地上に残された星の片割れ
喪失感と絶望だけが胸を占めていた、リリシュテルの人生において最も暗黒な時期。
日付さえも分からないほど頭が働かず、初めて役目を放棄して部屋に閉じこもった。
そんなリリシュテルの胸の内は、亡くなった彼女とともに連れ立ってしまったようで空っぽだった。
あの子が訪ねてきたのはそんなときだった。
「立派な王女になるにはどうしたらいいですか」
少し前まで高熱を出して伏せっていたのに、そんなことなかったようにケロッとした顔で現れた。
幼く、小さく、リリシュテルへの怯えを懸命に耐えているのに、その瞳だけは強い意志を持ってまっすぐに射抜いてくる。そんなアリシアにそっくりな、彼女の娘。
抱きしめたい愛おしさと突き放したい悲しみが、瞬時にリリシュテルの全身を駆け巡った。
(この子は今、なんて……?)
頭の隅でひっきりなしに警告が出ていた。
――あなたの隣に立てるように、みんなに認めてもらえるように頑張ります。
そう笑った彼女は、最後にどうなった?
思い出す。口さがない言葉も跳ね除けて笑う顔を。そばにいたいのだと触れてきた甘える手を。
やつれて細くなった身体を。力なく横たわる死に姿を。
冷たい衝動が心臓を痛いほど突き動かす。これ以上怖がらせないよう、動揺を抑え込んで震えた息を吐いた。
固唾を飲んで待つ少女に、リリシュテルは言った。
「おまえは何もしなくていいのよ」
この子まで失ったら、自分はきっともう立てない。そんな確かな予感を、リリシュテルはひしひしと感じてしまったのだ。
自分が弱いばかりに、リリシアを日陰者にするしかない。けれど、その代わりに絶対にこの子は失わない。
そう、決意した――はずだったのに。
「わたくしが介助に向かってもよろしいでしょうか」
本人も無意識のうちに飛び出ただろう言葉とともにリリシュテルの隣を若い少女が駆けて行った。
その姿は彼女の母によく似ていた。
困っている人を放っておけず、頭より先に身体が動いてしまう子。
(アリシア……やっぱり人は変えられないのね)
切なく甘く響く胸の痛みとかすかな悲鳴を静かに飲み込みながら、リリシュテルは痛感してしまった。
どれだけ遠ざけようと、日陰へ追いやろうと、人間の本質は変えられはしない。
そんな彼女の内心の動揺に気づくものはいなかった。
並び立つ国王は気づいたところで彼女へ届く言葉を持たず、唯一内心を見ることを許された女はすでに死んでいた。
静かに揺れる瞳の先で、息も絶え絶えな真っ白な顔で少女が起き上がる。奇しくもその少女はリリシュテルの愛した女と同じ黒い髪を持っていた。
「……きれい……ほし、みたい」
――まるでお星様みたいだなって思ったんです。
女の陽炎が笑う。
目の奥に感じた熱さを閉じ込めるように強く瞳を閉じたリリシュテルの脳裏には、懐かしい記憶が瞬きの間に過ぎていった。
◇
「きみも少しは息抜きをしないと。そんなんじゃ疲れてしまうだろう」
気遣わしげな声を置いて、王位を継いだばかりのティグラは足早に執務室へと戻って行った。
リリシュテルはついて行くこともできず、廊下に立ち尽くしてしまった。
なんせ彼のその言葉は、リリシュテルにとって無縁の言葉だったのだから。
(疲れる……?)
