を小さくして続けた。
「あの夜、リリシアさんに励ましてもらってからは、とりあえず試してみようって、それから考えてもいいかなあなんて気楽に思ってたんです。けど、結果は全然で、浄化なんて全く出来ない」
失敗する度に『帰れない』という言葉が頭を過るのだとヒカリは教えてくれた。
「怖いんです。ここでずっと生活しなきゃいけなくて、でもステラナなのに浄化も出来ない私のことをみんなどんなふうに思うだろうって。ガッカリするかな。私じゃなくて他の人だったらよかったとか思うかなって」
「ヒカリ……」
心細そうな声で吐露される彼女の心情に、思わず胸が詰まった。そっと伸ばした手で横髪を耳にかけてやり、彼女の頬にピタリと手のひらを押し当てる。すると、リリシアの体温を求めるようにすり寄ってきた。
「なにより悔しいんです。リリシアさんはもちろんゴルスタン先生もレトランさんもみんな優しくて良い人ばっかりで……そんなみんなのことを助けたいし役に立ちたいって思うのに、上手くいかなくてすごく悔しくて……すっごく苦しくなっちゃって……」
ヒカリの震えた両手が、頬に触れたリリシアの手を強く握りしめた。冷えた指先が彼女の心情をありありと語っているようで、リリシアはシーツの上を身を滑らせて近づくと、竦んだ肩を抱き寄せた。
受け入れられるのを待っていたように、ヒカリの震えた手が強くリリシアの身体に回り込んだ。
「私、本当にステラナなんですか……?」
胸元で丸くなった彼女からの慟哭に、リリシアは抱きしめた手を強くする。
「あなたはステラナよ。たしかにこの目で見たわ。輝かしい光の粒からあなたが現れてくるのを見たもの。わたくしも、お兄様たちも」
あの幻想的で美しい光景は、リリシアの碧眼に焼き付いていた。絶対に見間違いなんかじゃない。
「それにわたくしは今の言葉を聞いて、あなたで良かったって思ってる。あなたが人の役に立ちたいって思える人で、なにより助けになれなくて苦しいって思ってしまうような、そんな繊細で思いやりに溢れたあなたで良かった。わたくしたちのもとに来てくれたのが、テンジョウ・ヒカリで良かったって、そう思ったの」
きっとそんなヒカリだからこそ選ばれたのだとリリシアは強く思う。
「わたくしは知ってるわ。あなたが優しい子だってことを。こうしてわたくしたちのために心苦しく胸を痛めてくれる子だってことも……わたくしは例えあなたが浄化が出来なかったとしても、嫌いにならないし残念だとも思わないわ」
震える少女を抱きしめながら断言する。すると、泣き声がさらに大きくなった。
背中に回った腕が痛いほどにリリシアを求めていた。応えるようにヒカリの背中を撫でながら、リリシアの胸にはむくむくとある想いが膨らんでいた。きっとこれは庇護欲とかそういうものだ。
「ヒカリ。わたくしが見つけてあげるわ」
「ぐず。え……?」
鼻をすすりながら、戸惑った目が見上げてくる。
「わたくしが、あなたを元の世界に戻してみせるわ」
濡れた瞳を見返して、リリシアはそう決意を語った。