噂話
あれから一晩、侑と彼女の従姉妹であるひまりの関係性について考えてみたが、情報が少な過ぎて、今、なにを考えたとしても結局憶測にしかならないという結論に落ち着いた。
やや寝不足気味の晃晴があくびをしながら、下駄箱から靴を取り出していると、
「なあ、聞いたか? 1年の浅宮侑が謎のイケメンと一緒に歩いてたって話」
聞こえてきた話し声に、思わず靴を持ったまま動きを止めてしまう。
「え、マジで!? 浅宮侑ってあの超可愛い子だろ? 妖精みたいな!」
「ああ。その子が昨日、デートしてるらしき姿をうちの学校のやつが目撃したらしいぞ」
「うわーマジかー! 俺密かに狙ってたのに!」
「いやお前が相手にされるわけないだろ。そもそもあんなに可愛い子に彼氏がいない方が不自然なんだし」
「んなこと分かってるっての! けどショックなんだよ! 相手ってこの学校にいんのかな?」
「そこまでは聞いてないけど、浅宮侑と釣り合う男が同じ学校にいるならそいつの名前が知られてないわけないだろ?」
「あー、1年の桜井みたいにか」
「そうそう。けど、彼氏がいるなら今までいろんな奴からの告白断ってたのも納得出来るな」
声が遠ざかっていっても、晃晴はしばらくその場から動けずに立ち尽くしていた。
(そりゃ誰かに見られててもおかしくないよな)
やはり、ゴールデンウィークの時に誰にも目撃されてなかったのは本当に運がよかっただけのようだ。
それにしたって、昨日の今日で学校中に広がっているというのは驚かずにはいられない。
それだけ、浅宮侑というネームバリューの影響力が計り知れないということなのだろうが。
当事者がいないこの場で会話があそこまで盛り上がっているということは、本人がいる教室はもっと大変なことになっているはずだ。
ようやく動くようになった身体で歩き出し、教室を目指す。
数分後には教室の前に辿り着いたが、ここに来るまでのわずかな時間でも廊下のあちこちから聞こえてくるのは侑の話ばかりだった。
教室内に入ると、晃晴の予想は当たらずとも遠からずといった感じで、侑の話で持ち切りなのだが、皆遠巻きに侑を見て話しているだけで、誰も侑に直接話を聞きに行ったりはしていない。
(まあ、それも時間の問題だろうけど)
誰か1人でも直接声をかければ、この状況はいとも容易く崩れるだろう。
「ね、ねえ! 浅宮さん!」
思っていた傍から、教室の中で侑を見ながらそわそわとタイミングをうかがっていた1人の女子が侑に声をかけた。
「はい、なんでしょうか」
周りが自分のことを話していることに気がついていないはずがないのに、侑はまるでなにも気がついていないように振る舞っている。
「え、えっと……聞こえてたと思うけど、謎のイケメンと歩いてたっていう話って本当なの?」
「はい。本当です」
侑が微笑むと、女子は「キャーッ!」と黄色い声を上げ、男子は「ギャーッ!」と絶望的な声を上げた。
それから、諦めきれない男子の1人が泡を喰ったように侑に質問を投げる。
「も、もしかしてその人って浅宮さんの彼氏!?」
「いえ、お付き合いはしていませんよ」
侑の否定に、耳を立てていた男子たちがホッと胸を撫で下ろす。
そんな男子たちの気の緩みの隙間を縫うように、侑の蒼い瞳がこっちを捉えた気がした。
目が合ったのは恐らく気のせいではなく、その証拠に侑の口元は緩やかに弧を描き、
「——ですが、彼は私にとってとても大切な友人です」
慈しむような、はにかむような、表情の侑。
学校一の美少女が、教室内の視線を集める中でそんな表情をしてしまえば、その相手が特別ななにかであることは、十分過ぎるほどに伝わるだろう。
性別問わず、教室内にいる生徒は皆呆けて、静寂を生んだ。
しかし、それもわずかな時間で、すぐにまた女子の黄色い声と男子の絶望的な悲鳴が入り混じったざわめきが爆発した。
次々に侑の元へ「写真はないの!?」とか「この学校の人!?」とか質問が投げられ始めてしまう。
この事態を巻き起こした侑はといえば、なだれ込むような質問ラッシュに戸惑っていた。
恐らく、真面目な侑のことだ。きちんと嘘はなく、ありのままを伝えたつもりなのだろう。
(んのバカ……! そんな顔してれば相手がただの友達だ、なんて思われるわけないだろうが……!)
