空色サイレンス
「さあ、あとは若いお二人で」
席について二十分で、初対面の男性と街中に放り出された。三十過ぎのこちらも四十前のあちらも見合い市場において若くはないと思うのだが、この言い回しはもはや定型文のようなものなのだろう。
「どうしましょう?」
「どうしましょうね」
どうやら相手にイニシアチブをとる気はないらしい。仕方がない。浮世の義理と諦めて、私は今日これからの半日を捨てることに決めた。
食事をして、場所を変えてコーヒーを飲んで、夜になる前に連絡先を交換することもなく別れた。
相手の名前すら知らずじまいだったことに、一人になってから気がついた。
そんな相手とばったり会ったからといって、運命を感じるような性格はしていない。かといって見知った相手に知らんふりもできず、私はベンチに座ってぼうっと夕空を眺めていたスーツ姿の男に軽く会釈をした。
「こんばんは」
「……ああ、どうも」
彼は私を見てもすぐには思い出せないようだった。失敗した。素通りすればよかった。
明るい内に仕事場を出た日は、運動がてら駅ひとつ分歩くことにしている。ここはそのちょうど中間にある公園だった。高台で海を一望できるこの場所は私のお気に入りで、翌日が休みの日はアルコールを一本空けて帰るのが秘かな楽しみだったりする。あいにく明日も仕事だし、鞄に酒はない。あったとしても、彼の前で飲むつもりもない。
見渡しても、ほかに空いているベンチはなかった。眩しそうに海を眺めている家族連れやカップルも立ち去りそうにない。仕方ない、帰るか。
もう一度会釈をして一歩踏み出した時、辺りがさあっと橙色に染まった。見れば夕陽にかかっていた雲が散り、熟れた柿のような太陽が水平線に沈もうとしていた。遮るもののない場所から見る夕暮れは圧巻で、仕事で疲れた目に染みた。
「すみません。隣、失礼していいですか。他に空いていないので」
「どうぞ」
彼は少し眉を上げただけで、にこりともしなかった。気にせず木製の座面に腰かける。男性にここまで無関心な態度をとられたら普通はむっとするのかもしれないが、不思議なほどどうでも良かった。どうせ彼とはこれきりだ。偶然も二度は続くまい。
一日の終わりの天空ショーは、今日は一際見事だった。
私は子供の頃から、視界を空だけにするのが好きだった。こうして空と海の繫ぎ目を見ていると、真上を見ながらブランコを漕いだり、ジャングルジムの天辺で寝転んだりしたあの頃の軽やかさが蘇ってくる気がする。
波の起伏が夕陽を受けて、一足先に暗くなった海面でキラキラと輝いている。夕焼けが色を濃くするのに比例するように、白っぽく褪せた空が藍色を深めていく。
いつの間にか、隣の彼の存在は私の頭からすっぽりと消えていた。日が沈み、我に返った私が立ち上がるまで、彼は一言も口をきかなかった。
偶然は一度で終わらなかった。三度目からは、偶然と呼ぶのはやめにした。
およそ週に一度の割合で、私達は同じような時を過ごした。彼はいつもいるわけではなかったし、私もいつも定時で上がれるわけではなかった。気が向いても晴れているとは限らなかったし、疲れ過ぎて直帰する日もあった。けれど、彼はその公園にいる時はいつも同じベンチで、隣を空けて座っていた。
聞けば、彼は私と同じように、以前から時折ここに座っていたという。もしかしたら、知らずに何度かすれ違っていたのかもしれない。おかしなもので、そうと知ると途端に親近感が湧いた。とはいえそれは私だけだったようで、彼の方は相変わらず言葉少なで、私の問いかけに短く返事をするばかりだったが。
ぽつぽつと、当たり障りのない話をした。天気の話。仕事の話。実家の話。一人暮らしの苦労話。何となくの了解で、話題は一度にひとつだけだった。太陽が沈み切るまでの数十分にはそれで充分だったし、時には最初ここで会ったの時ように、二人とも黙って空を見ているだけの日もあった。
七度目にして初めての金曜日。座るなり鞄から缶チューハイを取り出した私に、彼が目を丸くした。
「あなたも一本いかがですか」
「下戸なので、お気持ちだけ。気にせずどうぞ」
「じゃあこっち」
