手放しかける温かさと繋ぎ止める温もり
どうにか周囲からの視線や、押しかけてきた相手への質問、悪意無き悪意の言葉をやり過ごし、ようやく放課後となった。
(……気にしないって決めてたんだけどな)
——釣り合っていない。身の程知らず。
晃晴を見に来た生徒たちが、残していった嘲笑や落胆は、確実に、少しずつ、晃晴の心に傷をつけ続けていた。
どうしたって同じ場所ばかり続けて狙われれば、最初は小さな傷でも徐々に大きくなってくる。
(いや、凹んでなんていられない)
今の自分の位置はここで、これからもしっかりと自己研鑽に努め、いつかは周囲に認められることで侑の隣に立つ。
その為に、落ち込んで足を止めるわけにはいかない。
晃晴が息を軽く吐き出して、気持ちを切り替えていると、
「しっかし、今日は大変だったな」
片手にコップを持った咲がドリンクバーから戻ってくる。
晃晴と咲は、学校の帰りにファミレスに立ち寄っていた。
「……まったくな」
肩を竦め、鼻を鳴らしながら返す。
「友達が悪く言われてんのに、なんも出来ねえんだもんなぁ」
「お前らがいなかったら、間違いなく俺と侑はもっと質問攻めにあってたって」
面倒ごとに巻き込んでしまった申し訳なさを感じつつ、晃晴は「それに」と自嘲気味に笑う。
「現状なにも出来てないのは、俺の方だしな」
言われるがまま、されるがまま、守られるまま、自分でどうにかしたいのに、動けずに友人に頼るがままで。
それが悔しくて仕方がない。
(今の俺は……ただ、侑を悲しませるだけの存在に成り下がってる)
侑の横に立とうと、主人公になろうとした結果がこれならば、こんなに皮肉めいた話もないだろう。
無意識の内に深刻な顔でもしていたのか、咲の「晃晴……」と気遣うような声音にハッとした。
「悪い。忘れてくれ」
「ったく、周りの奴らが見る目無さ過ぎなんだよなぁ、マジで」
「自分を卑下するつもりは無いけど、正当な評価だって」
だからこそ、晃晴は多少なりともダメージを受けているのだから。
(まあ、桜井のような冷静さが全員にあればと思わなくもないけど)
さすがにそれは無理があり過ぎるので、思うだけに留めおく。
ため息をつきそうになり、どうにか堪えた晃晴は手元のコーラをグイッと一気に飲み干す。
それから、面白く無さそうな顔をしている咲にメニューを差し出した。
「ほら。ここで愚痴ってても解決なんてしないだろ。せっかくファミレス来たんだしなんか食おうぜ」
「……だな。美味いもん食って明日に向けての英気を養うとすっか」
「晩飯前だし俺は軽いものでいい」
「帰ったら美味い飯用意してくれる女子がいるんだもんなー。羨ましい」
メニューに落としていた顔を上げ、言葉通り羨まし気な目で咲がこっちを見てくる。
「お前は愛しの彼女がいるだろ。頼めよ」
「バカにしてんのか。ココに料理が出来るわけないだろ。間違いなくオレが作った方が美味い」
「バカにしてんのはお前だしそんな自信満々に言うな」
「……厳密に言えば全く出来ないわけじゃねえ。なぜかチャーハンだけは抜群に美味い」
「1人暮らしの男かよ」
あまりにも残念な友人の女子力にツッコんでいると、ポケットの中がぶるり、と震えた。
誘われるようにポケットからスマホを取り出し、画面を確認して、
「………………は…………?」
表示されていた文字に、理解が追いつかず、受け止めるまでに数秒の間を要し、口から空気のように声が漏れた。
「晃晴? おい、どうした?」
聞こえてくる声もどこか遠くから響いてくる感覚の中、震える手でどうにか画面を操作する。
『突然すみません』
『私はもう、日向くんのお部屋にはお邪魔しないことにしました』
『合鍵もお返しします』
『本当にお世話になりました。色々とたくさん、ありがとうございました』
「これ……」
向かいの席から移動して、隣で画面を覗き込んできた咲が真剣な面持ちになった。
「……っ! 咲、悪い」
「オレのことはいいから早く行け」
晃晴は返事をする間もなく、鞄を掴んで走り出した。
「これで……いいのです……」
晃晴にメッセージを送り終えた侑は、自分の部屋のリビングと玄関を繋ぐ廊下の壁を背に、ずるずると座り込んだ。
力なく手から零れ落ちたスマホが何度も着信を告げる。
侑は音を鳴らし続けるスマホに触れることはなく、傍に置いた鞄から、イルカのキーホルダーが付いた鍵を取り出して、ぎゅっと胸に抱いた。
(決めていたではないですか……晃晴くんに迷惑がかかることになるのなら、自分から距離を置く、と)
だから、これでいい。
そのはずなのに、瞳からは涙が溢れて止まらない。
「まだ、なにも返せて、いないのに……っ!」
電気の点いていない薄暗くて静かな廊下に、慟哭が響く。
「せっかく、友達になれたのに……っ!」
こうすると決めたのは自分なはずなのに、未練がましく泣きじゃくるなんてみっともない。
捨てるにはあまりにも、たくさんのものを貰い過ぎた。
晃晴はそう思っていなくても、侑には輝かんばかりの大切なもの。
(浮かれていたのです……っ! 甘えていたのです……っ!)
