知は力なり
知は力なり。
16世紀から17世紀にかけてのイングランドの哲学者フランシス・ベーコンの主張に基づく格言である。ラテン語では「scientia est potentia」、英語では「knowledge is power」・・・正確に日本語に訳すならば、「知識は力なり」だ。人間の知識と力は一致する、というのも、原因を知らなければ、結果を生み出すこともできないからだ 。全く以て同意である。
私は、見慣れない豪華絢爛な屋敷と無駄に容姿の良い婚約者を見て溜め息をついた。
閑話休題。
転生系、というジャンルがある。
転生したらRPGゲームの勇者になっていた、乙女ゲームの悪役令嬢になっていた、小説の登場人物になっていた____今や世界にはこんな面白い話がたくさん溢れている。現代社会を生きる多くの人間が目にしたことがあるのではないだろうか。
私はアニメや漫画をよく嗜んでいたから、こういった転生モノをよく読んでいたしアニメ化された推し作品もたくさんあった。転生モノの醍醐味は様々だ。異世界という舞台設定とそれに伴う非日常、魅力的なキャラクター・・・何よりの醍醐味は、やはり主人公が「転生先の世界を知っている」ことだろう。
私が読んできた作品の多くは、転生した主人公が転生先の世界のことを熟知していた。自身がプレイしていたゲームの世界、好きだった小説の世界・・・たとえその世界の悪役に生まれてしまったとしても、前知識があるというのは主人公にとって大きな利点だ。だからこそ転生系は主人公チートや主人公愛されになりやすいのだろう。だって、そんな大きな利点があれば無双するのも容易いから。まず、ジャンルが分かっているだけでもかなり強い。舞台が乙女ゲームなのか、RPGゲームなのかで身の振り方は大きく変わってくる。
長々と喋って何が言いたいかって?
要するに、転生先が勇者だろうがラスボスだろうが悪役令嬢だろうがモブだろうが、転生先の世界を知ってるっていうのはその時点でチートなのだ。知識は力なり、ということである。
ここで軽く自己紹介しよう。
私は社会人5年目の日本人女性で、割と順風満帆な生活を送っていた。有名大学を卒業し、外資系企業に就職した私のキャリアは、輝かしい未来が約束されていた。優秀な同僚、やり甲斐のある仕事、評価される喜び・・・恋人はいなかったけれど、そもそも私は独身主義で、仕事さえ充実していればそれで良かった。
つまり私はこの人生になんの不満も無かった。私はファンタジー作品を読むのもゲームをするのも好きだが、ファンタジーな世界に生まれたいと思ったことなんて一度も無い。現代社会は素晴らしい。特に日本は戦争もなく、身分差別もなく、男女差別も昔に比べれば大分改善され、なにより衛生的だ。健康で文化的な最低限度・・・いや、エリートの私は最高の生活を送っていた。
それが、ある日目を覚ました時に全て奪われた時の憤りといったら。
最初は理解できなかった。だって私は転生系でお馴染みの交通事故に遭った訳でもなく、「来世はファンタジー小説のチート主人公にしてくださーい!」なんて馬鹿馬鹿しいお願いをした訳でもない。慎ましく模範的な社会人である私は、昨日も仕事に勤しみ、終電を逃してタクシーで自宅に帰り、軽く夕食を取った後風呂に入って寝た。ここに死ぬ要素なんて微塵も無い筈だ。
だから、明晰夢の類いがと思った。そういえば最近、ヨーロッパに旅行したいと思っていたし、そんな願望がこの夢を見せたのだろう。ベルサイユのような豪奢な屋敷の内装は私の心を楽しませた__それも数時間で終わったが。私の優秀な脳味噌は数時間もすればこれが夢ではなく、現実なのだと理解してしまった。
これが話題の転生というやつか?まったく笑えない冗談だ。私には死んだ覚えなんてない。
「まさか、過労死か・・・?」
己の口から零れた声は聞き馴染みの無いもので。部屋に置いてある大きな鏡を見れば、そこにいるのは知らない女。
鏡からこちらを見つめる女は、とても綺麗な容姿をしていた。白銀の長く艶やかな髪に、切れ長の金色の瞳。鼻は形が整っていて、唇は花びらのよう。
「白い髪・・・アルビノか?いやアルビノなら虹彩が金色はあり得ないか・・・」
ファンタジー補正というやつなのかもしれない。そもそもこの世界にアルビノなんて概念があるかも分からないし。
にしても、私は一体何者なんだ。部屋の内装からしておそらく身分は低くないのだろう。そしてこの世界の時代設定は中世ヨーロッパといったところか?部屋の内装に目を凝らす。曲線がかった大きな窓。過剰なほど豪華壮麗な装飾・彫刻。外装は見られていないから確信は持てないが、バロック様式でほぼ間違いないだろう。まあ、中世ヨーロッパを舞台に設定する人間の大半がバロック様式を好む気がするし、バロック様式だからといって何かこの世界の手がかりを掴めるとは限らないが。
そもそも、私は今この世界がよくある転生モノの異世界で、誰かの創作物が舞台だと仮定しているが、その前提が正しいのかも分からない。ただ少なくとも私の前世__まだ死んだと認めたくないが__と同じ世界線でないことは確かだ。白銀の髪に金色の瞳の人間なんて私の知っている世界に存在する訳がないから。
現時点で分かるのは、これが悪趣味な夢ではなく現実であること。そして私の知らない世界・・・異世界であること。
「まずは私の素性を知る必要があるな。」
私の愛する前世、現代社会ならばスマートフォンを見れば大体のことは把握できるが、十中八九この世界にそんなものは存在しないだろう。
