そして、2人は初めてその音を口にする
「あの、よければどうぞ」
飲み物が入ったコップと菓子が数種類入った皿をローテーブルの相手の前に置いた。
「お、ありがとう少年。いやーお菓子付きだなんて至れり尽くせりだね」
提供した相手である侑の叔母がにこにことしながらコップを持ち、ちびりと軽く唇を湿らせるように口をつける。
「あの、それで……叔母さんはどうしてここに……」
「んー? 可愛い姪っ子の様子を見に来ただけだよ?」
「それなら来るなら来ると連絡しておいてください。もし私がいなかったらどうするつもりだったのですか」
「だって侑ちゃん、私が行くって言ったら私に迷惑がかかるとか思って絶対心配しないでくださいって躱そうとするでしょ」
う、と侑が言葉に詰まっているところを見ると、どうやら図星だったらしい。
「それに、近況報告を聞いても問題ありません、とか短く返してくるだけじゃん。本当に大丈夫かどうか、保護者として確認する義務があるんだからね」
急に来られて戸惑っていた侑ではあったが、さすがに自分の方に落ち度があると思ったのか、「ごめんなさい」とわずかにしょんぼりとしてしまった。
「というかどうして俺の部屋なんです?」
侑を見て「よろしい」と満足そうに笑っていた白髪の女性に対し、晃晴は口を開く。
中々タイミングが掴めずに切り出すことが出来なかったが、侑と白髪の女性と晃晴がいるのはなぜか晃晴の部屋だった。
「んー……なんとなくその場の流れで?」
人差し指を顎に当て、こてりと首を傾げられてしまう。
確かに晃晴もその場の流れで部屋に上げてしまったので、そう言われればもう返す言葉は思いつかない。
はあ、とため息なのか納得からくるものなのか自分でも判断の難しい息を吐き、改めて目の前の白髪の女性について考える。
(なんか、不思議な人だな)
見た目は大人っぽくて気品があるのに、子供っぽい仕草といい中性的な口調といいギャップだらけで掴みどころがない。
「おっと、そうだ。お姉さんの自己紹介がまだだったね」
こっちの視線をどう取ったのか、白髪の女性は佇まいを直し、背筋をピンと伸ばした。
「姫川雪です。侑ちゃんがお世話になってるみたいだね」
「いえ、よくしてもらってるのは俺の方ですよ。……日向晃晴です。よろしくお願いします」
「じゃあ晃晴クンって呼ばせてもらうね? お姉さんのことも雪でいいよ」
侑の叔母改め、雪はニッと無邪気な子供のような笑みを浮かべる。
蒼い瞳と白い髪は侑と同じで、そこに血縁を思わせるのに、中身はまったく違う。
いくつなのかは分からないが、見た目だと侑とそんなに離れていなさそうに感じるぐらい若い。
大人と話しているというよりは、本人の口調と仕草も相まって、雪が口にしている通り、歳が近く親しみやすいお姉さんと会話しているみたいに思えてしまう。
しかし、容姿が侑に似ているので、晃晴からしてみれば大人っぽくなった侑がまったく別の口調で話しているみたいでどうにも落ち着かない気分だった。
「よーし、じゃあお互いの自己紹介も済んだところで——」
ローテーブルを挟んで座っていた雪が晃晴たちの方に向かって大きく身を乗り出し、
「そろそろ2人の関係について聞かせてくれないかなっ!」
目を輝かせながら好奇心を隠す気がない声のトーンでそんなことをのたまってきた。
どうやら雪は晃晴たちの関係について実は男女の仲なのではないか、と聞きたいらしい。
雪の言いたいことを理解した晃晴は侑の方を見た。
同じくこっちに視線を向けていた侑と目が合い、侑は呆れたようにため息を吐いた。
「急になにを言い出すかと思えば……」
「だってだって! あの侑ちゃんが男の子の部屋に、なんてこれ以上ないぐらい衝撃的なことなんだよ!?」
「私と日向くんはそういうのではありません。ただの友達です」
侑がきっぱりとした態度で否定しているのに、雪は色めき立つのをやめない。
「えー? それだけにしてはかなり信用してるよね? 侑ちゃんが同性ならまだしも、異性の部屋に無警戒で上がってるなんてありえないし」
「それは日向くんが誠実な人で、信用できる人だって分かっているからですよ」
「おお、侑ちゃんがここまで言うなんて、晃晴クンは本当に信頼されてるんだね」
「大事な友達です。ですので、叔母さんが勘ぐっているようなことはなにもないですよ」
「ふうん。じゃあ、逆に晃晴クンは侑ちゃんのことをどう思ってるの?」
身内である侑の頑なさをよく知っているのだろう。
雪はこっちに矛先を向けてきた。
ちらっと侑を見ると、とても申し訳ない、という顔をしていた。
「……浅宮の言う通りですよ。そもそも俺だってなんでこんなに信頼されてるのかよく分かってないので」
「あれだけ下心抜きに助けられて、信頼しない方が人としてどうかしていると思うのですが……」