だからこうなったと、自分に言い聞かせ続ける。
「私が一緒にいたら……迷惑がかかってしまうから……」
未だに鳴り続けるスマホの画面には『晃晴くん』と表示されている。
「……もう、名前も呼べないのですね」
呼ぶとしても、日向くん。
今までだって学校ではそう呼んでいたはずなのに。
4文字から1文字減っただけの3文字が、どうしてこんなにも、なにかが欠けてしまったように思えるのか。
「……鍵、返しに行かないと」
決意した。
だから、いつまでも縋っているわけにはいかない。
いつの間にか、晃晴からの電話もメッセージも止まっている。
どれだけ座っていたのかは分からないが、侑はようやくふらりと立ち上がった。
「明日からは、また1人なのですから」
そう呟いて、侑は重い足を引きずるようにして、部屋の外に出る。
鉛のようになってしまった身体を無理矢理動かして向かう先は、エントランスにあるポスト。
1歩、また1歩と近づくごとに、心がどんどん冷え切っていく。
ようやくポスト前に辿り着き、冷え切った指先でポケットの中の鍵を取り出した。
さっきまでずっと握っていて、ほんのり温かくなっていたはずの鍵もすっかり冷たくなってしまっていて。
宝物が、大事なものが、鍵を開ける以外になにも意味を持たない無機物になろうとしている。
震える手で、鍵をポストに入れようとした寸前、
「——ダメだよ、ゆうゆ。それは絶対に」
横から伸びてきた手に、腕が掴まれた。
「あ、有沢さん……!?」
突然のことに驚きながら、侑が横に視線をやると、そこには汗だくになった心鳴がいて、更に驚いてしまう。
心鳴は侑の手を離し、大きく「ふうっ」と息を吐き出した。
「ギリギリセーフ。たまたまエントランスを通ろうとしてる人がいて助かったー」
「ど、どうしてここに……」
侑は、心鳴がバスケのサークルに行くと聞いていた。
実際、ダボついたシャツのようなスポーツウェアを身にまとっているし、本来なら今頃練習をしている頃のはずだ。
しかし、汗をかき、息を整えている心鳴は、タイミング的にも、侑がなにをしようとしているかを知って、急いでここに駆けつけたようにしか見えない。
「ゆうゆが晃晴から距離を置こうとしてるって咲から連絡があって、自転車かっ飛ばしてきた」
「……どうして」
「どうしてもなにも、友達が大変な時に呑気に練習なんかしてる場合じゃないじゃん」
あっけらかんと言ってのけた心鳴に侑は俯く。
「……すみません。練習の邪魔をしてしまって。私は大丈夫なので、練習に戻ってください」
「どこが大丈夫なの。今更そんな無理に作ったみたいな笑顔されても信じられないって」
それに、と心鳴が続ける。
「こんなこと、晃晴が望んでると思う?」
「……っ!」
心鳴の真っ直ぐな視線と言葉に射抜かれて、侑は唇を浅く噛んだ。
「……仕方ない、ではないですか。私と一緒にいたら、こう……日向くんに迷惑が……」
俯きながら、侑が弱々しく言葉を並べると、心鳴が分かりやすくため息をついた。
「ゆうゆ。顔を上げて」
声を遮った心鳴が促してくるので、侑はおずおずと顔を上げる。
「ていっ」
顔を上げたところで、額にぺちんと強めの衝撃を受けた。
思わぬ痛みに、侑は目を白黒させ、額を両手で抑える。
「え、え?」
「晃晴が本当に迷惑なんて言うと思ってる?」
腰に手を当てた心鳴がこっちを見上げながら、呆れたような顔をしていた。
「だ、だって……」
「はいはい。だってもなにもない。まあ、これに関してはあたしが言うより本人の口から聞いた方が納得出来るか」
「本人からって……それは……」
今顔を合わせてしまえば、絶対に決心が鈍ってしまう。
そんな勇気も無ければ、さっきの今でどんな顔をしてあえばいいかも分からない。
「大丈夫。あたしに秘策があるから。悪いようにはしないっ!」
心鳴はこっちの内心を見越したように、ニッと歯を見せたのだった。




