表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

唐辛子

作者: 夕闇優子
掲載日:2022/02/03

 晴美が唐辛子を好きになったのはまだ十二歳のときだった。家族で立ち寄ったサービスエリアのフードコートで、三人は蕎麦を食べた。埼玉から福井までは高速道路を使えば五時間で行けるが、どこかで事故が発生したせいかまだ長野を抜け出せない。本当なら今ごろ、晴美は祖父の家でご馳走を食べているはずだった。

 ほんの数十秒、車を降りて冷やされた体に、温かい蕎麦という選択以外は考えられなかった。晴美はエビ天をお(つゆ)に浸し、ふやけた衣を頬張る。子供は寝起きでも揚げ物を食べられるなんて凄いと父は言うが、晴美には到底理解できないことだ。

 母は電話で誰かと話している。おそらく祖父の家だろう。晴美はあとどれくらいで到着するのか分かっていない。さっき父から長野県の真ん中あたりにいることを教えてもらったが、その長野が日本のどこにあるのか、晴美は知らない。晴美はお勉強が大嫌いな女の子である。

 何気なくふと顔を上げた晴美の目に、これまた何気なく父が一味唐辛子を蕎麦に振りかける様子が映る。サービスエリアのフードコートだからだろうか。半分食べ進めて正直飽きてしまったこの味が変わるのを、晴美は内心待ち望んでいた。ビンに手を伸ばしたところで父が何やら囃し立てるが構わず三振り。想像よりやや多く出てしまった赤が丼の中心から円形に広がると、晴美は自身の考えのなさに驚いてしまった。にやけと心配の混じったあの父の顔は今でも忘れない。

 蒔いた種は何ちゃら、みたいな(ことわざ)をこの前授業で聞いた。晴美は意を決して一口。口の中が全体的に痒くて、特に舌先は痺れる。飲み込んだ後も喉の上の方で辛いのが分かり、自然と涙が出る。そして何より美味い。箸が止まらない。結局(つゆ)まで全部飲み干すほど、晴美は幸せを感じていた。

 それから晴美はすっかり辛味の虜になった。中学校の卒業アルバムには辛いものが好きと堂々と書いた。

 高校卒業と同時に晴美は就職した。地元の小さな会社で、安月給を貰いながら働いている。晴美は自身がおそらく結婚できないこと、そして経済的に裕福になれないことを薄々感じていたが、唐辛子さえあれば世界で一番幸せだった。このときすでに毎日小さなビン一つ、つまり十五グラムを朝昼晩の三食で使い切っていたが、唐辛子の値段なんてたかが知れている。こだわらなければ月に千、ニ千円で済むのだ。お洒落も出世も付き合いも全く興味がない。昔は勉強が苦手なことがコンプレックスで悩みの種だったが、幸せがこんなに安価で手に入るのだから不自由はない。言ってしまえば学歴や能力、就職先なんてものは求める幸福の大きさを超えていれば十分なのだ。

 三十五歳で健康診断再検査。その日晴美は怒鳴っていた。自分でもこれが八つ当たりなのは分かっているが、気持ちを制御することができない。食道癌。病院の一室で医師から告げられた病名だった。もちろん原因は唐辛子で、しばらく、いやもしかすると一生禁止になるかもしれない恐怖が晴美を襲った。

 食道癌にならない唐辛子を探すも見つからない。晴美は日を追うごとに明らかに醜くなっていく。

 ある企業が比較的健康に良い砂糖を開発し、世の甘い物好きは歓喜した。それを聞いたある富豪が資金提供し、健康的なサラダ油と塩の開発を目指している。晴美だけが幸せになれない。この先も辛いことが分かり、自然と涙が出る。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