踏み出す1歩
校舎の中に戻ってきた晃晴は、さっきまで喧騒に満ちていたはずなのに、今は閑散としている廊下を歩いていた。
(……侑はもうカラオケ店に向かったのか? すれ違わなかったけど)
ほぼ一本道ですれ違わないことがあるのか、と疑問に感じていると自分の教室の前に差しかかったのだが、
「あんたマジ調子に乗りすぎだから!」
教室の中から聞こえてきた誰かの怒鳴り声に足を止めた。
(……ケンカ?)
声から察するに、どうやら女性徒が別の誰かに言い募っているところらしい。
忘れものを取りに来ただけだったのに、とんでもない場面に出くわしてしまった。
しかもそれが自分のクラスで行われているということもあり、判断に迷う。
ここまで派手に怒声を飛ばしているのなら、恐らく中には怒鳴っている側と怒鳴られている側しかいないだろう。
さすがにケンカ真っ只中の教室に入るのは気が引けてしまう。
「……一体私のどこが調子に乗っていると言うのでしょうか」
どこかで時間でも潰そうかと考えていた晃晴の思考は次いで聞こえてきた別の声で中断された。
(今の声はまさか……)
間違えようがないのだが、確認するべく、クラスの中をそっと覗き込む。
覗き込んだ先では、聞こえてきた声と違わず、3人の女生徒に取り囲まれた侑がいた。
同じクラスではないが、隣のクラスと合同で行う体育で見たことがあるので隣のクラスの女子だろう。
激情に顔を歪めている正面の女生徒の1人に対し、侑は淡々とした態度を崩していない。
「……っ!」
「私があなたたちにこんな風に絡まれないといけないようなことをしたのですか?」
3人に取り囲まれて圧をかけられているのに、数に臆することなく、侑はひたすらに冷静だった。
見た感じ、侑の正面にいる憤慨している女生徒がリーダー格で、その他は取り巻きといった感じ。
そのリーダー格の女生徒が少しも泰然とした態度を崩さない侑に苛ついたように、更に剣呑な顔つきになる。
「あんたのせいで、あたしはセンパイに振られたんだから! あんたがいたせいで……っ!」
どうやら色恋沙汰絡みでなにかがあったらしい。
聞こえてくる単語から予測するに、あの女生徒が付き合っていたのか好きだったのかは分からないが、その相手の先輩とやらが侑のことが好きで、女生徒が振られてしまった、ということだろう。
(逆恨みじゃねえか)
物語の中でしか見ないような、見事なまでに清々しいほどの逆恨みだった。
立ち聞きしているだけの晃晴のみならず、直接怒りをぶつけられている侑も呆れたといったように鼻を鳴らす。
「つまりはただの逆恨みということですね。人を待たせているので私はもう行ってもいいですか?」
自分が悪いわけではなく、相手の問題だということを理解した侑が、立ち去る意思を示すように、取り囲んでいる3人に半身を向ける。
そんな侑の態度に豪を煮やしたリーダー格の女生徒が、苛立つままに近くにあった机を強く蹴りつけた。
「っざけんな! まだ話は終わってない!」
「こちらからあなたたちにするお話はもうありません。これ以上は時間の無駄です」
「このっ……!」
今まで以上に強く、はっきりとした侑の物言いに女生徒が歯を食い縛り、睨みつける。
(……さすがに止めに入った方がいいか? けど、ここで出しゃばったら逆に火に油を注ぐことになりかねない)
女生徒は明らかに怒りで頭に血が上りすぎているし、部外者が口を挟んだら逆効果な可能性が高い。
ここは慎重に動くべきだろうし、そもそも侑はもう取り囲んでいる女生徒たちに構わず立ち去ろうとしている。
ならば自分が下手に動いて事態を悪化させることは避けるべきだろう。
晃晴は熟考の末、そう結論づけたのだが、
「いいよねっ! あんたは努力も苦労もなにもしなくても周りからチヤホヤされるんだからさぁ!」
その言葉が女生徒から発された瞬間、晃晴は教室の中に足を踏み入れていた。
「浅宮」
声をかけると教室の中にいた4人が一様にこっちを見る。
侑なんて取り囲まれていた時は全く動じていなかったのに今は驚愕で蒼い瞳を見開いていた。
「こっ……日向くん、どうして……?」
「忘れものしたんだよ」
突然現れた晃晴に他の女生徒は目を剥いたまま固まっていた。
そんな女生徒たちに意を介さず、なるべく柔らかい笑みを意識して作りながら、侑を見る。
「若槻たちはもう先に行ってるから」
「……そうなのですか。すみません、お待たせしてしまって」
「いや、浅宮は悪くないみたいだしな」
肩を竦め、ようやく女生徒たちを一瞥した。
晃晴の顔を見た女生徒たちがビクリと肩を揺らして侑までもが息を呑む。
侑が穏便に済まそうとしていたところだったし、ことを荒立てるつもりはないが、それと今女生徒たちに向ける感情は別だった。
今、晃晴の顔に浮かんでいるのは、侑も知り合ってから初めて目にする怒りの感情だ。
慎重に動くべきだ、と結論づけた晃晴を突き動かしたのは、先程リーダー格の女生徒が放った努力も苦労もしていない、という言葉。
それは侑の境遇を知り、努力も知っている晃晴には、どうしても許せない戯言だったのだ。
色々と言ってやりたいほど頭にきているが、ここで余計なことをするよりは、すぐにこの場を立ち去り、女生徒たちから距離を置いた方が穏便に済むだろう。
だが、晃晴には1つだけ気になることがあった。
「……もしかして、浅宮の靴隠したのもお前らか?」