「・・・手紙だな。」
手紙ならば、私のある程度の素性が分かる筈だ。幸い、部屋の窓に面して置かれたこれまた豪奢なテーブルに手紙がいくつか置いてあったので、遠慮無く拝見することにした。
・・・待て、私はそもそもこの世界の言語を理解できるのか?そこは転生補正でこの肉体が覚えていればいいが・・・そもそもこの肉体の本来の持ち主についても調べないといけないな。
テーブルに近づき手紙を手に取ると、宛名のところに『セレスティナ・ヘルツォーク・フォン・カイレドール』という名が書かれている。
もし私の前世の世界の知識が適用できるのなら、ヘルツォーク・・・ドイツ語で公爵位を示す単語と家門の出身地を示す「フォン」の前置詞から、私がカイレドール公爵家のセレスティナという人間であることがわかる。にしても、不思議な感覚だ。目にする言語はドイツ語と似た、しかし見知らぬ言語だが脳内には母語として自然に入ってくる。これが「身体が覚えている」というやつだな。
「言語からしても中世ヨーロッパを参考にしているのは間違いなさそうだな。」
ならば私が公爵家の人間だということも間違いないだろう。この転生は非常に不服だが、公爵家という身分を獲得したのは不幸中の幸いだ。おそらく忌々しき身分社会であるこの世界において、高い身分を持っておいて損は無い。まあ、革命寸前であれば話は変わってくるが。いずれにしても、私はこの世界について何も知らない。まずは自分のいる場所について知る必要がある。
窓の外に広がる空はまだ薄暗い。おそらく夜明け前といったところか。改めて豪華絢爛な部屋を見渡す。天蓋のついた大きな寝台の傍に置かれたミニテーブルの上にある、持ち手のついた小さなベル。おそらくこれを鳴らせば人が来るはずだ。ハンドベルの演奏用に置かれたものじゃないだろう。
少しの緊張を覚えながらベルを鳴らす。
ベルを鳴らしてすぐ、重厚なドアをノックする音がした。なるほど、常に部屋の外に待機しているということか。ご苦労なことだ。部屋に入るよう促すと、ドアを開けて1人の女が入ってくる。
「いかがされましたか、お嬢様。」
面白いほどに典型的なメイド服を着た女は、部屋に入るなり恭しく頭を下げた。侍女で間違いないだろう。侍女は急に呼び出されても動揺した様子はない。転生モノのお約束だと、それまで高熱や大怪我で生死を彷徨っていた肉体に転生したるするものがあるがが、侍女の様子を見るにそれは無さそうだ。この肉体の本来の持ち主は昨日まで普通に生活していたのだろう・・・私と同じように。この肉体の本来の持ち主に、少し同情が湧く。私達は二人とも突然死したのか。私達は少し似ているのかもしれない。
そういえば侍女は「お嬢様」と言った。ということは私は公爵家の令嬢ということだ。まあ、鏡で見た姿も若そうだったし公爵がロリコンでなければ公爵夫人ではないだろうとと思っていたが。
「突然呼び出してすまない。今は夜明けだな?」
「・・・はい。朝食の時間はもうしばらく後でございますが、今すぐ何か用意いたしましょうか。」
「ああ、それは必要ない。ただ、今日は体調が優れないから部屋で大人しくしていようと思う。ベッドで横になっているだけだと退屈だから、歴史書を数冊部屋に持ってきておいれくれないか。」
「かしこまりました。すぐに持って参ります。・・・・・・しかし、お嬢様。」
「ん?」
「本日はお昼に皇太子様がいらっしゃるご予定でしたが・・・」
「皇太子?」
嫌な予感がする。皇太子・・・ということは私がいる国は皇帝制、帝国か?いや、今はそれよりも重要なことがある。皇太子が、公爵家の令嬢に会いに来るだって?
「・・・皇太子殿下と私は、何か約束していたか?」
「ふふ、急にどうなさったのですか?」
侍女は少し可笑しそうに・・・それでいてどこか微笑ましげに私を見つめた。
「今日のお嬢様はやけに早起きなさったと思ったら口調もいつもとは違って・・・てっきり、今日皇太子殿下とお会いになるから楽しみで少し浮ついていらっしゃるのかと思っておりました。」
「楽しみだって?」
口調がおかしいとか言われたことも気になる。確かに私は前世から割と尊大な口調だと人に言われる方だったし(もちろん働いているときは社会人の鏡らしく丁寧な言葉遣いを心がけていたが)、女らしくはないだろう。貴族令嬢にあるまじき言葉遣いだったかもしれない・・・でも私だっていきなりまったく知らない世界に(おそらく)転生して動揺しているのだ、仕方ないだろう。
今は口調や振る舞いなんかよりも問題なことがある。皇太子と会うのを、私が楽しみにしていただと?
「ええ。それはそれは楽しみにしてらっしゃいました。今日のためにドレスも新調なさっていたではありませんか。」
侍女の言葉に、嫌な汗が背中から噴き出す。いや待て、まだ公爵令嬢の可愛らしい片想いで済んでいれば問題ない、対処できる。
「はは、そう指摘されると恥ずかしいな・・・まあ、片想いに暴走する若気の至りというか・・・」
「片想い?」
侍女はきょとんと首を傾げた。ああ、やめろ、まさか。
「皇太子殿下はお嬢様の婚約者ではありませんか。お嬢様がそんなことをおっしゃっては、公爵様が悲しみますよ。せっかく愛するお嬢様のお願いを聞いて、皇太子殿下との婚約を結んだのに。」
「・・・・・・最悪だ。」
「お嬢様?」
前言撤回だ。この身体の本来の持ち主よ、私はお前に同情なんてしないし共感なんて微塵も抱かない。独身主義者の私に、とんでもない爆弾を置いていってくれたな!この愚か者が!!