第70話 少年と兆し 2
ぐー。音が鳴った。飢えている。腹が減っている。きっと、眠る彼もそうだろう。彼はもう何百年も食べていないのだから。
ぐー。腹が鳴った。足りない。なんせ千日紅国までの距離は果てしなく遠い。遠足だ。用意した弁当では、やはり足りなかった。
「こーんにーちはー! 元気してますかー?」
真っ白な長髪を揺らし、両腕を広げながら挨拶する少女。奥にいる男は気怠そうに少女を見る。彼女を認識すると、嫌悪感を露わにした。
「こーんな美人さんが、遠路はるばる来てあげたのに、なんて顔してやがるんですか」
「誰も貴様の来訪には喜ばんよ」
「あはは、アンタさんも似たよーなもんでしょーに」
立ち上がる男。彼は確か今、名を変えている。“晴天”の暁という名で通っているとか、そんなことを考えながら少女は詰め寄った。
「どーです、千日紅国の大将は。気分いーですか?」
「いい加減疲れたよ。だが、それも終わりだ」
暁は、手袋に覆われた腕を見つめる。すると、視線の先を伺うように、彼女が首を突っ込んできた。女特有の良い匂いがした。でもそれだけじゃない、彼の鼻腔をくすぐるのは死の匂い。行く先行く先で、意味もなく死を撒き散らすバケモノの匂い。どれだけ食べても飽き足りない、完成しない。それは彼女が、“飢え”という概念を、自分より大きく継いだせいなのかもしれない。
「で、何しに来た?」
「進捗どーかなーと思いまして。つまってるなら手助けしますよ? ほら、ウチ暇人なんで」
「手助け? 掻き乱すの間違いだろ? 貴様が手を出せば、阿鼻叫喚の渦よ」
「ウチの認識ってどーなってんですか......」
少女は手頃なクッションを見つけると手を伸ばした。ふわふわだ。千日紅国では座布団と呼ぶらしい。それをマジマジと眺める。
「とにかく私は順調だよ。手助けは要らないから帰ってくれ」
「えー、ウチも嫌われたもんですね」
こんな美人なのに、とクッションを抱き寄せる少女。他人から見ればさぞや愛らしいのだろうが、暁はそう思わなかった。千日紅国の頂点まで登り詰めた男が見ても、彼女はれっきとしたバケモノなのだから。少女のバケモノ、バケモノの少女。どちらでも良い。彼女はわざと真っ白な前髪を掻き上げた。額に六花の紋様が浮かぶ。
「それにしても、遠路はるばる来たのに茶の1つもないなんて、ぶれーすぎません? 今腹ペコなんです。ご飯くだせー」
「呼んでないし、私1人で十分だ。帰れ」
「うへー、じゃーてきとーに見繕って帰るとしますか。せっかく来てあげたのに。失敗しても知りませんよ」
すると、忙しなく戸を開ける者が1人。
「晴天様、仰せつかっていた準備が整いました。つきましては晴天様に――」
唖然とする兵を見て、あぁ、タイミングが悪かったな、と諦める暁。自分は彼に報告するよう命じたことを思い出す。で、彼は命令通りここに来た。こんなバケモノと鉢合わせることも知らずに。ほんの少しだけの罪悪感と共に、後片付けのことを考え始める。
「あはぁ......あぁ、あぁ、ど〜しましょ〜! 見られちゃいました! 見られちゃいましたね〜!」
妖艶に頰を赤らめ、にんまりと笑う少女。兵士は呆然としていた。明らかに場違いな少女がいる。自国の着物とは違ったものを纏っていて、そして額の一部が輝いていて、不思議なオーラが放たれていた。少女だ。とても美しくて、愛らしい少女だ。なのに兵士の身体は震える。本能がアレに関わってはいけないと訴えている。
「り、六花の紋様? それにその容貌、まるで貴女は――」
「うふふ、おべんと〜発見! なんですか、なぁ〜んですか! しっかりと用意してくれてるじゃね〜ですか!」
「偶然の産物だ」
兵士の背後でグチャ、と音がする。足元に影ができる。妙な気配がしたので、彼は振り返った。そこにはもっと場違いなモノがいた。太い茎が床から伸びていて、茎から先端へと視界を移すと、まるで無数の食肉植物のようなものがパクパクと口を動かしていて――
「ひ、ひぃ!」
兵士はとっさに抜刀した。その勢いで斬りかかる。情けない声を上げたとはいえ、彼の抜刀術は巧みだった。おそらく長い年月をかけて磨いたものだろう。暁は感慨深く眺める。それが今、失われようとしていた。あくまでも彼は人間。そこが彼の限界。あっさり弾かれて、刀が折れて、気付けば根のようなものが彼の脚を掴んでいて。絶望に歪む顔すら絵画のように見えた。それは隣にただずむ恍惚とした少女の所為か。
「いや、私も毒されているな」
「ねっ、貰ってい〜ですよね〜? 食べてい〜ですよね〜? も〜我慢できません!」
「これは一体なんですか!? 晴天様! 晴天様ァ! 私の手には......お、お助けをッ!」
暁はため息を吐いた。こうなった以上、どうせ止めようが止めまいが変わらない。彼女は獲物をなぶり尽くすだけ。計画をこなすだけの理性はある。でもそれは一定の理性。機嫌を損ねれば本腰を入れて対峙せねばならない。だから、もう止めない。
