1,旅立ち前
山の頂点から、大きな眼球がのっそりと顔を出した。一見すれば、目玉を描いた気球が飛んできたかようである。違うと理解するのは簡単だった。瞳孔がぎぎっと動き、その視線が小さな人間をとらえたからだ。
人間は(また、大きなものがでてきたね)とのんきに受け止める。
絵本から飛び出してきたと評したい滑稽な化け物を見ても、捉えられた人間は落ち着いている。
人間たる第一王子【鬼神残響 グレネイドインフェルノ】こと、フェルノにとって、その様な光景は珍しくもない。
ソーサーから持ち上げたばかりのカップを、とりあえず口元へ寄せ、紅茶を一口含む。日の光に照らされた柔らかい白金の髪に、灰褐色の瞳を潤ませる優し気な青年は、カップをソーサーに戻しながら、「お客さんが来たね」と、呟いた。
長いまつげを瞬かせ、視線を救いあげるようにもたげる。首を少し傾げ、目を細める。
動じるどころか、まるで花を愛でるかのような笑みを浮かべた。
「お兄様!」
隣に座っていた妹姫 【火炎再帰 フレイミングサイクル】 こと、フレイは青ざめている。
「なにを落ち着いているのですか。まずは、逃げましょう」
兄のフェルノと同じ髪と瞳の色をし、容姿も男女の違いはあれど、そっくりな妹姫の慌てぶりに、フェルノは苦笑する。
フェルノは今、久しぶりに遊びにきてくれた妹姫と庭先に用意したテーブル席でティータイム中であった。あたたかな陽気の元、さわやかな青空を仰ぎ見ながら妹姫と静かに語らっていた矢先の出来事だけに、少々申し訳ない気持ちにかられる。
「ごめんね、フレイ。せっかく来てくれたのに、私のせいで……」
場違いな謝罪に、フレイは目をむく。
「のんびり謝っている時ですか。お兄様」
まっとうな焦りを見せる妹姫が可愛らしく、フェルノはくすりと笑う。
「大丈夫だよ、フレイ。私たちは一歩も動かなくても、すぐに片付いてしまうよ。私たちは、気にせず、ティータイムを楽しんでいればいいんだ」
大きな物体がずずっと山を越えようと動きだす。風が山から吹き下ろされた。髪が、風にあおられる。さすがのフェルノも顔をそむけた。
妹姫の長い髪もあおられる。彼女は両目をつむり、身をかがめた。
吹き下ろされる風の勢いをかばうようにすっと妹姫の傍に立ったのは、【串刺し多面体 コズミックリベリオン】こと、黒騎士リオンだった。黒髪、琥珀色の瞳を持ち、長身で恵まれた体格を持つ。すべての武器を使いこなし、平民上がりながら必要十分な魔力量を保有する実力者だ。彼は肩に弓を用意していた。
風が止むと妹姫は顔をあげ、リオンを見つめ、はにかむ。フェルノも、遊びにくる妹姫が自分を口実にしていることは理解していた。かといって立場上、リオンは無言だ。フレイも、嬉しそうにはするものの、話しかけるタイミングを逸して帰るばかりだった。
(だれもいないんだから、気にしなくていいのにね)
フェルノには、じれったい妹姫の初恋が微笑ましい。
フレイがはっとフェルノに目を向ける。にこにこと笑む兄にかっと頬を赤らめた。フレイは兄に見透かされていると知っていても、あからさまに見守られても、居心地が悪くなる。
「魔物が現れておいて、私たちがいては、討伐する騎士様方の邪魔になりましょうに!」
誤魔化し紛れに正論をぶつけてきたと兄は察しても、表情は変えなかった。
「私の体質だからね」
「そりゃあ、もう……ここに訪ねるようになり、教えてもらいましたけど……」
このように化け物と出くわすのは珍しい。フレイが魔物と遭遇するのは初めてだった。
「私は、もう見慣れてしまったんだよ」
そう言って、フェルノは手のひらを返す。
「あれは、普通なら手のひらサイズしか見られないんだよ。柔らかすぎることもなく、つまむと眼球らしい弾力がある。