人知れず頬をわずかに赤くした晃晴は、頭を抱えて立ち上がり、ざわめく教室から避難する。
別に晃晴が逃げる必要はないのだが、気づかれていないにしても、どうにも噂の渦中にいるのが自分なことと、侑の表情と発言が面映く、落ち着かなかったのだ。
逃げるようにして、自動販売機が置かれている場所にまでやってくると、ポケットを探り、財布が無いことに気がつき、顔を顰めた。
思わずため息を吐いた晃晴が、とりあえず顔の火照りが冷めるまで、ここで落ち着こうとしていると、
「よう、謎のイケメン」
咲がニヤニヤとしながら、晃晴のあとを追ってきた。
「うるさい茶化すな」
「そんなつもりはないぜ?」
「顔が全部物語ってるんだよ」
本当にそのつもりがないのなら、鬱陶しいにやにや笑いを引っ込めてから言ってほしいものだ。
晃晴は仏頂面で咲を睨むが、未だに赤く染まった頬では効果はあまり無いらしい。
「まあまあ、いいじゃんか。オレは友達が認められて嬉しいんだよ」
「……別に俺が認められたわけじゃない」
「けど、お前の容姿が整ってる部類だって自信には繋がるだろ? こんだけ大勢にそれが伝わってるんだから」
「単純に学校一の美少女が誰か特定の男と一緒にいたのが珍しいだけだろ。相手が俺じゃなくても絶対こうなってた」
「ったく、それでも目撃した奴がイケメンって流したから謎のイケメンなんて話が上がってんだろ? なら、そこにはちゃんと自信持てよ」
バシリと背中を叩いてきた咲は財布をポケットから取り出した。
「財布持ってくんの忘れたんだろ? 奢ってやるよ」
「……お前の察しの良さ、怖いってかキモいんだけど」
晃晴が目を眇めると、咲が「ひでぇなぁ」と大して気にして無さそうに笑う。
色々と言いはしたが、奢ってもらえるというのは素直にありがたいので、適当に目についた炭酸の名前を口にする。
(……けど、これで……ん? これで、なんだ……? 俺は、今なにを……?)
無意識の内に自分がなにを考えようとしていたのか、その先を探ろうとしたところで、
「——いいなあ。おれにも奢ってよ、咲」
そんな声と共に第3者がこの場に姿を現した。
声がした方に顔を向けると、そこには声から顔、なにもかもが爽やかな雰囲気の少年が、おにぎりを片手に持ち、にこやかに笑みを浮かべて立っていた。
「やだよ。お前は自分で買え、颯太」
颯太と呼ばれた少年は「えーケチー」と唇を尖らせて、おにぎりをほんの数口で平らげてしまう。
それから、柔和な瞳をこっちに向けてきた。
「日向からもなにか言ってやってよ。自分にだけ奢るなーとかさ」
「……いや、俺でも急に奢れとか言われたらこいつと同じ反応すると思うぞ」
「そう言われれば、おれでもそう返すか」
晃晴の無愛想気味な返答に対し、桜井颯太は気分を害したようなこともなく、爽やかな笑みを返してくる。
「んで、2人はこんなところでなにしてたの?」
「教室が騒がしいから抜けてきたんだよ。あとは単純に喉が乾いてたし」
「へえー、そうなんだ。なんかあったの?」
「浅宮さんが謎のイケメンと歩いてたんだってよ。それを本人が認めて大騒ぎ」
颯太の問いに、咲は一瞬だけこっちに視線を向ける。
気づかれるのではないかとヒヤリとしたが、迂闊に咲を睨めば余計に気づかれそうなので、晃晴は努めて無表情を貫く。
幸いにも咲と晃晴の視線でのやりとりに気づくことはなかった颯太は「マジで!? 大スクープじゃん!」と興奮気味だ。
「……そっちは朝練終わりか? 桜井」
この話題を続けられるのは心臓に悪いので、思いついた別の話題を口にし、話を逸らすことにした。
「そそ。って、あれ? 日向っておれがなんの部活入ってるのか知ってるの?」
「バスケ部、だろ。桜井は有名人だから、あまり話したことがない俺のとこにも噂が伝わってくるんだよ」
誇張もなにもなく、桜井颯太はこの学校では侑に並ぶほどの有名人だ。
晃晴より4、5センチは高いだろう、すらりとした細身の体躯に、柔和な整った顔立ちでスポーツテストは1位。勉学の方も5以内に入るほどで、文武両道の爽やか系イケメンとして名高く校内に知れ渡っている。
それこそ、この学校で浅宮侑と釣り合うのは誰かと問われれば桜井颯太の名前が真っ先に挙げられるほどには。
「えー、マジで? なんか照れるなー」
はにかむように笑う颯太の姿を見て、晃晴は女子に人気が出るわけだ、と密かに納得する。
(……多分、こういうやつのことを主人公って言うんだろうな)
僻む気持ちも妬みの感情もなにも思い浮かばないほどに、颯太の立ち振る舞いは主人公然としていた。
「結局本当におれには奢ってくれないわけ?」
「はあ……仕方ねえから奢ってやるよ」
「いよっしゃ! やっぱ持つべきものは友達だ!」
無邪気に笑う颯太は、眩しいものを見るように目を細める晃晴には、気づくことはなかった。