それはなんだろう。
この息苦しさのことか。胸の奥の軋むこの感覚か。どこかへ逃げたいと、走り出したいと思うこの衝動のことか。
身体の奥でなにか昏いものが渦巻く。それはリリシュテルの人生で何度も感じたことのあるものだったが、そんなはっきりしない感情のままに動くことは許されてこなかった。
いつだってその感情の根底にたどり着く前に目をそらして奥の奥に押し込むしか出来なかった。このときだってリリシュテルはそうするつもりだった。
それなのに気づけばお城を飛び出して下町まで出てきてしまっていたのだ。
(私ったらなにをしてるのかしら……)
賑わう通りから離れた小道の最中でリリシュテルは立ち止まった。走るということを知らない令嬢の身体は、この短距離でも息が上がってしまう。
壁に手をつき、どうにか息を整える。
チラリと後ろを見たが、付き添いの侍女も騎士の姿もない。
一人だ。そう思うとほっとした。一方でなにをしてるのかと理性が責め立ててくる。
今の自分は正気じゃない。分かっているのに道を戻る気にはなれなかった。
(城下の視察だなんて名目で急に外出したりして……)
だが、それだけならばマシだった。こうして王妃になったばかりの女が侍女も騎士も振り払って一人になるぐらいならば。
「……どうしよう」
戻らないといけないのなんてわかりきっている。それなのに身体が動かない。石を飲み込んだように胃が重たい。足が棒のようだ。
――戻りたくない。
身体が、心がそう訴えている。
しでかしてしまった事実への失望と理性と反して動けない身体。リリシュテルは自分がバラバラになってしまったように感じた。
とうとう膝をついて自分を抱きしめるように丸くなる。自分が息が出来ているのか分からない。
視界が暗くなり始めた頃、不意に柔らかな女の声が降ってきた。
「大丈夫ですか!? まあ、お顔が真っ青ですよ!」
ためらいなく膝をついて顔をのぞき込んできた女――それがアリシアだった。
アリシアはリリシュテルを抱えるように支えてすぐそこだという自分の家に運んでくれた。
「うちは宿をやってるんです。今日はお部屋も空いてますし気にせずに休んでくださいね」
リリシュテルは変装してるとはいえ箱入りの令嬢だ。ちゃんと見れば訳ありの貴族だと分かるだろうにアリシアはなにも訊かずに部屋に招き入れてくれた。
暑苦しいフードを取り払い、服を緩められた。リリシュテルは横になってされるがままになっていた。
さすがに目が離せないと思ったのか。それとも本当に親切心からか「今日はお客さんが少ないから暇だったんです」なんて笑って看病をしてくれた。
なんの打算もない笑顔。見定めるような視線はなく、ただただ目の前の弱った女への心配と親切だけが載せられた瞳。
年の変わらないだろうアリシアに、リリシュテルは気づけば縋るように吐露していた。
リリシュテルの不幸は、きっと生まれたときから決まっていたのだと思う。
なんせ国王夫妻の第一子であるティグラと同じ日に生まれてしまったのだから。
かたや将来の国王となる男児で、かたや国内でも誉れ高い公爵家の長女。
特別感を見いだすのは必然で、それは六歳のころに婚約という形で確実なものとなった。
リリシュテルは生まれた日から将来の国母となることを期待されていたのだ。
子どもであるのに甘えることは許されず、少しの我儘も自我も許されなかった。両親はもちろん周囲の大人たちには、幼く小さいリリシュテルではなく、王妃の位につく女が見えていたんだろう。
「言われたとおりに生きてきたわ。国のため、国民のためを常に考えて反抗したことだって、そんなふうに思うことだってなかった……いえ、ただ考えないようにしていただけかもしれない」
はじめは驚いていたアリシアはいつしか真剣な目を向けていた。木張りの床は冷たいだろうに膝をついて、横になったリリシュテルの手を優しく包んでくれた。
こんなふうに誰かに接してもらったことはない。なんせ王妃に気軽に触れていい人間など王以外に存在しない。リリシュテルは両親の温もりも知らずに育ってきた。
「ずっと息が苦しいの。胸の奥で軋むような音がするの。どれだけ貴族としての生き方を学んでも……心を強くする方法はだれも教えてくれなかったもの」
気づけばリリシュテルの碧い瞳からとめどなく涙が溢れていた。
(ああ、泣くなんてみっともない)
守らなければならない国民に手を握られ、こんなふうに弱音を吐くなどあってはならない。
――なぜ自分は強くなれないのだろう。
ずっとずっと胸の隅に押しやっていた苦悩を、リリシュテルは初めて手元に引っ張り出してしまった。
とうとう直面してしまった自分の弱さに打ちひしがれていると、不意に頬を撫でられた。
「強くならないとダメですか?」
顔を上げた先では穏やかな顔をしたアリシアがいた。アリシアは歌うように続ける。
「みんな出来ることは違います。強い心を持って全然へこたれない人もいるかもしれません。でも、貴族も平民も同じ人間ですから。弱くたっていいと思います。弱いところをお互いに受け入れて支えていけばいいんです」
そうしたらみんな大丈夫になれるでしょう?