なんとなくだが、女生徒たちを見ていて、あの日侑の靴を持っていた後ろ姿に被るような気がしていたのだ。
言葉は返ってこなかったが、顔に広がる動揺を見るに、どうやら図星らしい。
更に色々と言ってやりたいことが出来たが、深いため息をつくだけに留め、「行くぞ」と侑に呼びかける。
「な、なんなのあんたっ! いきなり入ってきて意味分かんないしキモいんだけど!」
今まで固まっていたリーダー格の女生徒が我に返ったらしく、侑に向けていた時と同じぐらいの苛立ちをぶつけてくる。
「なんなのもなにも、ここ俺のクラスだろ」
首を傾げ、あえてすっとぼけるように言うと、女生徒は剣呑な表情を強くした。
「ね、ねえ。やめとこうよ。相手男子だよ?」
「そ、そうだよ。さすがに靴隠したのとか言い触らされたりしたらさ……」
マズいことしたという自覚はあるのか、取り巻き2人がリーダー格を止めにかかる。
「う、うるさいっ! 相手が男子だからなにっ!? 靴隠したことをこいつに言い触らされても、こんなパッとしないやつの言うことなんか誰も信じるわけないでしょ!?」
一度言い出してしまって、後に引けなくなったのか、リーダー格の女生徒は一瞬狼狽えたものの、仲間の制止を聞こうとはしなかった。
(事実だけど酷い言われようだな)
女生徒の言った通り、学校での晃晴の発言権など皆無に等しい。
ただ、言い触らすつもりはない。
そうまでしてこの女生徒たちと関わりを持とうとも思わないし、なにも言わないからなにも言ってこないでほしい、というのが本音だったりする。
「だ、大体あんたこの女のなんなわけ? まさか彼氏だったりする? だとしたら、浅宮さん男の趣味悪すぎでしょ! ねえ!」
仲間に同意を求めるようにリーダー格の女生徒は騒ぎ立てるが、取り巻きの2人はお互いに気まずそうに顔を見合わせるだけだ。
取り巻きの2人からはそんなことよりも、早くこの場を立ち去りたいという雰囲気を感じる。
しかし、リーダー格の女生徒は仲間の雰囲気には気づいていない。
それどころか、まるで侑の弱点を見つけたと言わんばかりに、こっちを見て意地悪い笑みを浮かべてきた。
「ひょっとして自分が釣り合うとでも思ってる? あんたみたいなクソダサい陰キャが? ぷっは、マジウケるんだけど!」
捲し立てるように喋り、心底バカにするように嘲り笑ってくる。
ずっと自分で分かっていたことだったので、改めて他人から言われても心に波風が立つことはなく、ひたすらに凪いでいた。
ああ、やっぱり周りから見ればそうなんだな、と再認識したぐらいのものだ。
黙ったままの晃晴をどう見たのかは分からないが、女生徒は得意気に、ますます勢いづいて口を開く。
「もしかして勘違いしちゃった? でもあんたがイケてるんじゃなくて、この女の趣味が悪いだけだから! よかったねー? あんたみたいなのを好きになってくれるような女で!」
ひたすらに耳障りで見当違いな言葉を並べ立ててくる女生徒がいい加減鬱陶しい。
(……もう侑を連れて無言で出て行った方が早いか)
もはや相手にするのもバカらしくなってきた。
呆れた晃晴が、侑に声をかけようとするのと同時、侑がリーダー格の女生徒の前に踏み出した。
「あ? なんか文句でもあんの?」
完全に開き直り、高圧的な態度を取るリーダー格の女生徒に侑が感情の読めない蒼い瞳を向ける。
「先に謝っておきます、ごめんなさい。——その上で歯を食い縛りなさい」
「は? 何言っ……んごぁ!?」
女生徒の言葉は最後まで紡がれることはなく、途中で遮られた。
拳を振りかぶった侑が、女生徒の頬を殴り飛ばしたのだ。
殴った侑以外のその場の全員が突然のことに驚き固まる。
殴られた女生徒も一体なにが起きたのか理解が追いついていないようだった。
「……この人はとても優しくてとても誠実な人でとても頼りになる、私の大切な友人です」
声からも表情からも、温度が一切消えていた。
さっきの女生徒のように、剣呑な顔をしているわけではない。
ただ、蒼い瞳の中に宿る凍てつくような怒りの感情はこっちに向いていないのにゾッとさせるほど苛烈なものだった。
「私がなにか言われたりされたりするだけなら、我慢は出来ました。……だけど、晃晴くんを、私のヒーローをバカにするのだけは絶対に許さない」
次いで、侑が紡いだ言葉に、心臓がどぐんっと大きく脈打った。
ごっ、ごっ、と激しく大きかった鼓動がやがてとっ、とっ、という優しく、力強いものに変わっていく。
侑の言葉が身体中に広がっていき、温かな、確かな気持ちへと変わっていく。
(……ああ、そうか。俺は——)
侑との関係やこれからどうするかついて、ずっと霞がかっていたものが、一気に晴れて求めていた答えが胸の中にすとんと落ちてきた。
広がった熱で目頭まで熱くなってきて、どうしようもなくこぼれ落ちそうなものを歯を食い縛って押し留めていると、
「……失礼します」
そう言うや否や、侑が突然自分の鞄を掴み、身を翻した。
どうやら教室を出て行くつもりらしい。
あまりに急なことで、声をかける間もなく、侑が扉の方に向かうのを目で追いかけることしか出来ない。
そのまま教室を出て行くかに思えた侑だが、扉の前で一瞬だけ足を止めた。
なぜか、先に行ったはずの咲と心鳴が廊下に立っていたのだ。
侑は一瞬足を止めたものの、ぺこりと2人に会釈だけして、すぐに咲と心鳴の横をすり抜けて教室から姿を消した。
(追いかけないと……!)