どこか不満気な侑が呟いたが、あえてそこには触れないことにした。
微妙にむっとした侑と目を合わせるのはどうにも居心地が悪く、目を逸らす。
だが、逸らした先には侑とのやりとりを見てにこにことしている雪がいて、どのみち居心地の悪さを味わう羽目になってしまった。
「いやー、侑ちゃんが大切に思える相手が出来てお姉さん嬉しいなー」
「あまりからかわないでください。本当になにもないので」
「いやいや、部屋が隣で同じクラスの2人がこうして関わってるんだし、それはもう運命みたいなものじゃない?」
どうしても付き合ってることにしたいらしい。
隣から侑の深いため息が聞こえてくる。
ため息を吐きたいのは晃晴も同じだったが、さすがにそれは躊躇われたので、出てきかけた息の塊をジュースを飲んで押し返す。
事実しか語っていない以上、もうなにも言いようがない。
どうやって納得させたものかと頭を悩ませていると、
「ところで2人って名前で呼び合ったりしないの?」
雪に先手を打たれてしまい、再度侑と思わず顔を見合わせてしまう。
およそ2、3秒ほど見つめ合った後、侑が頭痛を堪えるように指をこめかみに当てた。
「いきなりどうしてそういう話になるのですか……」
「や、単に気になったからね。で、そこのところどうなの?」
「……そういうのは普通もう少し仲良くなってからじゃないですか。私たちは関わるようになってまだ1週間も経っていないのですよ」
「え、そうなの?」
驚いて目を丸くした雪がこっちを見てくるので、こくりと頷いた。
「そっかー。その短期間で侑ちゃんがここまで信頼してるなんて、晃晴クンはよほど真摯に向き合ってくれたんだね」
「はい、それはもう」
「……なんで浅宮が誇らしげなんだよ」
やや口角を上げ、胸を張り、自分のことのように誇らしげにする侑に気恥ずかしさが込み上げてくる。
そんな侑を見て、雪は心から嬉しそうに柔和な笑みを浮かべながら、
「でもね、だからこそだと私は思うんだ」
「どういうことですか?」
意味深な言葉に侑が蒼い瞳をぱちぱちと数回瞬かせる。
雪は侑の反応に笑顔のまま人差し指をピンと立てた。
「仲良くなりたい、なるためだからこそ名前で呼ぶってこと」
「……っ、それは人に言われてすることではなくて、自分が選ぶことだと思います」
一瞬、雪の意見にハッとしたように見えた侑だったが、瞬きの間にはもう表情を切り替え、毅然と言い返していた。
一方の晃晴は、2人のやりとり、というよりは雪を腑に落ちないという目で見ていた。
(俺も浅宮の言ってることが正しいと思うんだけど……)
雪が間違ったことを言っているわけではないとは思っているし、意見についてはそういう考えもあるな、ぐらいだ。
晃晴が腑に落ちていないのは、自分たちでさえ分かっているようなことを、この人が分かっていないなんてありえるのか、ということだった。
雪は飄々としていて掴めないところが多い印象だが、勘違いしてはいけないのは決して頭の回転が悪いわけではないということ。
その点もあって、雪がなにか企てているのではないか、と懐疑的になっているのだった。
「でもそれってさ、相手を信用していくための段階でやっていくものだよね? 侑ちゃんはその段階はもう通り越してて、もっと仲良くなりたいと思ってる……違う?」
「それは……」
ちらっと侑がこっちを見たが、気づいていない振りでやり過ごす。
自分ともっと仲良くなりたい、なんて異性から言われて一体どう反応すれば正解なのかが分からなかった。
努めて無表情を貫いていると、雪がにやりとイタズラな笑みを浮かべるのが見えた。
「あれれ? そ、れ、と、もぉ……まさか出来ないからやってないだけだったりしてぇ」
「……ほう」
わざとらしい煽りに侑の片眉がピクっと動く。
同時に晃晴は雪の目論みにたどり着いた。
名前を呼び合う云々の話題は全て負けず嫌いの侑を煽り、晃晴の名前を呼ばせる布石だったらしい。
(こんな安い挑発に乗ってくれるなよ……)
横目で侑を確認し、不安な気持ちを募らせる。
「……確かに叔母さんの考え方にも一理あるのが事実ですし、その見えすいた安い挑発に乗せられたようでとても癪なのですが、乗ってあげます。決して私が負けたような気がしているのではなく、あくまでも叔母さんの意見にも正しい部分があると認められると判断してのことですから」
明らかに雪の煽りが効きまくっていた。
一息で言い切った侑に、晃晴は思わず頭を抱えたくなるのを堪え、どうにか頬を引き攣らせるだけに押し留めた。
眼前で雪が「おおー」と目を輝かせているのを尻目に、侑がギッと力強く睨むようにこっちを向いた。
「そ、そういうわけで、今から名前で呼びますが、いいですかっ」
