1.事のあらまし(2)
アストライア家の公爵令嬢が処刑されてから1週間。
この国の筆頭公爵家の令嬢が処刑されたというのに、国内は今までと変わらない様子であった。市場はそこそこに賑わい、まちにはちらほらと人が出歩き、人々はほどほどに生活を続けていた。
そんな彼らが1日に1度だけ、心躍る時間がある。
正午過ぎ、彼らの耳には麗しい乙女の歌声が響き渡った。
「ああ…聖女様の声…」
「あの赤い瞳で見つめられたい…」
「聖女様!聖女様の声だ!」
ただ凪いだ心で過ごす1日のなかで、この時間だけが国民の心を潤す。
ほの寂しく優しい歌声が、王宮の方向から聞こえてくるのだ。
その声に国民はほんのりと頬を染め、ある者は陶酔し、ある者は涙を流す。特に男たちはこぞって聖女の瞳に見つめられたい、一目会いたいと躍起になる。一方、女たちは歌声を耳にするたび、心が凪いで穏やかに過ごすことができる。
聖女はただ歌うだけで、その声を国内の万民に届けることができる。そうやって人々の心を癒し、潤いを与えることで、この国を支える力となっているのである。
「聖女ミシェーラ」
宰相が、うつろな瞳で、しかし陶酔に満ちた声で、黒髪の聖女に話しかけた。
「2日後、王太子殿下が予定通り留学先から帰国なされます。」
バルコニーから響いていた歌にピリオドが打たれ、聖女は「まぁ」といって頬を桃色に染め振り返った。
「やっと、やっとお会いできますのね…!ああ、私の愛しい人…」
その様子に、うつろな瞳ながらも宰相は目を細めた。恋人を待つその姿は、年相応の少女である。
「殿下が帰国されましたら、ひとまず婚約の議を執り行う予定です」
「あら、すぐに結婚するわけではないのかしら?」
ミシェーラは首をかしげる。
「ええ…王太子殿下には、先の罪人の件をまだ報告しておりません。いくら大罪人とはいえ、筆頭公爵家が喪に伏している以上、婚儀は1年後にし、その間を婚約者として王妃教育に臨んでいただくことになりました」
「そう…そうね、できることならアストライア公爵様にも、お祝いいただきたいもの」
そう頬を染めたまま、ミシェーラは俯く。
アストライア公爵は、娘の死を以ってお家取り潰しを回避した。代わりに国の要職を辞し、今は領地に戻って喪に伏している。アストライア公爵が請け負っていた仕事は、すべてもう一つの公爵家であり王弟殿下であるイレイナ公爵が請け負うこととなった。
アストライア公爵は財務大臣であり、この国の金銭の動きを握る重要な役職だったが、今は聖女による癒しで国庫の不安もなく、これから行われる婚約や婚儀の出費だけ管理しておけばよい。もっとも、その予算の上限は“なし”であるが。
「王太子殿下も、罪人よりも麗しき聖女様を婚約者に迎えられ、お喜びになるでしょう」
「そうだと…よいのですが…」
ミシェーラはそういって両頬に手を当て、身じろいだ。
なんていじらしい、虚ろに赤く濁る瞳で、宰相は微笑んだ。
それから二日度。王宮の門が盛大に開かれ、留学先から王太子アーロンが帰国した。
***
「アーロン、ただいま留学より帰国いたしました」
この国の王太子―アーロンは、病床の父に帰国の報告を行う。
しかし、国王の意識はすでになく、眠るように息をするだけだ。
「…父上、私はこの国の有様に驚きました。あのひどくにぎやかで、活気にあふれた我が国は一体どうしてしまったのか…」
その問いに答えるものはこの部屋にいない。アーロンが7歳の時分に母である王妃がなくなり、以後父王とともに国のため尽力してきた。大陸の帝国には劣るものの、豊かな資源と明るい国民性、そして神々の加護を受け、この国は成り立っていた。
しかし、15歳で留学した直後、原因不明で父王が倒れ、しばらくして聖女が現れたところまでは知っている。その後父王の容体はゆっくりと悪化し、1年もすると意識を保てる時間が短くなっていった。
「あなたは私に一切の帰国を許しませんでした。まだ、意識が長く保てるうちであれば、教えを乞うことができた…」
その間に、この国の人々の”目“は変わってしまった。生気にあふれたきらめきを宿していたはずなのに、みなそろって穏やかに微笑んでいる。言ってしまえば、よどんだ瞳で笑っているのだ。国から迎えに来た師団一行を見て様子がおかしいと思い、国境を越えてからさらに違和感を覚え、王宮に到着したところで宰相はじめ国の中枢のすべてがおかしくなっていた。
「…セレスティナは、何も、何も残さなかったのですね」
到着してここ3年間のあらましを知る。聖女は混乱する人々を癒し、それを害そうとしたセレスティナは有無を言わさず処刑された。アストライア公爵は遠い領地へ旅立ち、連絡を取ろうにも国家反逆罪の疑いがある相手との連絡は取れないといって禁じられてしまった。
今、父王に話しかけている時間、件の聖女が王太子殿下に謁見するため身支度を整えているという。様子がおかしい国民を案じて早く帰りたかったのに、急げという命令も聞かず、師団は予定通りに到着したというのに、だ。
「私は聖女の存在だけを知らされ、その後宰相との手紙のやり取りでも「つつがなく」という回答しか知りませんでした。父上を心配しても遠くの地にいる私では何もできない。ただ勉学にまい進するだけの日々が、こんな結果になってしまうなんて…」
アーロンは手のひらを強く握りこんだ。
どんなに後悔しても、失われた命は戻らない。
アーロンには、セレスティナが聖女を害するようなことをするとは思えなかった。
だからこそ、何も残さず、弁明文もなく、存在そのものがなかったことのようにされたことが不思議でならない。
「父上、私にはまだ神の啓示が聞こえません。どうか、どうか…」
そうつぶやき、父の手に触れた時だった。
『あら…、何も残さなかったのはまずかったかしら。悪いことしたわね…』
虚空に、鈴のような声が響いた。