なんという種族だったかな……。
ああ、そうだ、【眼球 サイコ】という魔物だよ。カブトムシぐらいの大きさで、いつも集団でうごめいているのに、あんなに大きなものが一人で浮遊しているなんて、珍しいよね」
小首を傾げてフェルノは笑みを絶やさない。
「お兄様! そんな悠長に解説していないでください。慌てている私の方がおかしいじゃないですか」
たまらず妹姫が悲鳴をあげたので、フェルノは斜め上に視線を流す。そこにはリオンが立っていた。
「逃げる必要なんてないさ。ねえ、リオン」
「はい。フェルノ様」
黒髪に、琥珀色の瞳の無口な男が小さくうなづく。
その時、三人の前にゆらりと影がひらめいた。
サイコはすでに、頭上にのぼっていた。太陽も遮り、目先の園庭に丸い影を落としていた。
フェルノは目を細めた。始まるなと涼やかな気持ちで見守る。出る幕などなく、飄々と紅茶でも嗜んでいればいいのだと、彼はよくよく自分の立場を理解していた。
【凍結劇場 ホワイトライオット】こと、白騎士ライオットは地面に槍を斜めに突き立てた。槍先に定めるは、サイコである。突き立てた槍の柄に、ガンと足を乗せ、曲げた膝に腕を置く。
金髪がたなびき、やんちゃな碧眼が、悪戯っぽく光った。にやりと口角があがる。騎士としては小柄だが、氷に特化した魔力と俊敏性に抜きんでた、持続力高い体力が一目置かれる実力者だ。
足先から魔力がにじむ。白い重たい煙が漏れ出る。炎のそれではなく、氷からもれる重たい冷気を含んだ煙だ。
ピキッと槍が氷結し、氷と化した槍の柄が伸長する。
つららのような氷が伸びて、サイコに刺さりこんだ。
無数の薄氷が割れる音を響かせ、息を呑むより短い時間で、サイコは凍結する。
氷漬けにされたサイコを目にし、リオンが前に出た。かがんだライオットの横に立つ。手にした弓をそっと構える。彼の動きは静かで、無駄がない。
ライオットは終わったなとまぶし気に片手を光を遮るように額に寄せた。
凍結したサイコの左上に、ふわりと何が飛んでくる。見慣れた動きに、「あっの、ばかか」とライオットが忌々し気に舌打ちした。
隣では、すでに弓矢を構えるリオンがその弦を引こうとしている。
性格上、黒騎士は気にしない。気にすることはないと言う。それでもだ。誰かが危ないとなれば、思わず動いてしまうのが、人間ではないか。言い返したくとも、飄々とした個人主義のメンツには通じないと、数年の付き合いで痛感していた。
これはライオットの癖だ。馬鹿なところだと言われても、生まれつきの性格だとつっぱねたい。
ライオットは柄を踏んだ。思うより体の方が反応が早い。サイコまで伸びた氷の棒上を駆け上がった。
愛用の空飛ぶ絨毯にのって、【忌避力学 アンノウンクーデター】こと、魔法使いアノンはふわりとサイコの頭上にきた。黒いローブをまとい、フードも深くかぶっている。濃い紫の瞳がちらりと地面に向く。
眼下には、弓を構える黒騎士と、自ら作り出したサイコに突き刺さるつららのような氷の棒を駆け上がる白騎士がいる。
アノンは我関せずと、するりと絨毯から氷漬けされたサイコにおり立った。絨毯の端を片手でつかみ、もう片方の手で凍ったサイコに触れる。指先から魔力を通じさせ、じわっと氷を解かすなり、その奥深くにアノンは手を突っ込んだ。
ぐにゅりとサイコの肉とも気体ともとれない感触が腕から伝わる。異物感にまだ息を残しているサイコが微弱に震えた。手にぐっと魔力を込めて、数度指先をさわさわと動かせば、丸いガラス玉サイズの核に触れる。
アノンは核をつかみ取り、腕を引いた。目的は手に入れた。つかんでいた絨毯に魔力を込めて、浮き上がろうとした。
腹回りに圧がかかった。ぐっと後ろに引かれ、はずみで手からするりと絨毯が抜け出る。