しかし、この場を放置していくのもマズい気がして足が動かない。
果たして女生徒たちが侑が殴ったというのを周りに黙っておくだろうか。
口止めしようにもこっちの言うことなんて聞かない可能性の方が高い。
どうするべきか悩み、足を踏み出せないでいると、
「晃晴。ここはオレらに任せて、お前は浅宮さんを追いかけろ」
咲がそう言いながら教室に入ってきた。
「若槻、有沢……そもそもお前らなんでここに……」
「忘れもの取りに行くにしては長すぎ。すぐ戻ってくると思って待ってたのに全然戻ってこないから」
「んで、オレらが様子見に来たら、晃晴がちょうど教室の中に突入してくとこだったってわけ」
咲が近づいてきて、晃晴の肩にぽんと手を置く。
晃晴が教室に入っていくところから目撃していたのなら、靴を隠したという件も晃晴をバカにしたことも、侑が女生徒を殴ったところしっかりと見ていたのだろう。
いつも通り軽薄そうに見える笑みを浮かべてはいるが、置かれた手には力が入っている。
つまるところ、咲も怒りを露わにしていた。
「ま、大事なところは全部見てたし、悪いようにはしねえから。早く追いかけてやれ」
「……けど」
「……じゃあ聞くけど、晃晴。お前なら男女問わずから人望が厚くて教師からも頼りにされてる優等生とそいつらみたいなやつ。どっちの言葉を信じる?」
誰だってその2択を提示されたら迷わず前者と答えるだろう。
言ってしまえば、さっきリーダー格の女生徒が言っていた、こんなやつの言うことなんか誰が信じるのか、ということだ。
皮肉にも自分で言ったことがブーメランとなって返ってきたらしい。
「大体この目で見たあたしたちだって信じられないのに、こんなやつらから言われても余計にって話っしょ?」
「……ああ。それもそうだな」
どうやら心配は全て杞憂だったようだ。
「ゆうゆ、すごい怒ってるはずなのに廊下走らず歩いて行ったからすぐに追いつけると思う」
「こんな時まで真面目かよ」
思わずぷはっと吹き出した。
そのまま肩をくつくつと揺らして笑ってから息を吐いて、気持ちを切り替える。
肩の荷を降ろすように、ふっと力を抜いて友人に向かって笑いかけた。
「ありがとな。——咲、心鳴。行ってくる」
呆気に取られたようにこっちを見てくる2人の顔が面白くて、もう一度くつくつと笑ってから、侑を追いかける為に教室を飛び出した。
「やーっと名前呼んでくれたなー。これでようやく友達認定されたって感じ?」
「あいつ、自分であたしたちのこと友達って言ったことないもんね」
「そうそう。いっつも知り合い、とか似たような言葉使ってたよなー」
咲は心鳴と顔を見合わせてニッと笑ってから、「さて」と呟いた。
視線の向かう先には未だに状況が飲み込めておらず、呆然としている女生徒たち。
そこを見つめる咲の顔にもう笑顔はなかった。
「手短に済ませるけど。さっきの会話、一部始終を録音させてもらってるから」
録音、という単語を出すと女生徒たちの顔が分かりやすく青ざめていく。
「安心しなよ。こっちの要求を呑んでくれるなら、ちゃんと消してあげるからさ」
心鳴がスマホを軽く振りながら言うと、リーダー格の女生徒が恐る恐る口を開く。
「よ、要求って……?」
さっきまでの威勢は完全に消え去った女生徒に、咲は鼻を鳴らして、告げた。
「なーに、簡単なことだ。——2度とあの2人にちょっかいかけるんじゃね」