「……ああ」
こうなった時点で、退路は断たれているようなもの。
明らかにガチガチに緊張している侑に晃晴は諦念の意を込めながら、短く返事をした。
「そ、それでは……よ、呼びます、よ……?」
一々律儀に宣言してくる侑の緊張が移ったのか、晃晴は無意識のうちに喉を鳴らし、その時を待つ。
やがて、数度の深呼吸を終えた侑が、ぎゅっと裾を握りしめ、顔を赤らめて俯きがちになり、
「——こ、晃晴、くん……」
「……っ」
震える声音で呟かれ、晃晴は言葉を失ってしまい、返事をすることが出来なかった。
背筋に電流が走ったように、名前の付けられない感情が一気に走り抜けていく。
「な、なんとか言ってください……」
「……なにを言えばいいんだよ」
ちらっとこっちを見上げてきた侑と視線がぶつかり、お互いに弾かれたようにバッと目を逸らす。
そのまま、にこにことしているこの状況を作り出した元凶に恨みがましい目を向けた。
「これで満足ですか」
「んー、半分はね」
言いながら、雪が晃晴を指差し、その指を侑へとスライドさせる。
どうやら晃晴も侑の名前を呼んで初めて、完全に満足するらしい。
期待に満ちた目を向けられ、う、と声を漏らしてたじろぐ。
(いやいや、落ち着け。流されるな。この人を満足させないといけない理由はないだろ)
ふっと浅く息を吐き、気持ちを落ち着かせると、はたとスーパーのタイムセールのことを思い出した。
相変わらずにこにことしている雪を尻目にスマホを取り出し、時間を確認し、顔を上げる。
「浅宮——」
そろそろ行かないとまずくないか、と続けようとして、侑を呼んだのだが、
「うん? なにかな?」
なぜか侑よりも先に雪が答えてきた。
「いや、あの……雪さんではなくて……」
「お姉さんも旧姓が浅宮だからねー。浅宮って呼ばれたらどっちが呼ばれたのか紛らわしいかなー」
「俺と同学年の……」
「侑」
「あの、だから……」
「侑」
「……」
「侑」
にこにことしながら侑の名前を繰り返してくる雪に晃晴は再度頬を引き攣らせた。
同時に、この人はまず間違いなく、自分が侑の名前を呼ぶまでこの強引なやりとりをやめることはないだろうと悟った。
そうなれば、タイムセールには間に合わないだろう。
それだけならまだいいが、売り切れで別の店に買いに行かないといけなくなり、無駄な手間がかかるかもしれない。
名前を呼べば避けられる問題か、意地を張って呼ばずに手間を取るか。
2つを天秤にかけ、わずかに逡巡した後、晃晴は堪えきれなくなった深く長いため息を吐き出した。
そんな晃晴を見かねたのか、ようやく羞恥から回復をした侑が雪の暴走を止めようと口を開く。
「……叔母さん、あまりひな……こ、晃晴くんを困らせないでくださ——」
「——侑。そろそろ行かないと間に合わなくなるぞ」
自身を庇い立てようとする声を遮ると、驚きに満ちた蒼い瞳が2人分、こっちを向いた。
その内の1つ、呼ばせるように仕向けたのに驚いている雪に、怪訝な顔で返す。
「なんで雪さんも驚いてるんですか」
「やー、まさかここまであっさりと呼ぶなんて思ってなくてさ。というかまったく狼狽えてないのにもお姉さんびっくりだよ」
雪が心底意外そうにしているが、晃晴は動揺を外に出さないように苦労していた。
(……これでようやく一矢報いたってとこか?)
なんでもかんでも雪に振り回されていいようにされるのは面白くない。
なので晃晴は泰然とした態度を作り、崩さないようにしていた。
雪の反応に自分の目論みが上手くいったことを内心でほくそ笑む。
「単にこうするのが1番早いと思っただけですよ。あまり時間をかけてられないので。……侑、もしあれなら俺が1人で行ってくるけど」
驚いて固まったままの侑に声をかけると、ハッと我に返った侑が軽く頭を振った。
「い、いえ……それは、晃晴くんに悪いので、私が……」
「俺がお前の叔母と2人きりになってどうするんだよ」
「そうですが、ここは晃晴くんのお部屋ですし、部屋主を買い出しに行かせるわけにも……あ、叔母さんは夕食どうされますか? よければ作りますけど……」
「あーいいよいいよ。今日は様子を見に来ただけだし、そろそろ帰るから」
2人のやりとりを愉快そうに見守っていた雪が言い終わるなり立ち上がる。
「今日の迷惑代に食事代はお姉さんが奢ってあげよう」
「そういうわけには……」
身内とはいえ奢られることをよしとしない侑が食ってかかろうとするが、
「いいからいいから。ほら、行くよ」
茶目っ気のあるウィンクと共にさらりといなされてしまう。
眉を寄せて撫然とした表情を浮かべる侑だったが、やがて大きくため息を吐いて、雪の背中に続く。
晃晴もまた侑に倣ってこっそりとため息を吐き、2人の背中を追いかけるのだった。