すべてを受け入れるような温かい視線が、リリシュテルの心に火を灯したようだった。
この瞳には、もしかしたら世界がとんでもなく綺麗で温かなものに見えているのかもしれない。そんな錯覚を見るほどに女の言葉も瞳も笑みも、なんの憂いも淀みもない美しいものだった。
そんな笑い顔で「弱くたっていいんですよ」とあやされ、髪を撫でられた瞬間、リリシュテルはアリシアと離れるという選択は持てなくなってしまったのだ。
◇
リリシュテルは自身の執務室で目を覚ました。
どうやらうたた寝をしてしまったらしい。座ったまま短い時間意識を飛ばして身体は少しばかり軋むようだった。
目の前には先ほどまで目を通していた他国からの書状がある。みな昨夜のステラナの降臨から我先にと送られてきたものだ。
(昨日久しぶりに思い出したりしたから夢にもみたのかしら)
王妃宮の侍女には定期的にリリシアの様子を見てくるように頼んである。最後に受けた報告では目覚めないステラナに付き添って自ら看病に当たっていると聞いた。
(……本当にアリシアにそっくりね)
初めて会った日のことを思い返して自然と笑みが浮かぶ。
あの日、アリシアはリリシュテル泣き止むまでずっとそばにいてくれて、最後には温かいミルクをくれた。後ろ髪引かれながらも王宮に戻ったリリシュテルは、その後も暇を見てはアリシアと彼女の両親が営む小さな宿を訪れた。
リリシュテルからすれば小さい部屋で、固いベッドに隣り合って座る時間はかけがえのないものだった。しかし、逢瀬が重なるにつれ人目についてしまったようで、貴族と懇意にしているとアリシアたちはよろしくない者に目をつけられて金を無心され、リリシュテルも生家の両親に知られて叱責を受けた。
いつになく意固地で言うことの聞かない娘に焦れた両親がアリシアに危害を加えそうだったので侍女として王宮に迎え入れたのだ。
そばにいてくれれば守れると思った。お金や食べることに苦労することはないし、下町で生きるよりはうんといい暮らしをさせてあげられる。よかれと思ってしたことだが、結果はこのありさまだ。
平民なのに王妃の侍女に召し上げられた女。そんなアリシアに対する周囲の視線はリリシュテルの想定よりもずっと冷たくひどいものだった。
特権意識の強い貴族令嬢たちからの差別や偏見、そして嫉妬。
きっとリリシュテルが知る以上にアリシアは辛い思いをしたことだろう。
それでも彼女は明るく笑っていた。こうして一緒にいられるようになって嬉しいと言っていた。今が一番幸せだと、そう微笑んでくれていた。
その表情が、瞳が、ときどき追い詰められたように昏く光ることを、リリシュテルは気づけなかったのだ。
なぜアリシアがティグラの子を産んだのかは分からない。
二人が懇意な仲だったなんてことはあり得ない。
妊娠したと聞いて初めて激昂してティグラにつかみかかったとき、彼がアリシアへ向ける瞳は決して愛するものを見る目ではなかった。
ティグラは紳士で思慮深い男だ。むやみやたらと女に手を出すことなんてあり得ない。ならばアリシアから持ちかけたのか? なんのために?
リリシュテルを裏切ることはない。ティグラに懸想したわけではないだろう。妃の地位や権威を欲したわけではないはずだ。そういった野心とは無縁の女だった。
どれだけ考えても答えはでない。アリシアも決して語りはしなかった。――ただ、死ぬ直前。眠ったリリシアを撫でながら彼女は泣いていた。泣いて、「罰が当たったの」と一言だけ言った。
その言葉の意味も、リリシュテルは知らない。疑問に思うことはあっても訊ねはしなかった。
愛した者が泣いているならば、抱きしめる以外にすることなどない。
例え時が戻ってもリリシュテルは問いかけるよりも早く彼女の痩せ細った身体を抱き寄せるだろう。
だって訊ねることにたいした意味などないのだから。
どんな答えが返ってきたところでアリシアへの愛情は変わらず、リリシアへ向ける慈しみの心が消えることなんてないのだから。
(しばらくは忙しくなりそうね)
時を追うごとに増えていく書状にため息が出る。だが、あの頃のような息苦しさも軋む音も聞こえない。
――初めて会ったときに私びっくりしたんですよ。暗い路地裏の陰でキラキラした人が倒れていて、まるでお星様みたいだなって思ったんです。
(私もあなたに慰められたとき、星のようだと思ったのよ)
脳裏に焼き付いたアリシアの記憶がリリシュテルを全ての苦痛を遠ざけてくれる。
ままならないのは彼女を失ったことによる悲しみだけ。
それでもリリシュテルは今日も彼女への愛を胸に王妃として、国母として生きていくのだ。アリシアの生まれ育った国を守るために。彼女の忘れ形見を守るために。
リリシュテルとアリシアのお話でした!
前から書きたい書きたいと思っていてようやく書けました。リリシュテル視点だとまだまだ謎が多いアリシアさん。いったいなにを考えていたのか……いつかティグラ視点やアリシア視点も書きたいなあと思います。
番外編までお付き合いいただきありがとうございました!




