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たまに通ってたパン屋が来月閉店することになった

 会社帰り、最寄り駅から自宅までの最短コースから少し外れると、小さなパン屋がある。

 夜8時ぐらいまでやってるので、早く帰れた時は立ち寄ることができる。

 私は月に1回か2回、このパン屋に通っていた。いや、そんなに熱心でもないか。月に一度も通わなかった時だってあっただろうな。


 立ち寄ったら、トレイとトングを手に取る。

 夜なのでパンは残り少ないが、トレイとトングを持ちながら、パンを物色するのが楽しい。

 選ぶのはだいたい総菜パンだが、時には昔ながらのアンパンなどを買ってノスタルジーな気分に浸ることもある。

 レジで会計してくれるのは、60代70代とおぼしき男性か婦人。夫婦で経営してるのだろうな、というのは想像がつく。

 忙しいサラリーマン生活の中での、数少ないオアシス的な時間といえた。



***



 ある日の夜、私は久しぶりにこのパン屋に立ち寄った。

 すると、店のドアの横にこんな張り紙があった


『来月末で閉店することになりました』


 寝耳に水だった。

 なんというか、一生続くと思っていた長寿漫画が終わってしまうかのような、長寿番組が終わってしまうかのような、そんな気分だった。


 私はパン屋に入る。今日のレジ担当は奥さんだ。

 トングにいくつかの総菜パンを乗せ、会計をする。

 この時、「閉店してしまうんですか?」と聞きたかったが、私は熱心な常連というわけでも、店主さんたちと知り合いというわけでもない。

 結局話しかけることはできなかった。


 自宅に戻っても、あのパン屋のことを引きずっている自分がいることに驚いた。

 予想以上にショックだったようだ。

 あの店に通っていた頻度はせいぜい月に1、2回。0回だった月もあると思うので、年間にすると20回もないだろう。馴染みの店とはとても言えない。

 あそこのパンがものすごく美味しかったかというと、そんなことはない。良くも悪くも普通のパン屋のパン。美味しいが、この世に無二というほどでもない。

 明日からあそこのパンが食べられなくなりますよ、となったとしても別に私は困らない。数日も経てば、あのパン屋のことなどすっかり忘れて、私の日常は続いていくことだろう。


 なのに、なぜか心が痛む。

 店を閉めてしまうのは年齢的なものだろうか、それとも売上的なものだろうか。

 売上的なものなら、私がもっと通ってたら、閉店を防ぐことはできたのだろうか。毎日通うのは無理でも、週に一度ぐらい通っていたら……いや、そんなことで店の助けになったとは思えないな。

 「パンが売れないわねえ」「閉店しようか」なんて相談をしている老夫婦の姿まで勝手に想像してしまう。


 あのパン屋がなくなっても私は困らない。他にパン屋はいくらでもある。なのに悲しい。

 もやもやした気持ちを抱えたまま、私はこの日床についた。



***



 閉店を知ったその日から、私は以前よりも頻繁に例のパン屋に通うようになった。

 立ち寄って、パンを2、3個買って帰る。

 レジはご主人の方だったり、奥さんの方だったりした。


 心なしか、お客が増えているような気がした。

 閉店の張り紙を見て、「もうすぐ閉店するのなら」と買いに来ている人が多いのかもしれない。


 家に到着して、買ったパンを食べる。

 今夜はクリームパン、ソーセージパン、カツサンド。

 三つも食べると、十分お腹も膨れた。

 味はやはり美味しいが、普通の域は出ない。グルメリポーターみたいに過剰なリアクションをするような味ではない。しかし、どこかホッとする味だ。

 このパンの数々が、あと少しで食べられなくなると思うと、やはり寂しい気がした。



***



 ひと月余りが経った。

 あのパン屋の閉店まであと三日。

 私はこの日をあのパン屋に寄る最後の日にしようと決めていた。

 明日と明後日はおそらく近所の人たちや常連の人たちがこぞって来るだろう。なので、その人たちが来てパンは売り切れてしまうだろうし、そういった人たちに譲るべきだと思ったのだ。


 仕事を早めに切り上げ、会社を出る。

 電車に乗り、最寄り駅に向かう。

 なぜだか、そわそわしていた。今日はあのパン屋に寄る最後の日になる。そう思うと、寂しさとか、高揚感というか、さまざまなものが入り混じった感情が私の中を駆け巡った。


 駅を降りて数分歩き、あのパン屋に着く。

 まだやっている。

 入ると、「いらっしゃいませ」と挨拶が飛んできた。今日レジをやっているのはご主人のようだ。


 他に客はいない。

 トレイとトングを手に取る。

 もう夜なのでパンは残り少ないが、私は心おきなく物色することにした。


 まず、やはりアンパン。夜に食べるには甘くて重いが、買っておきたい。

 続いてカツサンド。肉系も欲しいところだ。

 そして、カレーパン。この三つに決めた。


 私はパンをのせたトレイをレジに持っていく。

 優しそうなご主人が応対してくれる。

 この人に会うのもこれが最後になるかもしれない。

 大人になってもわりと人見知りの気がある私だが、今日は勇気を出すことにした。


「あの、ご主人」


「なんでしょう?」


「私はたまにこの店に来ていたのですが、この店はもう閉店されてしまうそうですね」


 すると、ご主人はにっこり笑った。


「それはそれは、ありがとうございます。そうなんですよ、今月で閉店することになりまして……」


 立ち入った質問かもしれないが、私は閉店する理由を聞いてみることにする。


「何かご事情があるんでしょうか?」


「私も女房ももう70過ぎになりまして、パン作りというのも大変な作業ですから、そろそろ隠居しようかなと思いまして」


「なるほど……」


 売上がどうこうという話ではなくて、私はホッとした。

 実際に、パン作りは大変だと聞いたことがある。

 傍から見ていると、小麦粉をこねて、さまざまなパンを焼いて……と楽しそうな仕事だが、重労働だし、かなり早起きしなければならないと聞く。

 会社員ならとっくに定年退職している年だ。引退もやむを得ないだろう。


 私は礼を言うと、パン屋を立ち去った。

 最後に買った三つのパンは、やはり美味しかった。


 それから数日後、私は会社帰りにパン屋の前を立ち寄った。

 もしかすると「閉店を撤回しました」なんてこともあるかと思ったが、やはりそんなことはなかった。

 店のシャッターは下りていて、『長年のご愛顧~』のお決まりの文句が書かれた張り紙があった。

 やはり閉店してしまったんだな、と私は胸にぽっかり穴があいた気分になった。


 しかし、最後にご主人と話すことができてよかった。

 おそらくご夫婦はこれから悠々自適の生活をするのだろうし、ぜひそれを楽しんでもらいたいと願う。

 それが、常連とはいえないまでも、長年あの店のパンを食べさせてもらった私からのせめてものできることである。


 そしてもし、どこかでご主人や奥さんとすれ違うことがあったなら、「お元気そうで」と声をかけることぐらいはしたい。

 そんなことを思いつつ、私は自宅に向かって歩き出した。






おわり

お読み下さいましてありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 寂しさの中に温かさがあり、素敵な作品でした。
[一言] 何というか、リアルで共感できます。主人公の思考や行動も含めて、あぁ分かるなーって。特に事件というほどのこともない、日常にあるちょっとした感情の起伏を読みやすいリズムで描けていて、何だかとても…
[一言] 近所に、老夫婦が営むケーキ兼パン屋があります。数十メートル先にある、オシャレなケーキ屋には到底叶わないチープなケーキで、2〜300円の値段に相応の味。それでもなぜか、ふとした時に食べたくなる…
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