お節介白騎士がいることを失念していたことをアノンは苛立たしく後悔した。
下からずいっと顔を上向けると、白騎士が見下していた。
(お節介め)
(世話やかすな)
(頼んでない)
そんなかみ合わない感情を乗せた視線を交わし、白騎士は前を向いた。
ライオットは目の前にある、塔最上部にある開け放たれた両開きの窓に狙いを定めた。
魔法使いの胴に回した腕に力を籠める。ぐっとひき寄せ、自身の腰を落とす。両足に魔力と力を込めて飛んだ。
白騎士に抱えられ、アノンは空を飛ばされた。
そんなことをしなくても、黒騎士程度に巻き込まれることはないと自負しているだけに、お節介な白騎士をアノンは邪魔くさく思っていた。
(僕のすることにかまうな)
ぐっと奥歯を噛んだ。
凍ったサイコに向かい、荒っぽい黒騎士が放った魔力を込めた矢が、膨張し迫る。サイコを魔力を込めた肥大した矢が貫こうと予見しても、アノンは面白くない。
爆発や炎を得意とする黒騎士の魔法は荒っぽい。美しくないことが、アノンの美学に反した。
アノンは指先に小さな魔力で正方形の箱を作った。ふっと息を吹きかけるように、飛ばす。ついでさらに上にある絨毯を仰ぎ見る。天に向かって上昇していた絨毯が、ぐいんと鋭角に向きを変える。
絨毯は、塔の窓へ白騎士より早く滑り込むだろう。アノンは魔物の核を握りしめた。
リオンは矢を放った弓をおろす。
炎を伴う膨張した矢は、凍ったサイコめがけて飛んでいく。
白騎士が、魔法使いを抱えてサイコから飛び去った。
サイコに矢が突き刺さる。爆発するはずと思った矢先、半透明の空間が矢を受けたサイコを包んだ。
空間内ではリオンの狙い通り、爆発が起こる。視覚的には捉えられても、音はない。包み込まれた空間に爆発が内包され、サイコの残骸が飛び散ることも、音も風もないままに、サイコは消し炭と化した。
魔法使いの仕業だとリオンはすぐに理解する。爆音や爆風、被害もない。きれいに納めてしまうのは、魔法使いらしいなと笑む。
助けに走ったライオットが考えるより、魔法使いが狡猾であることをリオンはよく分かっていた。
背後で乾いた拍手音がして、振り向く。第一王子が手を叩いていた。軽く会釈をすると、「さすがだね」と笑った。
ライオットが塔の窓を潜り抜ける横を、絨毯がより早く抜けていく。床に身を転がせて、立て直そうと思っていたところに、目の前に現れた絨毯に包み込まれる。
態勢を崩し、魔法使いを掴んでいた腕からも力がゆるむ。
魔法使いは、するりと抜けて、床に立つ。
ライオットだけ、不意な絨毯に跳ね飛ばされて、床に転がった。身を起こし、「いてぇ」と頭に手をのせる。
アノンは窓辺に手をおき、四方を魔力に包まれたなかで、朽ちていく魔物を眺めた。魔物の核を手のひらの上でもてあそぶ。くるりと回し、口にほおりこんだ。魔物の核を咀嚼し、飲み下す。魔物の核は魔力の補充になる。
魔力の箱内が空になったことを確認して、アノンはそれを消した。
何事もなかったかのように、澄み渡った空が広がる。アノンは、塔最上階から広がる景色が好きだ。それだけだった。変わらないまま、それがそこにあれば十分だ。
かぶっていた黒いローブのフードを剥ぐ。淡い薄紫の長めの髪が、吹き込んだ風に揺れた。中性的な容貌は少年の名残を残す。
振り向けば、白騎士があぐらをかいていた。肩膝に肘をおき、恨めし気な目を向けている。
(勝手に助けといて、また自分の行動に後悔でもしているか)
はっと嘲笑に口元が歪んだ。
ライオットは、冷ややかに振り向く、冷たい魔法使いを見上げた。また自分は無駄な行動に走ってしまったと悔やむ。思うより先に体が動く性分に嫌気を感じていた。
(どうしてこう、体の方が先に動くのか……)
自責の念を込め、嘆息した。