初対面の時に飲んでいたから、コーヒーはいけるはずだ。彼は少し戸惑って、結局礼を言って黒い缶を受け取った。何となくカシャンと缶のふちをぶつけ合い、同時に口をつける。
今日の空は、何とも色彩豊かだった。夕焼けの朱が雲を桃色に染めて、空の青を際立たせている。私は一気に半分ほど飲んでから、やっぱり表情の乏しい横顔をちらりと盗み見た。
私の好みにかすりもしない造作だった。顔立ちは可もなく不可もなく、無難の一言に尽きる。痩せぎすだし、微妙に肩幅の余ったスーツはお世辞にも洗練されているとは言い難い。目に入りそうな前髪に、いい加減床屋に行けと言いたくなる。
けれど、何となく。本当に何となく、こういうのもいいかもしれない、と思った。浮き立つような恋でなくても。漠然と抱いていた理想からは遠くても。こんな風に、沈黙が心地良く、同じものを美しいと感じ、取り繕わずにいられる人ならば。
「最初の時にお尋ねするべきことだったのかもしれませんけど。ご趣味は何ですか」
「それを聞かれると困るんですが……実は、特にありません。唯一好きな研究を仕事にしてしまったので、正真正銘無趣味です」
「その研究って、空に関係するものなんですか?」
「いいえ、まったく」
「じゃあ空を眺めるのが趣味なんですね。私もです。お洒落もお酒も好きだし、読書も旅行も好き。でも色々疲れちゃった時は、ここでこうしてぼーっと空を見るのが一番好き」
彼はまじまじと私を見て、ふっとほどけるように目元を緩めた。
嫌々受けた見合いだったから、写真も釣書きも申し訳程度にしか見ていなかった。でも、きっと意気揚々と臨んだとしても、あの見合いはうまくいかなかっただろう。彼のこの透明な静けさとでもいう性質は、明るい日の下ではわからなかっただろうから。
彼がカラになった缶を手の中で弄びながら、静かな声で言った。
「これも、最初の時にお聞きするべきことだったのかもしれませんが。あなたは結婚相手として、どういう人間を好ましいと思いますか」
彼からの初めての問いかけは、ひどく真摯で直球だった。だから私も、まっすぐに投げ返した。
「一言で言うなら、一人でも幸せな人です」
意外な答えだったらしい。彼はゆっくりとこちらを向いて、パチパチと瞬きをした。
「正確には、自分一人でも幸せだけど、私と二人でいたらもっと幸せになってくれる人です」
「幸せにしてくれる人、ではなく?」
「そういう他力本願なの、柄じゃないので」
誰かに手を貸してもらわなくても、今のところ私は私なりに幸福だった。自分で言うのも何だが、顔もスタイルも年収も悪くない。まだ見ぬ誰かのために今あるものを手放すのはまっぴらごめんだったから、結婚したいと思ったことは一度もなかった。
でも、この人となら、私は私のままでいられるかもしれない。傲慢ではなく、自然に、そう思った。
半分海に消えた太陽が、いっそう強く燃えている。昼の虹より鮮やかな空に、しばらく二人で黙って見入った。
あとで聞いたところによると、彼はこの時、一生分の勇気を振り絞ったらしい。
「ここから、夕焼け以外の空を見たことがありますか」
「いいえ。私の家は、ここからは少し遠いので」
「僕はあなたと、ここから色々な空を見る関係になれたらいいと思っています」
少し俯いた彼の耳が赤くなっている気がしたが、夕陽に紛れてよくわからない。
「……その、どうでしょう」
「どうでしょうね」
ちょっとした意趣返しのつもりでした返事に、彼は困ったように眉を下げた。少し意地悪だったかもしれない。
「いい提案だと思います。でも、そこに至るまでには色々とすべきことがありそうですけど」
「例えば?」
「まず、お見合いのお断りを撤回すること」
「確かに」
「あと、お互いもう一度名乗り合うこと。私達、多分お互いの名前も覚えていませんよね?」
目を見開いた彼が、くつくつと肩を揺らして笑った。初めて見た彼の笑顔は、素朴で妙に子供っぽかった。
沈んだ太陽の名残りの光が、みるみる朱を薄め、黄色に、白に、そして夜に変わっていく。
私達はその日初めて、空と海の境目から色がなくなるまで座っていた。そして、今度は月と星の話をしながら、並んで駅へと歩いた。
それが、私と彼の、本当のはじまりの日。
―了―