「......好きにしろ」
「あはは、見捨てられちゃいました。ほらほら、泣いてください。ウチの気が変わるよ〜に、ひっしぃ〜に命乞いしてください。僕を許してくださ〜いって!」
ここで対峙するのは不本意だ。それは彼女も同じだろう。ただ、みんな長年の鬱憤が溜まってるのだ。
「......お、お助けを――」
「必死さが足りません」
「お許しを! お許しを!」
「もっと! も〜っと!」
「ど、どうかっ、お許しをぉぉぉぉぉぉ!」
「いただきま〜す」
趣味の悪い駆け引きもほどほどに、悲鳴が上がる。案の定、血が飛び散った。これで彼女の気がなおるなら安いものだが、さて、この後片付けをどうするか。と、彼は考えながらも手袋を取る。いずれにしても、この少女を千日紅国に置いておくわけにはいかない。これまで自らが築いてきたモノ全てが台無しになる。
「まったく、我らが同胞は手のかかる奴ばかりよ」
手の甲に浮かんだ六花の紋様を眺めながら、そんなことを呟いた。
◆
1週間。たかが1週間でも、久しぶりに感じられた。先週も同じような感想を抱いていたかもしれない。
「......いないのか」
真の意味で一息ついたからか、ゼデクは疲れを覚えた。エスペルトは不在のようだ。ガゼルもいない。とすれば主城の方か。そういえばグラジオラスが別れ際に焦っていた。
これからの行動に思いを巡らす。封筒の中身は確認した。一通の手紙と所在が記された紙。さらに、「これを持っていけ」と荒々しい一文がある。休むのは簡単だが、先に要件を済ませるのも悪くない。何よりも千日紅国との戦が間近なのだから。
「......行こう」
虚しく響く独り言。いや、屋敷なのだから他の世話人は探せばいるのだが。ゼデクは外に出る。眼前に城下町が広がった。対岸には主城がある。坂の上に展開された貴族住宅地をくぐり、城下町へと下っていく。喧騒がいつも以上にうるさく感じられた。千日紅国との戦争が間近なこともあるが、先日まで静かな山奥にいたことが大きいだろう。
「......」
それにしても、だ。所在地を見つめる。
「――“膂力の魔法師団”官舎。建物はあるが人なんかいたか......?」
足を止めず考える。危ないのは承知しているので、時折周囲を見渡して。
“膂力の魔法師団”
ゼデクが生まれるよりもずっと前に名を馳せた魔法師団だ。なんでも序列一位の伝説を持つ男、ペルセラル・ストレングスが率いていた団だとか。でもそれは伝説だった。実際、彼をはじめとした“膂力の魔法師団”が活躍したとされる戦場は少ない。近年では誰も見ていないという。故に、序列一位の存在は伝説上の人物になっていた。
「うん? 待てよ?」
ペルセラル・ストレングス? ペルセラル? どこかで聞いた気がする。それもつい最近。ゼデクは頭を回転させた。で、割とあっさり思い出す。たしか修羅のような男と対峙した時に、レティシアが叫んでいた。
『やめなさいっ! ペルセラル!』
思考が止まる。
「......ははは。まさかな」
我ながら鈍感だと認識する。あの時は生きることで精一杯だったので気付かなかった。いや、普通その空想上の存在を信じないだろう。しかし、彼ならあり得るかもしれない。誰も寄せ付けない強さ。王族にも引けを取らない傲慢さ。あの男なら、自分の師なら......
「どーん!」
「うぉっ!」
思わず間抜けな声を上げてしまう。ゼデクは真正面を見上げた。見慣れた爽やか系男子が立っている。
「君、前向いて歩きなよ......なんてね! 久しぶり、ゼデク」
「......エドムか」
エドム・オーランドだ。すると彼の背後からひょこひょこと他の面々が現れる。
「ゼデクさん! ズルイですよ、貴方だけレティシア様に会いにいくなど!」
「見ろゼデク。さらに洗練された俺の筋肉を――」
オリヴィアにガゼルが詰め寄る。それにゼデクは後退した。威圧感や殺気などカケラもないが、彼らには彼ら特有の勢いがある。
「お、おう。久しぶりだな......」
なんて誤魔化していると、むすーっと不機嫌そうなウェンディが出てきた。彼はゼデクを足元から順に見上げていく。
「......また強くなってる」
あぁ、なるほどな、と彼女が不機嫌な理由を何となく察したゼデクは目を逸らした。すると、彼女は立て続けに言う。
「でも今回強くなったのはアンタだけじゃないから。覚えておきなさい」
「あはは......ところで君、何してたの?」
エドムの問い。半ばこちらの台詞でもあるなんて胸中だけで呟くも、ゼデクは迷う。自分が今から向かう用件は他の人に漏らして良いものなのかどうなのか――
「あー、それはだな......」
ゼデクは躊躇いがちに口を開いた。




